遠雷と岩魚  

文字数 3,943文字

 
 何処か遠くから雷鳴が聞こえる。
 空を見上げれば、確かに怪しく、それらしい雲が県境の山から覆い被さるように押し出してきてはいる。が、今にも降り出しそうとか、稲光が映るとか、そんなに暗い空というのでもないし、雨の降りだしそうな気配も、そう強くは感じられない。
 新緑の季節、久し振りに山へ行きたいという欲望を抑えきれないほど、最後の山歩きからもうかなりの時間も経っていた。
 行こうか、行くまいか、朝暗いうちに目が覚めてからもう何時間も迷い続けていた。早く決断しないと時間的な余裕が持てなくなるよなぁと、次第に焦りのようなものが生まれ、昨日、いつでも出かけられるように準備しておいた道具を、車のトランクに、一つ一つ確認しながら放り込む。
 那須山塊の外れの林道終点に辿り着いたのは、正午少し前のころであった。
 先行者であろうか、そこには一台の軽RⅤ車が停められてあった。
 この人は山頂まで行ったのかなぁ、山頂まで登るのは無理だなぁと諦めてはいたし、引き返す時間と相談しながら歩けばいいさと、朗は新緑の渓間の奥に顔を覗かす山頂を見上げながら、そう重くは無いリュックを担いで歩き始めた。
 遠雷はまだ続いていたが、何とか天気は持ちそうな気がした。
 新緑の香りのようなものに満ち溢れている林道を行けば、知らず知らず目に涙が溢れてくる。
 こんな天気だもの誰にも行き遭わないよなぁと、朗は独りの空間と時間を満喫していた。
 小一時間も歩いたころ、少し空腹を覚え、コンビニで求めた唐揚げ弁当を広げる。
 山で食うお弁当はいつも美味しいと、まぁ傍から見ればがつがつと戴いているように見えるのであろうが、そんなことはこの山の中、何も気にすることは無いし、山で独りで食べる飯はいつでもこのように美味しく大満足なのである。
 心なしか、遠雷の音も小さくなってきたように感じたが、狭い渓間の空を流れる雲は相変わらず怪しげで、時折暗い雲も早い風に乗って流れていた。
 この登山道を歩くのはこれで三回目かなと、朗はそう遠くはないその時の記憶を辿るのであったが、特段の愛着とか、そういうものが自分の内に生まれることは無かった。
 名も知らぬ山草の花などを撮影しながら行くのであったが、突然「こんにちわ」という明るい声に驚き振り返ると、渓流釣りの青年がカメラを構えた朗の後ろで人懐っこくほほ笑んでいた。
「あっ、ああ、こんにちわ」と驚きを隠さず明るく挨拶を返す。
「釣れましたか?」
「はい、晩酌の御肴くらいは」
「岩魚で一杯ですか、好いですねぇ」と笑うと、「岩魚、好きですか?」と微笑みを返してくれる。生き生きとした瞳、好青年のようである。
「山小屋なんかで何度か食べさせてもらいましたが、僕は好きかなぁ」
「塩焼きもムニエルも旨いですよね」
「それに岩魚酒」
「ははは、やはりそれが一番かなぁ」と、酒好きなのか、若者は相好を崩した。
「僕は、岩魚酒の酒浸しになった岩魚も大好きでね、それを抓みながら岩魚酒をチビチビやるんだけど、少しみみっちぃ後ろめたさがまた好いんだなぁ」
「ハハハハハ、今度やってみようかなぁ」
「是非」と悪戯っぽく勧めるが、「よぉっし」と、何事にも感けないその笑いが、また好印象を齎す。
 しばらく楽しく話していたが、なんだか空模様が怪しくなってきた。
 見上げる空に流れる黒い雲が、今にも降り出しそうな予感と不安を孕んでいた。
「降ってきそうですねぇ」
「ああ、来るね」
 言い終わらぬうちにポツンぽつんと降り出した大粒の雨は、すぐに勢いを増し、新緑を叩き出した。
「戻りますか」と青年が訊く。
「いや、どうせ通り雨だろうから、雨具を着込んで雨を楽しみます」と朗が返すと、青年が、「ハハハ、いいなぁ、そういう楽しみ方」と、またあの微笑みを浮かべた。
「じゃぁ」と互いに挨拶を交わし別れてきたが、何かほっとするような温かさが朗を包んでいた。
 大粒の雨は、新緑の木々を揺らし一瞬吹き荒れた強い風と共に上がり、空の雲は流れを速め、瞬く間に青空が広がり始めた。
 降り注ぎ始めた日差しに蒸し暑ささえ感じ、朗は雨具を脱ぐとビニール袋に押し込み、リュックに戻した。
 新緑が雨に洗われ、一段とその輝きを増すと、鳥たちの囀りが急に五月蠅く谷間に響いた。
 少し急な登山道を、息を切らせながら登り詰め、小さなピークに辿り着く。
「今日は此処までだな」と、朗は背中のリュックを下ろすと、地べたにシートを敷き座り込み、スポーツドリンクをゴクゴクと煽るように飲んだ。
 普段はそんな飲み方はしない、が、こういう時は、その飲み方をするのが好きなのであった。
「ぷはーっ」と吐く息が、なんとなくの満足感を与えてくれる。
 ふと過った不安のようなものに促され、「さぁて戻ろうか」と、朗は唐突に思った。
 その故知れぬ不安のようなものが、心の内に騒めく。
「まぁ兎に角少し急ぐか」と心の中で呟きながらゆく。
 先ほど登り詰めた急坂を、「こんな時ほど用心だよなぁ」と、自分に言い聞かせながら慎重に下り、また急ぐ。
 この不可思議な不安は一体……。
 自分の中でそう繰り返し問いかけながら、いつもよりは少し歩を速め登山道を戻って行く。
 車を置いた林道の終点まであともう少しだなぁと余裕のようなものも感じ始めたとき、「おーい」という助けを求めるような声が聞こえた。
 立ち止まり耳を澄ますと、確かに……。
 右側の崖下かららしい。
 覗き込もうとすると、その端当たりの土が乱れている。
 まさかと、嫌な予感が走る。
 身を乗り出して七、八メートルほどの崖下をのぞき込むと、先ほどの青年が倒れ込んだまま手を振っていた。
「大丈夫かっ」
「はい、さっきウエダーを下ろして診て見ましたが、大したことは無いと思うんです。ですが、岩に強く打ち付けた左足が痺れて動きません」と、意外と明るい表情で語る。
 朗は、もしもの時のために携行しているサブザイルをリュックから引っ張り出すと、腕ほどの太さに木に縛り、しっかりと固定をし、崖を降りてゆく。
「どうやら骨折はしていないようだね」
「そのようですが、左足が……」
 どうやら、落ちたはずみで岩に打ち付けた足の骨が強く痺れているのであろう。
「とにかくこの崖を登って道まで上がるぞ」
「はい」
 朗は青年を背負うように自分の身体に縛り付け崖に取りついた.
「すみません、そこに生えている山独活を採ろうとして、さっきの雨で緩んだ土で滑ってしまって……」と、背中の青年が謝っている。
「山独活の美味しさの誘惑かぁ、解るなぁ。でも大したことはなさそうだし、人間、相身違い、まぁこれが二人の縁だよ、気にすることなど何にもないさ」
「すみません」と、青年がまた背中で呟いた。
 そんなに苦労することも無く道まで這い上がる。
 朗はザイルを解くと、「どうかな、支えてあげるから、まっすぐ立って歩いてみるか」と青年に話しかける。
「はい」
 朗が肩を貸すと、青年がまた「すみません」と謝っている。
「ハハハハハ、もうそのすみませんは止めなよ」
「はい」と、照れ臭そうに青年が笑う。
 肩を貸したり、支えの手を出せば何とか歩けそう。どうやら重傷ではないようだ。
「時間が経って痺れが取れれば大したことはなさそうだね」と朗が言うと、
「はい、すみません」と、同じような応えが返ってきた。
「ははははは、またすみませんだ」
「すみません」
 目で笑い合い、「ハハハハハ」と笑いだす声が、谷間に明るく響いた。
「待ってなさい」と、朗は鉈を手に登山堂脇の藪の中へ入り込んでゆくと、適当な枝振りの木を探し出し、簡易的な松葉杖を一本拵えた。
「脇の下にしっかり挟んでみてよ」と言いながら、歩きやすい高さに調整する。
「少し歩いてみて……」
「はい、すみません」
 また互い目を合わせて笑いあう。
「魚籠などの釣り道具は僕が持つから、君は身軽なそのままで少し歩いてみようか」
「はい」
「もう登山口まではいくらも無いから、無理しないでのんびり行こうか」
「すみません、折角の楽しい時間を僕のために」
「ははは、口が悪いようだが、大したことも無さそうだし、僕は、君には申し訳ないけど、ちょっぴり楽しいかな」
「ハハハハハ」
 また二人の大きな笑い声が谷間に響く。
 大分油汗をかいてはいるが、何とか自力で歩けそうだ。
「行けそうだね」
「はい、助かりました」

 大変ということも無く、車のある広場に着く頃には、もう一人でも心配ないかなと思われるほどになってきていた。
「大分痺れも収まってきました」と、青年がウエダーを脱ぐと、踝辺りが紫色に変色し少し腫れている。
「車、運転できるかな、無理なら病院まで送ってゆくよ」
「大分痛みも痺れもかなり収まってきましたし、オートマですから、何とか運転できそうです。実は、僕、病院勤めなんですよ、整形もありますから……」と、青年は何かバツ悪そうに声が小さくなった。
「……」
 朗は一瞬言葉を失った。
「ハハハハハ」と、また目を合わせて一層の大声で笑いあう。
 別れ際、青年は、「これッ」と、魚籠の岩魚を入れたクーラーを朗の前に置いた。
「そんなこと気にしないでよ」
「それから、電話番号教えてください」
「お礼とか、そんなこと無しにするなら教えなくもないけどなぁ」
「はいっ、お約束します」
 朗は、自分の方からそう申し出ようと思っていただけに、二つ返事であった。
 この青年の持つ何かが、自分を惹きつけているのだ、人と人との出遭い、そんなものを大切にしたい青年との出遭いであろうと朗は確信していた。

 翌日の夕刻、スマホの着信音が響いた。
「おっ、来たな」とスマホを取りあげると、朗は嬉しさを抑えながら「やはり」と心の奥で呟き、スマホを取り上げた……。

     只今推敲中!


 

 
 
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