氷雨の贈り物

文字数 10,446文字

  
 「氷雨の贈り物」

 季節に合わぬかもしれぬが、氷雨だよなぁと暗い空を見上げる。糸を引く様に僅かに白いものが混じり、どんよりと曇った空から雨粒が絶え間なく落ちてきていた。
 五年ほど前から山登りを始めたが、山の春ももう終わりに近い、煩わしい山の賑わいが始まる前に、久しぶりに山を歩くかと列車に乗り込んだのだが、桜の花はとうの昔に終わり、緑の濃くなり始めた東京を出る時は、ザックの重さに汗が吹き出してくるほどの温かさだったのに、山間の町の駅でバスに乗り換え登山口に降りたった途端、冬の気配が感じられるような、肌を刺す空気に変わっていて、本降りに近いような雨が降り始めていた。
 手袋はしているが、手はかじかみ、ハンドウオーマーに突っ込んでいないと、すぐに痛みを覚える。
 引き返すか。でも、林道の終点に在る山小屋まで行けば、夕方前には温かい温泉にも浸かれるし、背中の重い食料も減らせて帰りが楽だしと、諦めるきっかけが掴めず、ポンチョをすっぽりと被り、そんなことどもを思いながら、何となくそのまま歩き続けていたら、後ろから微かなエンジン音が聞こえ、すぐに白い軽トラックが徐行しながら追い抜いて行った。
 ちらと見えた運転台の年寄りが、品定めをするような目で僕を見つめていたが、その眼差しに棘というようなものは感じられなかった。いや、その逆であるかのような気もした。
 行き過ぎたその軽トラの赤いブレーキランプの光が、厚い雨雲で光量の落ちた狭い道に、やけに明るく満ちた。ガチャガチャと、少し乱暴ではないかと思えるギヤの変換音が聞こえ、バックランプが灯ると、軽トラはバックブザーを鳴らしながら勢い良く戻ってきた。
「どこまで行くのかね」と、明けられた窓から、もう七十過ぎたであろう老人が、明るい声で話しかけてきた。
「湯の小屋まで行き、雪が多くなければ明日御山に登ろうかと思ってます」
「生憎の雨だねぇ、御山は雪だよ。この節の雪だ、すぐに解けるだろうけど、日程には余裕があるのかい」
「はい、三泊四日の内、一日は明けてありますし、もう一日休暇は取ってありますから」
「予報では、この雨は夕方前には上がるというが、冷たい雨だ、小屋までは大変だろ、今日は儂のところに泊まらないかい」と、老人は人懐っこい笑顔で誘ってくれた。
「はぁ」
 いきなり我が家に泊まらないかと初対面の人に言われて少し面食らい、頭の中で、急ぎ思案を纏めようとした僕に、
「まぁ乗りなよ、儂の家に着くまでに決めればいいさ」と、僕の思惑を見抜いて、身体を延ばして、さっさと助手席側のドアを開けてくれる。
 バサバサとポンチョの雨粒を落とすと、手っ取り早く丸めて収納し、「お願いします」と乗り込ませてもらった。
「明日の朝、小屋まで送ってやるから、そうすれば日程も狂わないだろ」と、嬉しそうに言う。
 歩く楽しみということもある、
「はぁ、ですが……」と、僕が煮え切らない返事をすると、それを遠慮と判断したらしく、
「ははは、遠慮は要らないよ、婆ぁさんと二人暮らしだし、こんな山奥、知り合いだって滅多に来やしねぇ、たまには誰かと話しながら一杯飲みたいなぁというのが本音かなぁ」と笑っている。
「ですが……」
「ははは、いいじゃねぇか、宿屋じゃねぇから別に泊まり賃が要る訳じゃなし、湯の小屋のように温泉こそねぇが、沢水を沸かした大きな岩風呂ならあるしな、ビールに酒付だぞ」と、段々とその言葉遣いもこなれ、親しみを帯びてきていた。
「はぁ……」
「厭だったら、それはそれで構やしないよ。この雨では難儀だろ、よければ湯の小屋まで送ってやるよ」
「部落の先から、車は進入禁止じゃないんですか、ゲートに鎖も張ってあったように記憶してますが」
「ははは、部落の者は通行許可をもらってるから、それぞれの家であのゲートの鍵を持ってるよ。何処から来たのかい」
「東京です、葛飾です」
「ふーん、俺の息子も練馬にいるよ」
「練馬ですか」
「ああ、その下のやつも、川崎に住んでる。あんた幾つだい」
「二十九です」
「ふーん、若いなぁ。泊まってくれれば、家の婆ぁさんも喜ぶんだがなぁ」
「はぁ」
 老人のぼそぼそ語りに、部落に着く頃には、いつの間にか世話になることになってしまっていた。
 見ず知らずの僕が泊まることが、そんなに嬉しいのかなぁと小首を傾げたくなるほど嬉しそうである。
 老人は、十軒ばかりの民家が飛び飛びに在る集落の一番奥まった蒼いトタン葺きの家の広い敷地に勢いよく軽トラを乗り入れると、「おーい、お客さんだぞー」と、家の方へ向かって大きな声で叫んだ。
 町のスーパーで買い込んできたという食料やなんかを下ろすのを手伝っていると、玄関の開く音が聞こえ、杖を突いた女の人が「いらっしゃい」と、笑顔で挨拶をしてくれる。
「すみません、突然お邪魔致しまして」
「御山へ登るのね、生憎の雨だものねぇ、今日の御山はきっと雪だよ。無理して登るのは止めといた方がいいわよ」と、少し暗い顔をして言うのであった。
「明日朝起きてから決めればいいさ、晴れていればここから御山も見えるしな」と、老人が言う。

「運が悪かったわね、家のおじいさんに捕まっちゃって」と、おばぁちゃんが悪戯っぽい笑顔で言う。
 杖は、そんなに頼っているという訳でもないようで、家の中のように、何か身体の近くに支えになるようなものがあれば、普通に近い状態で歩けるようであった。転ばぬ先の杖なのかな。
「ははは、でも、助かったなぁってのも本音にはあります」と、人の心を解すようなその笑顔に、僕も正直にそう応えさせられるのであった。
「そうよねぇ、あの小屋の温泉は元が微温いからねぇ、寒いときは体温以下の温度しかなくって、温まるまで大分長湯しないと湯冷めしちゃうものね。今日は家のお風呂をガンガン湧かしてあげるわよ、よーく温ったまるといいわ」
「ははは、ありがとうございます」と応えはしたが、正直、あまり熱いお風呂は苦手であった。
「家は、小倉というんだが……」
「あっ、僕は、田村一です。はじめは一の一文字です。宜しくお願い致します」
「ふーん、はじめちゃんかぁ、いい名前ねぇ」
 有り触れた名前だ、時々同じようなことを言われるが、別にいい名前と思ったことは一度もない。が、まぁそういう見方もあるかといつものように変に納得しては見る。
「一ちゃんは大酒飲みなの」とおばぁちゃん。そんなことを訊くということは、車の中の話し振りからもして、お爺ちゃんは相当飲むのかな。
「いいえ、酒は大好きですが、うーん、友達ともよく飲みにいきますが、皆と比べても、半分も飲めないくらいです」
「お付き合いぐらい、それで丁度いいのよね、家のお爺ちゃんは飲み過ぎね。風呂上がりのビールから次は日本酒でしょ、日本酒は、ほっとくと五合くらいすぐに飲んでしまうのよ」
「五合もですか。僕は飲み過ぎても二合かなぁ」
「ほらね、聞こえましたか、お爺さん」
「ははは、聞こえてるさ、儂が酒が飲めなくなったときは死ぬときだな。もうそんなに長くは無いだろうから、飲めるだけ飲ましてくれよ」とお爺ちゃんが笑って言えば、
「そんなことばっかし言って……」と、おばぁちゃんがお爺ちゃんを怖い目で睨み付けている。
「一君、雨も止んできたようだし、酒の肴でも採りに行くか。ちょっと付き合ってくれるかい」
「はい」
 入口に掛けてあった合羽を履かされ、また軽トラに乗り、お爺ちゃんは、さっき登ってきた道を少し下り、脇の林道に入ると、ちょろちょろ水が流れる小さな沢の入り口に車を停めた。
「この沢の少し奥に山独活がある、それを少し戴いて、帰り途、他の山菜探して、今日は山菜の天婦羅だな」
「ええー、それは贅沢だ」
「好きなのか、山菜が」
「はい、特に、独活とか屈とかの天婦羅が大好きです」
「うーん、残念ながら、屈はもう終わったかなぁ。冷凍庫に和え物用に茹でたやつはあるがな」
 冷たい雨であったが、上がってもまだ肌寒いのに、合羽を着込んで歩くと暑い。それでも、合羽を着ていないと、木の葉や枝、草に着いた雨の露でびしょ濡れになるだろう。
 沢に入り込んでしばらくした頃、
「先に入った人がいなければ、ここら辺りに何本かあるはずなんだがなぁ」と言うお爺ちゃんと、少し離れて歩きながら山独活を探す。
 すぐに、二十本ばかしの山独活が、お爺ちゃんの背中の駕籠に収まった。
 お爺ちゃんは、帰りながら藪の右へ左へと、ごそごそと分け入ってゆき、出てくると、その手に何本かの山菜を掴んで戻ってくるのであった。
「やはり屈は見つからないなぁ、在ってもみんな丈ってらぁ」
「それでも凄いですよね、山菜の大漁だ」
「ははは、今日の晩酌と明日の朝食の分だけだよ、これっぽっちでは商売にならないよ」
「商売って、これ売られるんですか」
「ああ、小遣い稼ぎと山遊びの楽しみと、一石二鳥。地元の道の駅に並べると、結構評判がいいみたいで、あっという間に無くなっちゃうらしいよ」
「本物は美味しいですものねぇ」
「ああ、今は何でもかんでも栽培されたりして出回ってるが、やはり本物には敵わないよ」
「山独活、秋田の民宿で食べさせて戴いたことがあるんですけど、一度本物食べたら、栽培物は食べられませんよね」
「ああ、栽培物を山独活なんて嘘ついて並べてるけど、あれは別物だな。ちゃんと栽培物だって表示しなきゃいけねぇ、食べた人を騙すことになるもんなぁ、ははははは」と、真顔で笑う。
「ははははは、僕もそうでしたが、本物食べたこと無い人には解らないですから、特に、採りたては抜群に旨いですもの」
「さぁて、これだけあれば十分だろう、婆ぁさんが手薬煉引いて待ってるぞ、帰るとするか」
「はい」

「山菜もそろそろ終わりの季節ね、こんないいのがよく残っていたわねぇ」とお婆ぁちゃんが嬉しそうに、納屋の軒下に停めた軽トラの荷台にある駕籠から山菜を出している。
 空になったその駕籠を納屋に戻したお爺ぃちゃんが、
「おっそうだ、一君、もう一度行くか」と、何かを思い出したように言う。
「えっ」
「山菜採りじゃねぇよ、これだよ」と、納屋から釣り道具を引っ張り出してきた。
「釣りですか」
「ああ、そんなには大きくないが、この上の支流の沢で岩魚が釣れる。刺身と塩焼きの追加だな」
「うわぁ、超贅沢だ」
「釣りはしないのか」
「はい、都会育ちで、子供の遊べるような近所の川はみーんな汚い排水溝のような川ばかしですから、その川で、魚なんて、小さい頃から一度も見たことありません。テレビか水族館とかで見るだけ、そんなものです」
「ははは、ここらも少なくなったが、それでもまだまだいるよ」
「ちょっと待ってください」と、僕はザックの中を漁るとデジカメを取り出し、長靴をお借りするとお爺ちゃんの後に従った。

 今度は上の方に少し歩いて、小さな藪沢へごそごそと潜り込んでゆく。
「静かにな、そっとだぞ」と言いながら、お爺ちゃんは腰を屈めて小沢を登ってゆく。
 三メートルくらいの短い振り出しの竿の先端に、三十センチくらいの仕掛けを結び、小石をひっくり返し、黒っぽい川虫を捕まえ針に差すと、竿を延ばしてゆく。
 一メートルくらいの広さの小さな落ち込みの水溜りに、延ばされた竿先の仕掛けが小さな波紋を広げ落ちると、すぐに竿先の赤い目印が揺れた。
「よしっ」と、声を出したお爺ちゃんの仕掛けに、二十センチくらいの太った岩魚が躍る。
 竿を仕舞いこむようにして短くし、暴れる岩魚をむんずと掴んで振り返ったお爺ちゃんが、まるで悪戯小僧のようにニヤッと微笑んだ。
 お爺ちゃんの手に捕まれた岩魚をデジカメに収める。
 体側に鏤められたオレンジ色の斑点、腹部の白に黄色味がかった色が滲む。見たこともない綺麗な魚だった。
「岩魚見るのは初めてか」と訊かれ、
「はい、塩焼きで皿に盛られたのは何度か見ましたが、生きてるのは初めてです」と応える言葉が、感動であろうか、少し震えていた。
 同じような大きさの岩魚が六匹、すぐに釣れたが、その綺麗な姿に、食べるのは悪いような気がしないでもなかった。
「よし、ここで最後だ、一君、やってみるか」とお爺ちゃんが言ったのは、大きな石が重なり、小滝のようになったところであった。
「えっ、いいんですか」
「ははは、ここはいつも大きいのが釣れる、今までのは塩焼きサイズだ、お刺身サイズはもう少し大きいのが欲しいからな。一君、今夜のお刺身が掛かっているからな、ドジると、摘みが一つ減るぞ」と、お爺ちゃんが脅す。
「うわぁ、責任重大だ」
 ははは、そういう訳でもあるまいが、仕掛けを延ばす手が、その緊張に覚束なく震える。
「ははは、一君は、釣りをしたことはないのか」
「はい、親父も友達も、釣りに縁のある者は廻りに居ませんでしたから、正真正銘、今日が初めてです」
「よーし、初めての釣りだ、好い奴が釣れるといいがなぁ」
 手取り足取りというのではないが、まぁそれに近い叱咤激励を受けながら、二メートルくらいの小さな滝壺になった所に仕掛けを落とすと、水底に岩魚らしき黒い影が走った。
「ほらっ、合わせろっ」とお爺ちゃんが竿を煽る仕草をしたので、夢中で真似ると、竿先が引きずり込まれるように、ぶるっ、ぶるんと撓って、水面に大きな岩魚がバシャバシャと水飛沫を挙げ躍った。
「そのまま下がって、岩魚を手前の砂利の上に引きずり上げて」と言われたが、興奮のあまり後は何が何だか覚えていない。
「やったぞっ」とお爺ちゃんの声が耳に響いたときには、その手に二十五センチはあろうかという岩魚が握られていた。
「うん、大物だ、丁度いいお刺身サイズだ、でかしたぞ一君」
「……」
 僕は初めての岩魚釣りで大きな岩魚が釣れたことに、久しぶりの興奮を覚えていたし、感激していた。
「ほらっ、カメラ、カメラ、初獲物だ、記念写真だ」
「あっ、はいっ」
 そこで、もう一匹、一回り小さい岩魚を釣ると、
「よぉし、これで十分だ」とお爺ちゃんは嬉しそうに言い、先に立って沢を下ってゆく。
 後ろから付き従う僕は、まだ興奮覚めやらず、胸がドキドキし続けていた。
 沢の広くなった所で、岩魚の腹を裂く。
「腸は、その辺りの藪に放り込んでおけば、今夜、狸や貂が食べてくれるよ」とお爺ちゃんが言う。
「餌付けにはならないよ、一年に何回も無いのだから。それに、この部落の者はずっと昔からそうしてきたんだし」
「ははは、そうですよね」

「山葵、好いのがあったわよ、ほら」とお婆ぁちゃんが、二センチくらいの太さの山葵を持ってきた。
「おう、好い山葵だ。ほら見て見ろ、一君の正真正銘の初獲物だ、こいつを刺身にしてその山葵で食おう」と、お爺ちゃんが僕の釣った岩魚を魚籠から掴み出した。
「あらっ、釣りをやったことが無いの」と、おばぁちゃんは、初めて僕が岩魚を釣ったことより、釣りをするのが初めてだということに驚いていた。
「はい、今日が初めてです」
「ふーん、釣りなんかしなくても都会は色んな遊びが出来るものねぇ」
「近所の川は、汚れてて、魚なんていませんから」
「えっ、お魚がいないの」
「はい、ドブのような川ですから」
「ふーん、そういえば、昭も孝彦も、昔そんなこと言ってたわねぇ。よし、今夜は歓迎会ね、美味しい山の幸の摘みで、じゃんじゃん飲みなさい」
「ありがとうございます」
「お風呂、もう入れるわよ。お爺ちゃん手作りの、自慢の岩風呂、とっても好いお風呂よ」
「見て見るか。タオルはあるか」
「あっ、はい」
 首に回していたタオルと、湯の小屋で使うために用意してきたセットの入った袋を掴んで後に従う。
 お風呂は、母屋の方から半透明のポリカーボネイトの波板に囲まれた廊下のような通路の先、納屋の裏の、まだ新しそうな独立した建屋の中に在った。小屋と言われればそんなもの、でも、しっかりと造作された小屋であった。
 なるほど、これは凄い。何人かでわいわい入れそうに大きいのもまた好い。
 渓に面した側が、そっくりアルミサッシの窓。窓といっても、床からの立ち上がり全面、サッシ二枚分が明けられるようになっている。
「ははは、この戸、四枚みんな取り外せば、露天風呂気分だぞ」
「これ、オール自作ですか」
「ああ、建屋からみーんな自作だよ。風呂焚き釜、つま、湯沸かし装置もな」
「えっ、湯沸かし装置なんですか」
「こっちから薪を放り込んで燃せば、この鉄の窯の中の湯が、勝手に湯船の湯と交換されてゆく。熱かったらこの管を閉じて、その蛇口を捻れば沢水で調整できる。一昔前の、追い焚きの出来るガスの風呂釜がヒントだな」
「ふーん、こうなるともう完全に温泉気分ですよね」
「三年前の春から秋まで、半年近く掛かったかな。草臥れたけど、うん、気分は最高だよ。それに、この石、綺麗だろ、下の河原の石をちょっと拝借だよ」
「あっ、河川法違反だ」
「当たり。これは他言無用、内証だよ」
「はい、田村一、山の神様に誓って他言は致しません、ご安心を」
「ははは、それほどのものではないけどなぁ」と、お爺ちゃんが照れている。
「よし、今日はフルオープンで行くか、少し寒いかもしれないが、雨上がりの新緑は気持ちいいぞー。この扉四枚、皆外そう」と、ガタガタ扉を外し始めたので、僕も手を貸し、全面開放の露天風呂が出現した。
「先に入るといいよ。儂はちょっと婆ぁさんの手伝いがあるでな」
「いいんですか、僕も手伝います」
「ははは、二人で手伝うほどのもんじゃないし、この風呂へお客さんに入ってもらうのも楽しみの一つで頑張って作ったんだもの、気にせずゆっくり浸かるといいよ」
 僕はその言葉に素直に従い、一番風呂に浸からせてもらった。
 渓の向こうに、山の低い稜線が見え、その雨上がりの眩い新緑が、傾きかけた陽に映えて輝いている。
 渓を渡りくる微風が少し冷たいが、体が温まってくるほどに心地よく感じられる。
 少し長風呂になってしまったが、なまじの温泉よりは遥かに気分が良かった。
「ありがとうございました、余りに気持ちよくって、少し長風呂してしまい、申し訳ありません」
「ははは、嬉しいねぇ、なぁ、婆ぁさん」
「はい、お爺さんも入ってくれば、すぐにこっちも出来上がりますから」
「ありがとう、よっし」と、お爺ちゃんは風呂の方へと消えた。
「そこに半纏があるから、それを着てコタツに入って待ってれば、今日の夜は、雨上がりで少し冷え込んでくるだろうし、湯冷めするといけないから」
「はい、ありがとうございます。とてもいいお風呂でした」
 掘り炬燵になっていた。
 僕が物珍しさ丸出し、炬燵を覗き込むようにしていると、
「ふふふ、掘り炬燵も、私の足が悪くなったらすぐに作ってくれたのよ。お風呂もね、足を延ばせるほうが好いからって、あんなに大きいの作ってくれちゃって。でも、あれだけは、誰にも手を出させずに頑張って作ったわね。あの石、ずっと下の河原から、ぜーんぶ独りで担ぎ上げて、軽トラに乗せて持ってきたのよ」
「ええーっ」と、少し大袈裟に僕が驚く。いや、それほどに大変なことと思えたのであったから。
「ほら、下流の方に、河原の方に降りる道があったでしょ、橋のすぐ下。あそこから運んできたのよ」
「だって、川の岸まで車はいけないから、河原迄三十メートルくらいはあるでしょ、一回一個だから……」
 来る途中ひと休みしたその橋から見た風景を思い出し、僕が驚くと、
「そうよねぇ、一日終わると、もうクタクタになって、お酒飲み終わるとすぐに爆睡だったわねぇ」と、おばぁちゃんが微笑みながら言う。
「ふーん、凄いなぁ、感謝感激です」
「お風呂に入った人にそう言ってもらえるのが嬉しくって、単独行の山登りの若い人で、好さそうな人だなぁって感じると、声を掛けて連れてくるのよね。大概は不思議がられて断られるみたいだけど、家の山爺ぃに捕まった犠牲者は、お風呂が完成してから、一ちゃんでもう十人くらいになるのかなぁ」
 山爺ぃって、山姥になぞらえているのだ。
「ははは、何となく解るような気がします。いきなり知らないお爺ぃちゃんに、今夜泊まって行けと言われても、ははは」
「でしょっ、ほんとはね、私もそうだけど、寂しいのよね。こうして家にお誘いしてその寂しさを紛らわしてるのよね。でもね、皆さん外れなし」
 その寂しさというものは、僕にもよぉく解るような気がした。が、そこに踏み込むには、僕はまだまだ未熟であろう、
「外れなしですか」と、申し訳なさを感じながら、そちらの方に話題を持ってゆくのであった。
「はい、みーんな好い方ばっかし、わざわざ翌年も来た方もいるのよ」
「人を見る目があるんだ」
「そうね、そういう意味では、あるのかもね。若い頃からずっとバスの運転手してたからね」
「バスですか」
「そうよ、ここにも昔はバスが来てたのよ、夕方の最終便を運転して帰って来ると、翌朝の始発で役場のある町の駅まで、途中の部落の人たちを拾いながら行くのね。昔はね、通勤通学の人で結構満員だったのよ。勿論お山の登山客も結構いたわよ」
 三和土で忙しく動きながらそんな話をし、僕の相手をしてくれる。
「お待たせ、先ずはビールだな」と、風呂から上がってきたお爺ぃちゃんは、冷蔵庫の中から瓶のビールを二本取り出して持ってくると、一本の栓を抜き、僕のコップに注ぐと、酌をしようとする私を制して、
「飲みながら、食べながら、気を遣うのも面倒だろ、手酌が一番だ、後は勝手にバンバン飲んでバンバン食べてくれ」と、コップを捧げて乾杯すると、一気にごくごくと飲み干してしまった。
「ぷはぁー、うめぇなぁ、風呂上りはやっぱビールだよなぁ」と、満足この上ない様子である。
 僕も一気にビールを呑み干す。うん、確かに旨い。
 卓の上には、岩魚の刺身や山菜の煮物、それに漬物などが並べられ、お爺ぃちゃんが、食え食えという風に、手真似で私に勧める。
「これ食ってみろ」と、お爺ちゃんが勧めてくれたのは、独活の根っこの部分の白い所を、皮を剥いてちょっと水に晒した奴であった。
 味噌を付けてもぐもぐと噛むと、口中に好い香りと味が広がる。
「うわぁ、メロンみたいだ」
 思わず、その不思議な旨さに感動の言葉が出る。
「だろっ、次はこの屈だ。茹でて冷蔵しておいた奴だが、結構いけるぞ、ちょっと待ってな」と、お爺ちゃんが、御手塩に山葵を下ろし、味噌とマヨネーズを加え掻き混ぜ、ポトポトと醤油を少し垂らし、こいつを付けてみろという。
「あっ、旨い。山葵に醤油の香り、ははは、山菜のお刺身みたいですね」
「上手いこと言うなぁ、山菜のお刺身かぁ。今のは屈だが、御浸しにしたものは大概この味噌に合うな」
 色んな山菜を色んな食べ方で戴く。正に山の恵みであろうか。
 天婦羅を上げる音が聞こえ、やがていい匂いを漂わせた大きなお皿が運ばれてきた。
「先ずは山独活の穂先から食べてみな」と勧められ、塩を軽く振っていただく。
 山独活の香りが口中に満ちる。
「うーん、最高です」
 お婆ぁちゃんも座って、ニコニコしている。
「食べっぷりが好いわねぇ。作った方も嬉しくなっちゃうわ」
「お前も飲めよ」
「はい、それでは」と、お婆ぁちゃんもビールを注いでもらうと、美味しそうに、ごくごくと呑み干した。 
 僕が酌をしようとすると、「私は一杯しか飲めないの、アルコールに強くないみたい」と、コップを下げた。
 それから三人で色んな話をした。ここの山暮らしのこと、昔のこと、息子さんたちのこと、年に何回も会えないと零す、まだ小さなお孫さんたちの話をするときは、本当に嬉しそうであった。
 勿論僕も、訊かれるままに自分のことを話はした。

 目が覚めた朝の布団の中で、ぼんやりと昨夜のことを振り返るが、最後の方はあまりしっかりとは覚えていなかった。
 三和土の方から御みそ汁のいい匂いがして、僕は起き上がり、布団を畳むと居間に出た。
「おっ、お早う」
「お早うございます、飲み過ぎたでしょ、大丈夫」
「はい、ぎりぎりセーフみたいです」
「ははははは」
「なに笑ってるの、自分のペースで飲んでいる一ちゃんに、無理矢理飲め飲めって」
「ははは、久しぶりに旨い酒だったからなぁ、一君、ありがとう」
「いえ、僕の方こそ、楽しい夜でした、ありがとうございました」
「さっき見たら、御山の半分から上は真っ白よ、今日は登るのやめときなさい」とおばぁちゃんが心配してくれる。
「山頂の神社辺りは、恐らく二十センチは超えてるな」と、お爺ちゃんも、止しにしとけという口ぶりである。
 僕は一応外に出て、その綺麗な冠雪の御山を見上げてみたが、素直にその言葉に従うことにした。一応それなりの準備はしてきていたが、今回の山旅は、お爺ちゃんとおばぁちゃんに廻り遭うことが出来たことで、もう十分に満たされていた。

 もう一日、お二人に世話になり、ザックの中の食料を、料理と呼ぶには余りにも粗末ではあったが、お爺ちゃんとおばぁちゃんに食べて貰い大分軽くした。
 色んなことを三人で話し合った。
 昔語り、山の生活、都会の生活、取り止めの無いことども、そんなものを語り合う全てが楽しかったし、静かに心が打ち解けてゆくその時間の流れの優しさが、都会しか知らず、山で暮らす苦労を露ほども解せぬ僕に、山里のゆったりとした時間の流れの恵みであるかのような錯覚みたいなものを抱かせ、ジワリと僕の心の奥底に沁み込んでゆくのであった。
「近い内にまた寄らせてください」と別れを告げ、駅まで送るというお爺ぃちゃんの好意を断り、僕は余った時間を楽しみながらバス停への道を歩き続けた。
 僕の懐には、
「今度来た時は、岩魚釣りを教えてやるから」という御爺ちゃんとの約束を果たすために必要な、釣り道具一揃いをメモした紙が大事に仕舞われていた。
 山へ登った充実感に負けないくらい、僕の心は満たされていた。
                         
              ‐終わり‐第八話へ続く
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