岬にて

文字数 2,871文字

 岬にて

 梅雨明け、重雄は久し振りに海を見たくなった。
「ここから先は歩きかぁ」と、このところの忙しさで少し疲れている運動不足の身体を厭いながら、そんなには大きくもない愛用のリュックを担ぎなおすと、小高い丘に遮られ、微かに香り来る汐風を感じながらも、まだ見えぬ小さな岬からの海の風景を、青く晴れ渡った空に想い描いて歩き始めた。
 昨日調べた地図によれば、まぁ、三十分もあれば辿り着けるだろうと、気楽に構えた「ピクニック」、のんびり行くさと、自分に語り掛け、重雄は久しぶりの汐風の匂いを胸いっぱいに吸い込んでから、綺麗に整備された小道を歩き始めた。

 何ゆえ急に海を見たくなったのであろうか……。
 それは、先日見た夢。
 あの夢の海の風景は、「千々石湾」のあの青い海に違いない。
 朝目が覚めて、夢の記憶を辿ろうとした時、ふと、心の奥で重なりゆく記憶の欠片に行き当たった……。
 あの時、そう、就職が決まり、二日後には故郷を離れるという日だった。ふと、故郷を離れる前に、もう一度あの断崖の岬から千々石湾の風景を目に焼き付けておきたいという感傷に囚われた。
 久し振りに見る千々石湾の蒼い空と海に感動しながら、「ここから跳べば、確実に死ねるだろうなぁ」と、漠然と死を想い、大好きな牧水の歌を口遊み、そして涙した。
 ははは、その小さな岬に、死にに行ったという訳ではなかったし、来週から始まる見知らぬ街や新しい生活への憧れも心の中に強くあった。が、その断崖の端から見た蒼い空と海の絶景は、若い重雄の心の奥に騒めく「死への憧憬」を呼び覚ますには十分な感動と恐怖感が存在したのであろう。
 故知れぬ涙、独りぼっちの岬。
 時の流れゆくのも忘れ、いつまでもその涙は止めどなく沸き上がり来、内なる感傷に耽る。やっと、帰らなければと気づいたのは、早春の冷たい風を、菫色の夕暮れが運んできたころであった。
 腕時計を見ると、帰りの最終バスに間に合うには、歩く時間を入れると、疾うに過ぎていた。
 歩くことに焦りのようなものは感じなかったが、町へ戻れる国道のバス停までは、恐らく二時間近くはかかるだろう。
 淡い夕闇の中を一人で歩くのは少し心細く切なくもあった。が、運良く、地元の人の車に拾われ、バス停まで送ってもらえたのであった。
 その人は、重雄が、「自死願望」を抱いてあの岬に行ったのだ、そして死ぬことができずに……。と、勝手に思い込んでいたらしく、ほとんど黙したまま車のハンドルを握っていた。
 恐らく、その人もまたそういう思いを抱いてあの岬に立った経験があるのかもしれないと、重雄もそれを感じて話しかけづらく、自分からはほとんど何も言いだすことは無かった。

「ふふふ」と、重雄ははその時のちょっぴり気まずかった空気を思い出し微笑んで、そして、今はもう面影さえ薄くなってしまったその人に、小さくお礼の言葉を呟くのであった。
 細い道を辿ってゆくと、狭い広場みたいになったところに、板切れを打ち付けただけのような小さな祠が祭られてあり、尺ほどの大きさの石の地蔵が鎮座していた。
 台座に刻まれた年号は、もう時代の流れに風化して、よくは判別できぬ文字を何とか読み取ろうとしたが、それはもう不可能のように思え、合掌して一礼するとまた岬に向かって歩き始めた。
 岬であろう切り立った崖の上の草地と、水平線に続く青い海が見えたのは、小さなピークを過ぎたときであった……。
 それは、まるで突然のように感じられた。
「わぁーっ!」
 思わず感動の叫びが口をつく。
 絶景!
 正に「絶景!」
 その言葉しか思い浮かばない風景がそこに在った。
 小走りになりそうな自分を抑えながら、重雄は不可思議な空間へ踏み込んでゆく自分を感じ、何か危険の予感に戦き、緩やかな下りの道を歩を緩めながら確かめるように下っていった。
 蒼い空を仰ぎ、そして、切り立つ急崖に切り取られた海の風景を一服の絵を見るかのように、立ち止まっては眺め、また歩いては立ち止まって眺めしながら、ここからは少し急な下りにかかろうかという岬の高みに辿り着くと腰を下ろした。
 岬の先端まではあと少し、二百メートルもないであろうか。
 かなり汗ばんだ身体と頬に、緩く穏やかな湿気を帯びた汐風が優しい。
 水筒の水を一口、ごくりと喉に流し込むと、周りの風景を舐めるように眺め、背中のリュックを傍らに下ろし、買い求めてきた弁当とお茶を取り出す。
 弁当はお世辞にも旨いとは言い難かったが、そのことに不満が湧くことはなかったし、この風景の中で弁当を戴くことができる充実したそのひと時の方が、重雄には何よりに思え、在り来たりの御数の一つ一つ、御飯の一口一口を噛みしめながら食べ進めてゆくのであった。
 こんな充実感を感じながら食事をするのは久し振りだよなぁと、重雄は独り暮らしのアパート生活を思い起こし、思わず微笑むのであった。
「御馳走様」そう言って弁当とお茶のボトルをリュックに戻すと、もう直午後にかかろうかという少し眩しく暑い日差しの放つ穏やかさに身を任せ、リュックを枕に仰向けに寝転ぶと、その風景の醸し出す雰囲気に浸ろうとするかのように目を閉じた。
 
 いつの間にか寝入ってしまったらしく、目が覚めたのは、一陣の冷たい風に頬を嬲られた時であった。
「雨!」
 重雄は、直感的に雨に向かうであろう空気の湿りを感じ、少し焦り気味に身体を持ち上げた。
 空を見上げると、沖合の空に黒い雲が大きく広がり、もうその先端は重雄の頭上にも達しようとしていたし、黒雲の下の海は既に驟雨に煙り、襲い来るかのようにこちらへと向かっている。
 天気予報の、ところによっては雨、というのは此処のことかと勝手に納得し、重雄は苦笑いを作って見ると、岬の先端に立つことをあきらめ、踵を返した。
 が、驟雨が重雄を包み込むのに大した時は要らなかった。
 簡易合羽を激しく叩きつける雨の音が、重雄に少なからずの焦りを与える。が、合羽の内側が汗で濡れてくるころ、重雄は己を取り戻し、雨に追われるような足取りを止め、「まぁいいか」と微笑みながら、小径を流れ下ってくる雨水と、戯れ半分歩いてゆくのであった。
 やがて雨も次第に勢いを落とし、それほど苦になるものでもなくなり、すぐに収まるであろう降り方になり始め、空も次第に明るさを増してきていた。
 車まで戻れば着替えも積んであるしと、余裕の生まれた重雄は、岬の方角を振り返った。
 岬の方角の視界は、驟雨の残していった湿気を帯びた霧の帳に遮られ、そこに広がっていたあの明るい風景の趣は、その欠片さえも失っていた。
 
 下着までびしょ濡れ、狭い車の中で身を屈めながら着替え終わると、展望台にもなっている駐車場でそのまま仮眠を摂る。
 目覚めると、もう辺りは暗く、金星であろうか、ひときわ輝く大きな星が、いつの間にか晴れ渡り、微かに明るさを残した群青色の空に煌めいていた。


   *まだ書き出しで、乱文剝き出しですが、公開状態にして推敲しながら書き進めてみようと思います。
 
 
 
 
 
 


 
 
 

 
 
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