第21話

文字数 4,063文字

メスをいれるとき先端から皮膚の上に赤い血が出る。
当たり前の事、そういつも思っている。
傷をつければ出血する。

それ以前に救命に搬送される患者の多くは外傷を伴う患者が多い。
もうすでに出血している状態である。自ずとその赤い血を目にすることは必然のこととなる。

俺がまだ医学生の頃、遺体による解剖講習を受けた時、不思議とその体内を見るときにはそれほど恐怖感と言うのか、違和感はなかった。

もうすでに死亡している遺体。それはそこに横たわる人体という固形物のようにしか感じていなかったためかもしれない。
しかし、まだ生ている人体から溢れ出る血液を目にする時恐怖感と言う圧迫感を腹のそこから感じる。

なぜかは、わからなかった。

遺体と同じ構造を持つ人体の修復。
そう思えばその恐怖感は拭えるものだと思っていたが、実際は違う。

流れ出すその赤い血は暖かいのだ。

その暖かさがこの人はまだ生きている。そう訴えかけている様に感じる。
そう、人は暖かさを持っている。
それは人体の暖かさだけじゃない、心の中の暖かさをも感じさせるものだ。
人の心の温かさ、魂の暖かさ。それを俺は何時しかこ手に感じるようになっていた。

人、いや人間は暖かい生き物だ。
体もそして心も……

脳死判定は各項目及び基準に沿ってその判断は下される。
その人の心臓はまだ動いている。規則正しく鼓動を鳴らしている。
だが、全ての機能をコントロールする脳は反応がなくなってしまっている。
自発呼吸もない。

人工呼吸器により酸素を体内に送り、今だ動いている心臓がその血液を体内に循環させているに過ぎない。

そして2回目の脳死判定

医師より判定結果が下される。
判定判断告知時間を家族に告げ、その場に立ち会う医師、看護師が深々と頭を下げる。
今まで一生懸命に生きて来たこの人の最後に敬意を表するかのように……

生前の本人の意志により、臓器を提供する。つまりドナーカードに署名がされていた。
これは、本人の意思に元ずく行為であり、そしてその後の命に己の命が引き継がれる……
遺族の同意の元故人の意思を尊重し、その臓器は次の命を繋ぐ

すでに移植コーディネーターによる家族への説明、同意は得ている。
提供者の臓器状態及び提供される臓器を臓器提供を待つ該当患者を選出する。
臓器移植ネットワークに登録している患者から公平に臓器提供を待つ患者を選出する。

ここで臓器提供を待つ患者がその臓器の提供を受けられるかどうかの判断が下される。

たとえ2年3年待つ患者であってもその状態や提供される臓器の適合が判断され感情という概念を抜きにした、まさしく公平極まりない選択方法で該当患者を選出るする。

秋島まどかはこの幸運を摘み取ったというべきだろう。

幸い、発作は何とか収まり彼女自身の手術に対する体力もそして精神力も十分に対応できると判断された。

彼女、秋島まどかにしてみれば間一髪のところで命がつながったというべきだろう。
だが、彼女がまた新たな心臓を受け入れるということは、その心臓を身も知らぬ患者へ己のその(からだ)の一部を提供してくれた人がいたからだ。

その大きな心の……魂のおもいを受け取りまた新たな人生を歩む。

10時臓器摘出のためオペ室へ入室。
臓器摘出チームがオペ室に入室。
故人に対し黙とうをささげる。

臓器摘出には数時間の時間が要する。
各臓器担当の摘出チームが掲示される臓器摘出スケジュール通りに臓器を摘出する。
摘出された臓器は処理をなされ、速やかに臓器を待つ患者の元へと搬送される。

すべては時間との勝負だ。


「モノポーラ、メッツエン」
それではろっ骨を切り離します「ソウ」
ろっ骨が切り離され、まどかの心臓があらわになった。
その心臓を見て
よくここまで耐えてきたものだ。

執刀医が一言漏らした。その心臓を第一助手の後ろから覗き見た。
心房はすでに肥大していた。弱弱しく動くその心臓が俺の目に入る。
まどかちゃん、よくここまで耐えて来たね。頑張ったよ。ほんとうに頑張ったよ君は……

「それでは摘出に入る。サテンスキー、サンゼロピレン」

彼女の心臓につながる血管を一つ一つ遮断し、結紮する。
人工心肺へつながるチューブが装着される。

予定通り、ドナーからの心臓がオペ室に到着する。
「ドナー心到着しました」

「了解。では大動脈を遮断します」

人工心肺へ彼女の赤い血が流れだす。機器は正常に彼女の血液をまた体内に送り出していく。

「うん、問題はなさそうですね。では心摘出します。クーパー、サテンスキー、モノポーラ。もう少し術野を広げてください」
執刀医が第一助手に告げる。

「多少癒着がありますがこの程度であれば問題はないでしょう。メッツエンその部分は慎重に剥離してください」
「はい」第一助手が慎重に癒着部分を剥離していく。

「よし、それでは摘出します」

秋島まどかの人生を、今までの時間を彼女を苦しめていた心臓が体内から取り出された。

俺はその心臓を目にしながら思う。
彼女はあの自分の心臓といつもどんな思いで付き合っていたのだろうかと
ようやくその苦しみから解放された瞬間……いやもしかしたら……

秋島まどかは……己のこの心臓、「壊れかけた心臓」を愛していたのかもしれない。
そして新たな心臓が秋島まどかのなかで生きる。

それはまた新たに生まれ変わる事と同じことだと彼女は感じているだろう。
この瞬間、今までいた……秋島まどかは……別な我々が知らない特別な世界に行ったに違いない。

もう、戻ることのない世界に……

あのとき、病室を出る時、彼女のベッドの横に白衣を着たまゆみの姿を俺は一瞬みた。その時俺は彼女までもまゆみとお袋がいる世界に連れて行ってしまうのかと胸の奥から苦しみが湧き出していた。

しかし、それは違っていたんだ。
まゆみは、苦しみ耐え抜いたまどかちゃんのその苦しみだけを持ち去ったのかもしれない。

まゆみはまどかちゃんに会うたびにいつも言っていたそうだ

「諦めたらそこですべてが終わってしまう。だから絶対に諦めてはだめ」と
そうだった。まゆみは俺にもいつも言っていた

「どんなに苦しい場面に立ち会っても、絶対に諦めてはだめ。あきらめる前にやれることはどんなことでもやる。それでも、だめでも諦める心を持った時

それは……自分に負けた時。

自分に負けた時、その先の光はもうささない。だから新たな光を得るためにも絶対にあきらめてはいけないの」

俺はまゆみを失ってからその現実に背を向けようとしていた。
そうすることで悲しみから逃れらると思っていた。
でもその行為は……俺は諦めていたんだと思う。

もうどうにもならないことだから、諦めるしかないと……諦めて自分から逃げて、逃げて……自分で厚い壁を造り、そこからわざと逃げ出せないようにしていた。

逃げ出せないようにしていたんじゃない。俺は、閉じこもってしまっていたんだ。

まゆみが残してくれたノート
「あなたにはまゆみ先生が残してくれたこのノートの本当の意味を知るにはまだ早いわ」
秋島まどかは俺にそう言った。

今、何となく彼女が言ったことの意味が少し解りかけてきたような気がする。
今の俺ではまだ早すぎる。
まゆみが俺に託した本当の真実とまゆみの想いを受け取るには……

「田辺君。君も少し手を貸してくれないかな」

執刀医が顔を上げ俺の目をまっすぐに見つめている。
「そんな、私にできることなんて何もありませんよ」
「いや、大切な仕事が残っているんだよ」
そう言いながら執刀医は自分の立ち位置から少し逸れ俺にその位置に立たせた。

秋島まどかの体内にはドナーから提供された心臓がしっかりと繋がれていた。

「彼女のこの新しい心臓を君自身の手で確かめてほしんだ。彼女がまたこちらに戻ってこれるように」

相当の疲労を表に一つも出さず、その目は物凄く優しい目をしていた。
まるで、俺が最後、彼女、秋島まどかを蘇らせるかのように……

そっと彼女の新しい心臓に手を触れる。まだ血は通っていない。少し白身を帯び始めたこの心臓に触れる。

「戻っておいで……まどかちゃん」

一言その心臓に呟き

「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」執刀医に一例をした。

執刀医は軽くなずき
人工心肺フローダウン
徐々に新しい心臓に赤みが帯びてくる。

「うん、大丈夫そうだね。カウンターショックいくよ」
心臓にパドルをあて
「それでは行きます。離れて……」

「ドクン………」
心電図のモニターに鋭い波形が描かれる。
そしてまた平坦な一本のラインが流れる……

数十秒間……

長い間隔……ほんの数十秒間。
静まり返るオペ室……誰もがその心臓に神経を集中させている。

「ピッ、」
一瞬のその音を耳にして、彼女の新しい心臓を見つめる。

「ピッ、ピッ、ピッ……」
規則正しい音と共に波形が描かれ始める。

秋島まどかの新しい心臓は……自ら鼓動をし始めた。

「おお……」
オペ室に歓声が沸いた。

今にでも切れそうな緊張感が温かい感情に変わっていく
「大丈夫そうだね」
秋島まどかの心臓は元気に力強く動いていた。

閉胸し、ステープラでカチカチと縫合する。最後の一つを止め
「終了」と執刀医が安堵の声で言う。

「お疲れさまでした」一斉にスタッフ全員が声をそろえた。

「田辺先生、彼女がここまで頑張れたのは君たちのおかげだよ」
執刀医が言う

「君たち……」

「そう、君と亡くなった石見下まゆみ先生のおかげだよ」

「彼女は諦めなかった。だから今がある……」

その言葉に俺は深々とこのオペと闘った執刀医に頭を下げた。

この時一つの道が開けたような……壁の隙間から新たな光が差し込んだような気がした。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み