第12話

文字数 3,621文字

組織というものは足並みをそろえなければどうも統制が取れないものらしい。

その足並みを崩し一歩前に出るものは即座に目をつけられ、つぶしの対象となる。

この大学病院という異質な体制の中では派閥といういう表現を使えばおのずとその構図は浮かび上がる。

裏を返せば大学病院だけがこのような事が起きている訳ではない。

政界、大手企業、もっとへりくだれば小学校の虐めにもにたような、そんなものだと俺は思っている。

俺自身、こんな派閥の群れの中に己を投じ、常に上司の顔いろを伺いながら自分の地位を確保しようとは思ってはいない。

かといってその組織の中からとりわけ目立つような動きをしようとも思わない。
もし、この大学病院という世界で、高い位置から下界を見渡したいという野望があるのなら、その進む道と行動は違うものになるだろう。

俺は俺、……俺は現場で患者と向き合う事を信念に決め業務に向かっている。


先に50代の女性が搬送されてきた。

ストレッチャーから処置台に患者を移動させる。

「一、二、三」掛け声とともに患者は処置台に乗せられた。
「Aライン取ります」

モニターの端子が患者の胸部に付けられる。

「バイタル、血圧90、心拍80、」

看護師が救急隊の情報から患者の名前を呼ぶ

「斎藤さん、斎藤敦子さん……」
だが反応はない。


「斎藤さん服切りますね」剪刀で衣服を切り患者の裸体が露わになる。

胸部エコーを撮るがハッキリとした所見は見受けられない……

「まずは頭部からCTを取ってみましょう」

常見教授が指示を出し一旦「斎藤さん」はCT室へと運ばれた。


続いて小学生くらいの幼い男女二人が同時に搬送されてきた。

「雪ちゃん大丈夫」

ストレッチャーの上で男の子がきょろきょろしながらもう一人の女の子を心配している。

その子の胸には矢が刺さっていた。

「雪ちゃん!」

女の子は意識がない。

その男の子が呼びかけても女の子は反応しなかった。

男の子は「高橋悠馬」君。そして女の子は「前田雪」ちゃん。

「悠馬君、あまり頭動かさないで」

看護師が雪ちゃんを心配する悠馬くんに注意する。

救命の笹西が

「悠馬君、君胸にいま矢が刺さっているんだ。痛くないのか?」

その状況に対して彼はまったく何も感じていない様だった。

「うん、何も痛くないよ。だから早く抜いてよ」

「痛みが無い……」俺が呟く様に言った。

「バイタルは今安定している。もしかしたら……」

女の子の処置を行いながら理都子が言う。

「むこうで、アメリカにいた時搬送されてきた患者に同じような状態の人がいたの。もっともその時は鉄パイプだったけど」

「アドレナリンによる興奮状態で痛みを感じなかったんじゃないのか?」

「始めはそれは考えたわ、まずはCT撮ってみないと……」

「解った、そっちの方はどうだ」

俺は理都子に女の子の方の状態を訊く。

「こっちは何とか落ち着かせたわ。でもオペは必要ね」

「そうか……」

斎藤さんのCT画像が送られてきた。

その画像を常見教授はじっくりと考察する。

「やはり……」と一言つぶやいた。

「脳梗塞です。しかも広範囲で深層も深い、これではオペ適応外です」

その画像が映し出された端末を俺の方に常見教授は手渡した。

それのデータを見る限り、やはりオペ適応外であることは、はっきりと確認できた。

「せめて骨折部の処置だけでも行ないます」

俺が処置しようとすると尾形部長が一言

「どうせ、もう意識も戻らないでしょう。仮固定で十分ですよ」

「しかし……」

「しかしもないでしょう、この患者はもう二度と意識は戻らない。つまりベッドから起き上がる事さえないということですよ。幸い骨折は単純骨折です。固定だけすればそれで充分です」

それでも俺はやれることは、やれるだけこの患者に施してやりたかった。

だが部長の言う事もあながち間違いではない。この患者はもう二度と目を覚ます事は無いのだから……

斎藤さんは人口呼吸器を付けしばらくICUで経過を見る事となる。

実際、あとは親族の判断にその後の事は委ねられる事となる。

CT室から連絡が入った。

高橋悠馬君の意識が急に無くなった。

搬送された時点では悠馬君は痛みを何も感じていない様だった。
バイタルも安定していた。

悠馬君はすぐさまオペ室に移動された。同時に血液検査も行われる
そして、麻酔科により全身麻酔の準備が進められる。


悠馬くんの緊急オペの準備は速やかに行われた。


平行して悠馬くんのCT画像が送られてきた。
常見教授がその画像を見つめる。


「なぜ、この子はこれだけの傷を負いながらまったく痛みを感じていなかったんだ」

「前に私も担当した患者にこのような症例がありました」

理都子が常見教授に言う。

「その症例は何だったんだね、石見下君」


「先天性無痛汗症」


理都子が一言その症例を言う。

「ええ、極めてまれなケースです。ふつう無痛汗症の場合。幼児期での死亡率が高い、ですが中にはその難を逃れ成長する人もいるのが事実です」

先天性無痛汗症。痛みを感じない。一見羨ましい様に思われるが、痛みは人が生きて行く上では重要な感覚だ。

痛みを感じるからこそ、その異常や変化を察知し対応が出来る。また痛みを感じないがために自らの体を傷つけても、その重要度や痛みを感じる事による精神的抑制が掛からないという状態になる。

つまり、何か病気や怪我をしても自ら感知できないという事だ。

悠馬くんに刺さった矢は左側胸部から肝臓左葉を貫き横行結腸を巻き込んでいた。

肝臓には多くの血管がめぐらされている。そして肝静脈の一部を損傷し出血していた。

「かなり難しいオペになりそうですね」

「ふぅ、そうだな。君に任せられるかな田辺君」

常見教授から言われ一瞬躊躇したが、今瀕死の淵にいるこの少年の命を消すわけにはいかない。

「解りました。私が執刀します」

覚悟を決め、その戦いを受けた。

「私が第一助手として入ります」理都子が率先し、名乗りを上げてくれた。

「解りました。後、不測の事態を考慮して私も立ち会いましょう」


「教授が……」思わず声に出して言ってしまった。


その常見教授の言葉を聞いて尾形部長が

「何も常見教授ともあろうお方がオペ室に入らなくとも、経過でしたらモニターでもご覧いただけるのに。何なら私が入りますが」

と、怪訝そうに言う。

「尾形部長、いくら教授職と言えども私も外科医ですからね」

尾形部長の肩に軽く手を添えながら言う。

こんな時でもこの大学病院というのは駆け引きが横行している。

手洗いをしている時、常見教授がこう言った。

「石見下君、物凄く懐かしい感じがするよ。君のお姉さんとはよく一緒にオペをしたものだ。それが今は妹の君と一緒にオペをするようになるとはね。それに田辺君も心強いだろう」

「そんな事ありません常見教授。私はまだまだ駆け出しです。姉には及びません。それに田辺先生には、いつも姉が見守ってくれていますので……」


「見守っている……そうか」教授はそう呟く

俺はその会話を黙って聞いていた。

基本形に折りたためられたサージカルガウンに手を通す。側近の看護師がガウンの後ろ紐をしっかりと結ぶ。

マスクを付け、ゴーグルそしてルーペを装着する。

その後グローブが入った外袋を開け滅菌コートを解き放ちグローブを手に装着する。この時、グローブの端はガウンの袖口に被せるようにしっかりと装着する。

何度も、いや日常行っているオペ前の準備。

この準備の時俺はすでに己との戦いが始まっている。

オペは患者との戦いではない、そこに待つ病理へ挑む自分との戦いだ。

弱い自分はこの時自分の心のメスで切り捨てる。今ある、その戦いに向かう事だけに集中する。

救命でのオペはほとんどが緊急オペとなる。患者の親族にすれば気持ちの余裕などない。

悠馬君の両親にIC(インフォームドコンセント)を行った時もその動揺は隠しきれない。母親の顔は色、表情が瞬く間に消えうせ、意識させも別の世界に取り込まれた状態になる。

そのような状況であってもICは行わなければならない。

その時親族から受ける医師のプレッシャーは計り知れないほどのしかかる。

オペ室に入ると悠馬君は何事もなかったかのように術台の上で横たわっている。
執刀医である俺は定位置に付く。

麻酔科の医師が

「バイタル安定、患者の状態が特質ですが、麻酔は確実に効いています」
「解りました。それでは始めます」

「メス……」


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