早春、死に逝くとき

文字数 3,270文字

 
 まだ二月、立春を過ぎたばかりだというのに、今朝は妙に暖かい。
 三十キロばかし離れた温泉地から朝一番の列車に乗って、懐かしい故郷の駅に降り立った。
 何十年振りかで嗅ぐふるさとの朝の匂いは、春の兆しのような陽気に、優しくも感じられ、少し心が落ち着いてゆく。
 立派になった駅前の橋を渡ると、町並みに足を踏み入れてゆく。
 その町の風景は、何もかもが小さく感じられた。
 歩きながら、啓之は気づく。そう、町が小さくなったのではなく、自分が大きくなってしまったのだということに。フフフ、と微笑みを零しながら、町のあちこちに残る、懐かしくも香しいあの頃の面影が散見されるのを探しながら、啓之はしばしのタイムスリップを楽しむのであった。
 バスターミナルは、昔と同じ場所ではあったが、昔の面影とはかけ離れた近代的な建物に変わっていた。
 町から少し離れた城山というバス停に降り立つ。
 これから登るその山は、そう高くはないし、ゆっくり歩いても三時間足らずで戻ってこれる。
 戦国の時代、狼煙台が在ったというこの小高い山に登るには絶好の天気だなと蒼い空を見上げた啓之は、少し衰えてきたらしい自分の身体を厭いながら、早春の遅い陽光が山の端から差し始めた谷あいの道をゆっくりと歩き、そのリズムに合わせるかのように遠い昔の記憶を辿ろうとしていた。
 
 そう、町に近い辺りとは違い、山へ向かうこの辺りは、最後に故郷の景色を胸に焼き付けておきたいと、この山の頂を目指したあの時と大して変わってはいないのかなと思いつつ、踏み分け道を体よく整備しただけのような、登山道というには心もとない坂道に入り、苦しそうに喘ぎながら登り続ける。老いた身体に段々と疲れが溜まってゆくのが自分でも把握でき、一歩二歩と数を唱えながら、体調を確かめるように登ってゆく。
 最初長かった休憩をとるまでの歩数が、上りが急になるに従い、やがて三十歩、そして二十歩と、段々に短くなってゆき、自分の老いを感じさせられることに苦笑しながら、少し休んではまた登り始めるのであった。
 紅い涎掛けの掛けられた二尺足らずの玉子型の石が、登山道の踊り場のようになった広場に祀られていて、その脇に、頂まで三百メートルと、今にも文字が消えてしまいそうな案内板が建てられてあった。
 そうだ、この石、この道標、あの時もここに在ったよなぁ、と、朧げに記憶が蘇ってくる。
 もう自分はここに戻って来ることは無いのかもしれない。そう思い込みながら、ここから先、あと僅かな登り道を、泪しながら駆けるように登っていったあの十四の時の思いが、切なくも心に満ち、嗚咽となって溢れだしそうになってきていた。

 頂に立つ。
 狭い広場で大きく肩で息を継ぎながら、正に一望、見下ろすように眺められる素晴らしい眺望が開け、遠く白い雪を戴いた峰が早春の淡い霞の中に聳え立っていて、その裾野に広がる町の外れに、自分の育った集落も望むことが出来た。
 頂の広場には、狼煙台の基礎石と、三尺ほどの少し傾いた小さな祠、中には虚空蔵様が鎮座している。
 十四の春、そう、生命萌え緑に噎せかえる春。
 この頂、この祠の前で大声を挙げて独り泣いたあの春……。
 その涙の奥底に、近々見知らぬ遠い街へ移り住む、自分はもうここには戻れない、死ぬまで異郷を彷徨い歩き続けるのであろうという予感があったからに違いななかった。そう、若き日の蹉跌のような哀しみがあった故の涙であったのだ。
 牧水や啄木を好んだあの頃、故郷を離れるということは、彼等と同じように、自分の中に在る運命、そう、流離というものの翳を色濃く己の中に抱かせた。
 少年の抱いた流離への憧憬とは異なるものであったのではあろうが、図らずもそれは具現化され、啓之の人生は、定住という安定を嫌い、転勤転職を重ね、流浪というに近いものであったろう。今、あの時から引き摺り続けてきた流離の哀しみを背負い、自分はここに在った。
 違うのは、ここに戻ってこられたということだけ、そう、明日からはまた……。
 直に風化してしまいそうな虚空蔵様の祠の前に佇み手を合わせる。
「ありがとうございました」
 そう、あの時、「一度でいい、死ぬ前にここに戻って来たい」と、この虚空蔵様にお願いしたのであった。その願いが叶ったお礼、感謝の言葉であった。
「ふふふ」と、溢れくる感情を払うかのように啓之は微笑み、背中のリュックを下ろすと、「忘れてました」と虚空蔵様にまた頭を下げる。
「白玉の歯にしみとおる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」
 啓之は牧水の歌を口遊みながら、いつも持ち歩く旅の七つ道具を、担いできたリュックから取り出し、四合瓶の酒を、愛用の備前の小さな徳利に注ぎ、これも、普段から持ち歩く対の唐津のぐい吞み二つを並べ、酒を注ぐと、ひとつを虚空蔵様に供え、もうひとつを虚空蔵様に向かって拝するように捧げる。
 儀式を終え祠の前に座り込むと、「戴きます」と虚空蔵様にもう一度低頭し、ゆっくりと口に運んだ。
「旨いなぁ」
 そう呟いた時、身体の奥底から堪えきれぬ嗚咽が……。
 あれから今日までの自分の生き方、想い出の数々、そんな様々なことを泣きながら虚空蔵様に話しかけ、そして飲み続け、そのまま寝入ってしまった啓之が眠りから覚めたのは、もう四囲の景色が直に夕景に融け込まれてゆこうかという頃であった。
「もう二度と来ることも無いのでしょうが、寂しいから、もう一度参りますねと嘘をつかせてくださいね」と、虚空蔵様に悪戯っぽく話しかけ、立ち上がり、四合瓶に僅かに残った酒を徳利に注ぐと、ぐい吞みのひとつを供え、残ったもうひとつのぐい吞みを大事にタオルに包み、リュックの着替えの間に挟み込む。そして、摘みのするめ烏賊の一本を口に咥え、残りの数本を虚空蔵様の前に供える。
 酒の空瓶もリュックに入れ、「さようなら」と小さく呟くと、もう一度深く虚空蔵様に低頭し、歩き初めた。
 あれから今日まで引きずり続け生きてきた全てのことが、皆素敵なことだったような気がして、啓之の心は何時になく軽く楽しかった。

「都ぞ弥生の……」
 口遊む大好きな歌も、やがて息の乱れの中に呑み込まれてゆく。
 下り道に助けられ歩いてきたのであったが、明らかに自分の身体が単なる疲れではない変調をきたし始めていることに気づいたのは、登山口の駐車場まであと少しというと平坦な道に差し掛かって来た時であった。
 辺りは既に暗く、用意してきたヘッドランプの灯りが頼りであった。少しの疲労感が身体にありはしたが、ここまでは何の不安も感じなかった。
 軽い眩暈に、「あっ」と不安を感じ、立ち止まる。
 時折襲い来るあの心の臓の発作の前触れか。
 乱れた心音が、時折「ドッ、ド、ドッ」と、強く胸に響き、少し寒気がしてきた。
 啓之は膝を折り、その場に座り込む。
 いつもとは違う、心の臓が強い力で握り潰されるような圧迫感を覚えた。
「死ぬんだな」と、静かな心で、啓之はその時を感じ、落ち葉の上に横たわった。
 急に吹き始めた風に乗って、雨粒の落ち葉を打つ音が四囲の闇から潮騒のように強弱をつけ、襲いきては去ってゆく。
 ドクッ、ドクッと揺すられていた心の臓の響きが、次第にゆっくりとした間遠いリズムに変わってゆく。
 やがて薄れゆく意識は、自分が自分であることすらぼんやりとしか判からない意識障害の中に陥ち込んでゆく。
 頬を打つ冷たい雨粒の感触だけが、その微かな意識の中で確かに感じられた。
 啓之は、緑輝く春景色の中、見知らぬ異郷をさ迷い歩いている自分の夢を見ていたが、やがて夢のその春は、この古里の春の風景の中に遊ぶ自分に代わっていくのであった。
 死すことに抗うというのではない生への執着が、静かに希薄になってゆく……。
「そうさ、俺はあの時からそうして生きてきたんだ、いいか、生まれたこの古里でこうして死ねれば……」

     第九話 「早春、死に逝くとき」 おわり。
              (推敲中、ついでに酔敲中、読み辛き感あり、御赦しを)




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