第4話

文字数 3,357文字

 時に災害時には予想もつかない事態が救命の現場を錯乱させる。
 高速道での多重事故。負傷者暫定50名。
 北部救命センターは既にパンク状態。
 順次ここ城環越救命センターにも負傷者が搬送される。
 事故災害の場合搬送される患者の容体は刻々と急激な変化を遂げる。重傷者についてはその変化は死の淵から脱することが不可能になる事もありうる。

 そんな中、新たにエマージェンシーコールが鳴った

 こちら北部消防レスキュー
 15歳男性、野球練習中にボールが左側頭部に直撃。
 打撲時は意識はありましたが、我々が到着した時、急激に意識レベル低下しました。
 現在自発呼吸無し。瞳孔反応触れません。
 血圧は低いですが何とか保っている状況です。
 北部救命センターは先の高速道での事故傷者により受け入れできないとのことです。そちら城環越救命センターにて受け入れを要請したいのですか……
 
 処置室に鳴り響く消防隊員の声。その情報を訊き石見下がホットラインの受話器を中岡から受け継いた。
 「意識が無くなってからどれくらいですか」
 「およそ10分ほどです」
 「まずいわ硬膜下血腫だとすれば時間は残り少ない。田辺君……」
 石見下が俺の目を刺す様に見つめる。
 もうすぐ高速道事故の重傷者が搬入される。正直何名搬入されるかは検討が付かない。それに付け加え、硬膜下血腫の疑い。処置を急がなければその少年の命はない。
 「任せられるか」俺は石見下に言う。
 「ええ」彼女の返す言葉には自信があると言うのが感じられた。

 「わかった受け入れろ」

 そう言い残し俺はナースの仁科を引き連れヘリポートに向かった。
 ヘリはすでに着陸を済ませていた。
 搬入される傷者をストレッチャーに移す。その時手首に付けられているトリアージ・タッグを見る。カラーはレッド。氏名欄には伊藤正雄。年齢56歳、男性
 傷病名には「胸部圧迫内破裂有」の文字。開胸はされていなかった。

 ストレッチャーを移動しようとした時吐血し始めた。
 数台分の救急車のサイレンがこだまするのが聴こえて来た。
 処置室に入り術台に負傷者を「いち、に、さん」の掛け声とともに移す。

 すぐさま輸液のライン及びセンサーのラインは装着された。
 心拍血圧等の数値がモニターに映し出される。
 「伊藤さん、解りますか伊藤さん……」ナースが患者に名前を呼びかけるだが反応はない。
 胸部エコー、ブローブを胸部に滑らせる。だが、その造影一帯はうまく映し出されない。
 その後モニターの電子音は音を変えた。
 「VFです」
 「開胸する。心タンポナーデだろう」茶褐色の消毒液が塗られ、手渡されたメスを入れる。
 助手に立つフェロー中岡が術野を覗き込む。
 「田辺先生……」中岡が一言俺の名を及ぶ。腫れあがった心臓を目にしたからだ。
 「ああ、まずは出血部の吸引だ。それから心のう液ドレナージを行う。」
 中岡が慎重に溜まった出血液を吸引する。だがまた血液は滲みだしてくる。
 そこへ非番だった医師、波村徳史(なみむらとくし)がやって来た。

 「遅くなってすまん。どんな具合ですか?」
 「心タンポナーデです。その他臓器からの出血が見られます。緊急ドレナージを行うところです」
 彼はモニターと術野を瞬時に観て
 「私が変わりましょう。田辺先生は不測の事態に備えてください」
 「解りました」俺のいた位置に波村医師が立つ。俺は中岡に「こっちは何とかする。お前は次の負傷者に付け」
 中岡は一言「解りました」といい今術台に移された負傷者に向かった。

 波村医師は俺よりも先輩の医師になる、しかも心臓外科を専門とする医師だ。この場合キャリアのある医師に任せた方がリスクが低い。俺はサブに回る。
 だが、いくらキャリアのある心臓外科医師であっても現に小刻みに動いている心臓に針を刺す事は高リスクを招く場合がある。心臓本体を傷つければ大量出血はまぬかれない。
 慎重に波村は心膜に針を差し込む。血液の交じった心のう液が排出される。
 「血液が交じっていますね」そう言って心膜にチューブを差し込んだ。
 「心拍戻りました」モニターを管理する看護師が言う。
 「ふう、まずは心タンポナーデは何とかなるでしょう。後はその他の出血部ですね」
 「はい、ですが胸部エコーでは特定部位は確定できませんでした。CT後オペ室へ移動した方がいいでしょう」
 「うん、今の状態ならまだ猶予はあるでしょう。ではCT室とオペ室の確保を」
 看護師が確認を取る。「両方確保できました」
 「では移動しましょう」慌てることなく冷静な口調で波村が言う。
 救命の術台はの数は限られている。しかも搬入される負傷者の人数はまだ解らい。すでにストレッチャーの上で処置を開始している負傷者もいる。

 その中に頭部に打球を受けた少年もいた。

 その少年の処置をする石見下の姿を見る。「どうだ」一言声をかけた。
 石見下は冷静に
 「やっぱり硬膜下血腫を起こしているわ。開頭します」 
 空いた術台にはすでに次の負傷者が移動されていた。
 「そこでやるのか」
 「ええ、ここでやるわもう待っていられない」
 石見下は自分で開頭セットを準備しメスを持った。その行動に寸分の迷いも感じられなかった。彼女はものの数分で頭蓋骨に穴をあけ血腫を排出させた。
 溜まっていた血腫が頭部からあふれ出る。
 手慣れたものだった。今までどれだけの経験を積んできたんだろうか……
 血腫によって圧迫が抜けると通常は意識が戻る……はずだ。
 だが、その少年の意識はまだ戻らなかった。
 石見下の表情が曇る。
 暫定的だが再度頭部エコーをかけ、少年の頭部にブローブを走らせる。
 特定の箇所ではなく頭部全体を素早くカバーするように。
 そして一言「まずいわ」と漏らした。
 「田辺君、CTすぐにかけれる?もしかしたら別なところにも血腫があるかもしれない。もしくは先天性の脳腫瘍の可能性もある」
 「脳腫瘍?」
 「ええ、今回の衝撃でその腫瘍が破裂した可能性も考えられる。まずは検査しないとはっきりとは言えないけど」
 「解った。まずはCTに回そう」
 「ええ、お願い。それと出来るだけ体を冷やしておいて」
 そういい石見下は次の患者にその身を投じ始めた。
 
 俺はその姿を見ながら、ふとなぜ石見下が医者を目指したのかを思い出した。
 そう、彼女の姉まゆみの姿に憧れそして嫉妬していたことを。
 
 隣りの術台で当直明けの笹西が懸命に心マをしていた。
 その傷者のタグはレッド。
 二十歳そこそこの女性だった。
 「戻れ、戻って来い……」かれこれ10分は心マを繰り返していた。
 「笹西、笹西……もういい」俺は笹西の手を掴んでいった。
 右大腿部静脈破裂による大量出血、右部骨盤骨折、すでにもう瞳孔は拡散していた。
 手遅れだ……大量出血による出血性ショック。
 現場で応急処置は施されていた。損傷した静脈をクランプし出血を抑えていたが、間に合わなかった。
 例え心臓が復活しても、脳へのダメージは限界を超えていただろう。
 つまり植物状態となり回復の見込みは皆無に等しい。いわば脳死の状態だ。

 笹西が懸命に心マを行なってもその鼓動は再び鳴らなかった……

 そこへホールで処置をしていたレジデントの岡中亜依子(おかなかあいこ)が声を上げ処置室に入って来た。

 「誰か、誰か来てください。患者さんが急に意識を失って……」
 涙を浮かべながら取り乱した彼女の声を訊きホールに出るとフェローの植田卓(うえだ すぐる)が診察していた。
 「どうだ……」
 「胸が苦しいと言ってすぐに意識が無くなりました。血圧低下、心拍微弱です」
 「まずはストレッチャーに乗せて移動だ」
 
 傷者の状態はその時、何ともない様に見えても時間の経過とともに急変することがある。
 その現象は様々だ。今、この現状で一人一人のその変化する状況を詳細に把握することは困難に等しい。
 「肝静脈からの出血の疑いがある」

 直ちにオペをしなければこの患者は死ぬ。
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