第38話

文字数 3,149文字

「まずはいきなり来てこの場で、皆さんの協力を得られることに感謝いたします。それでは始めます。宜しくお願いいたします」
「よろしくお願いいたします」
 正体不明のこの医師の声にスタッフ全員が声をそろえて返す。
 彼のその存在感がすでにこの場にいるスタッフの意志を統一させていた。
 麻酔科の医師の方に目線をやり、その医師が頷くのを確認して
「メス」
 不思議だ、器具出しの看護師も初めて彼と組むのにその的確な受け渡しは何だろう何年もすでにチームを組んでいたかの様な感じにも見えた。
 それ程彼、今このオペの執刀医を行っている医師の指示が的確であり、そしてその先に先にと指示が看護師にオーダーされる。
 その言葉を的確に訊き動くことで、ぎこちなさを消えうせさせているのだろう。
「オペは詰将棋だ」
 その言葉の通り、もうすでに彼の中ではこのオペの手順は、はるか先の事を想定している。
「大動脈遮断、オンポンプ」人工心肺が動きだす。チューブに透明な輸液のあと真っ赤な血液が流れだした。
 この患者が搬送されて来た時、その心臓は悲鳴を上げていた。VF、心室細動(しんしつさいどう)心臓が小刻みに動き、いわば痙攣をお起こしている状態だった。除細動によって何とかバイタルを取りもす事に成功した後、すぐさまCT画像を造影しその患部の状態を診ながらしばし、彼は目を閉じた。
 すべての準備が整い執刀を開始してから、すでに胸部切開、心臓がその姿を現していた。
 その心臓を見ながら「うん、イメージ通りだ。行ける」そう呟き心膜の切開に入った。
「第一助手さん。僧帽弁の再建術に入る。そちらからもアプローチをしてください」
「はい」とだけ返事をして私は返す。
 オペの前、手洗いをしている時も私は彼とは話をしなかった。いや私の口は開かなかったし、そして彼の口も閉ざしたままだった。
「お見事! うん、その手の動きに迷いはないね」
 そう呟く様に彼は私に向けて言う。その彼の手は決して止まる事は無い。
 瞬く間に僧帽弁はその欠落した形状から本来あるべきその形に作り直されていく。本来この状態であれば人工弁に切り替えるのが一般的だが、彼はあえてそれを選択しなかった。
「なぜ人工弁に切り替えなかったんですか?」
 私も呟く様に訊く。
 彼もまた呟く様に返す。
「うん、人工弁に切り替えるのはその選択肢の一つだろう。でも出来るだけ人工的な機器はいれたくない。この状態であれば僕であれば再建は可能範囲だ。それに今回は残念だが、この人はまた子供を産める。仮に人工弁を使えば出産時の心臓への負担は大きい、それに耐える事が出来るかどうかも問題視されるだろう。しかし、今自分のこの心臓でこの再建が出来れば、その負担は大幅に軽減される。未来あるこの人に、また未来と幸せを与えてあげたいんだ……生きる力と、そしてこの世にまた新たな活きる力を送り出してもらうためにね」

 何か少し感じが変わった。
 歳を重ねたから? いいえ、違う。何かその言葉の奥に感じる重み。して、彼が今まで何をしていたのかを想像させるようなその手技と眼光。
 以前の彼とはその言葉の意味自体に大きく重みの差を感じさせられた。

「生きる力と、そしてこの世にまた新たな活きる力を送り出してもらうためにね」

 その言葉が私の耳に残る。彼はいったい今まで何処で何をしていたのだろうか?
 まるでいつも生と死の狭間にいるようなそんな感じにも聞こえた彼の言葉
「さてこっちはもう終わった。そちらはどうかな?」
 思考回路を途中で止められたかのような彼の言葉にまたその催促? とも思われる様な言われ方。変わっていない所は変わっていないんだ。
 そんな安ど感をいささか持ちながら
「もう少しで終わります」
「そうか、随分腕を上げたようだね。それに、一篇やりのイノシシが、前に突き進むような感じが、いろんなところに気が付くようになったのはいい事だ」
 そう言いながら彼は心室中隔を覗き込むように見始めた。
「やはり……」
「やはりとは?」聞き返す様に呟く。
心房中隔欠損症(しんぼうちゅうかくけっそんしょう)だ。これが原因で僧帽弁に負担がかかっていたのかもしれないな。まだ時間は大丈夫そうだな、一気に行くぞ。メス、モノポーラ……」
 心臓を止めておける時間は限られている。今まで、弁の修復術を行い時間は取られている。しかし、並の外科医よりもはるかに、その時間は短縮されていた。彼の手はすでにもう次の段階へと動いている。
 心房中隔欠損症。つまり心臓の右心室と左心室を隔てる壁に穴が開いているという状態だ。それを今からまた修復しようとしているのだ。
「い、今から心房中隔欠損症の修復を行うなんて。もう時間が無い、それに危険すぎる」
「だから? だから、このまま放置しておけば、またこの患者の心臓はまた同じ経過をたどるだろう。それに再度時間をおいて行うより今行う方がはるかにリスクは少ない。さっきも言っただろ。この患者の未来を今救うんだってな」
 そんな事を言っている間にすでに彼の手は中隔の縫合に入っていた。
「笹山、今できる事を、今できる最善の処置を怠るな」
 クーパー、彼がパチンと糸を切り離す。
 心筋、心膜を縫合し、瞬く間に患者の心臓は元の形に収まる。
「遮断解除……」慎重に血液が流れこむその様子を見ながら「漏れはないな」
 と一言いい、心臓が鼓動し始めるのを待つ。
 ドクン、と跳ね上がる様な波形が現れその後、小刻みな波形がモニターに映し出さあれる。同時にけたたましい音を発する機器。
「VFです……」
 彼は何も慌てる様子もなく「除細動、120Jチャージ」
 セットされた除細動器がかすかな音をたて
 チャージ完了!と言う声と共に
「離れろ」パドルをその心臓にあてがう。ドクンと心臓が脈打つ。
 そして……ピッピッと規則的な音と共に波形がモニターに流れ出す。
 その後再度、その鋭い眼は心臓に向けられ、再確認をし
「よし閉胸する」
 最後まで彼は一切手を抜くことなくこのオペをやり終えた。
 最後のステープラーのパチンと言う音を響かせ
「胎盤の処理の方は任せる。頼んだぞ笹山」
 そう言い残しグローブを外しオペ室を後にした。
 その背中を私は追う様にして見つめる。あの頃のあの懐かしい背中を思い出しながら。変わらぬその背中を見つめていた。

 オペが終わり、患者をICUに搬送した後、私は彼奴の姿を探した。病院の中を探し歩いた。だが、彼奴の姿を見つける事は出来なかった。
 諦め、いつものラウンジに行きコーヒーを飲もうとした時。奥のソファーでガラス越しの空を眺める彼奴の姿をやっと見つけた。
(あきら)」大声で彼奴の名を叫んだ。その声はこのラウンジの中にこだました。
「やぁ、ゆみ。久しぶり」そんな大声にも動ぜず、彼奴は片手をあげて黙ってその青い空を眺めていた。
「久しぶりじゃないだろ! 朗、いったいあんたは今までどこに……」
 怒りにも似た声を遮るように朗は私の躰を抱き寄せその口を自分の口でふさいだ。
 一気に力が抜ける……そして、自然とあふれ出す涙が私の頬をつたう。懐かしい朗のその柔らかい唇に私の唇が触れる。いろんな想いが一度にあふれ出した。
 今まで溜めていたものがあふれ出す。止める事が出来ないくらいあふれ出す。
 そっと離れ、彼のその黒い瞳を見つめ、一言朗に言ってやった
「馬鹿……」と
 それが朗に届いたかどうかは分からないが、また空を眺め
「日本の空は青くて綺麗だな。ただいまだ、ゆみ」

 そして朗は私の口を自分の唇で再びふさいだ。


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