出作り小屋で

文字数 4,203文字

                                NOZARASI 6-3

 短編集 「雨」其の三    
  出作り小屋で

 梅雨末期のおぼつかない空模様が気になってはいたが、しばらく岩魚の顔を見ていない欲求不満がその不安を押しやり、只見の谷へ足を運ばせていた。
 浅草岳への登山道の入り口に車を置くと、只見川支流叶津川を旧八十里越えの廃道に沿いに遡ってゆく。
 小一時間ばかし歩いてから小さな沢から叶津川本流へ降り立つ。
 透き通った流れに手を浸けると、流れの水は痛いほどに冷たい。岸辺の崖に、碇草の淡いクリーム色の花がちらほらと咲いている。
 川原の石の上に腰かけ釣りの支度を始める。
 逸る心を落ち着けるようにゆっくりと時間をかける。どこかで鶯が鳴いている、耳を澄ますと色々な鳥たちの声が聞こえて来る。
 この風景の中では、その声も、せせらぎの音も、静寂を弥増すだけのものとなる。
 ここの岩魚は他愛無く釣れる、釣れるが強い、それが楽しい。
 昼飯を食べ少しした頃から、不安を抱いた通りシトシトと雨が降りだしてきた。
 今日は一晩泊まりがけの積りで来たのだが、テントで雨に降られるのは少し憂鬱ではある。
 ちょっとした沢の流れ込みの台地に、傍らの森から伐り出したのであろうか、豪雪に耐えられるよう太めの木の骨組みの三角屋根に茅を被せただけの粗末な薇採りの出作り小屋があった。
 薇採りの三カ月ほどの季節を、下の集落から杣道を登り、泊まり込みで谷筋や沢筋の薇を採り、この小屋で煮て灰汁を取り、小屋の前の広場で何回も揉みあげては干す事を繰り返し、干し薇を作るのである。
 小屋から紫色の煙が棚びいて、小屋には人が居るらしい。
 外から声をかける。
「すみません、干し場の片隅にテントを張らして戴けませんか」
 扉代わりの筵が少し開いて、
「いいよ、岩魚釣りかい」と、陽に焼けた四十絡みの男が笑顔で顔を出した。
「はい」
「あいにくの雨だけど、釣れたかい」
「はい。後で腹腸出しますから、良かったら食べて下さい」
「いいのか」
「はい、今日は五匹。食い分だけです」
「じゃぁ、母ちゃんの分と二匹貰っていいかな」
「はい」
「あの角にしなよ、少し高くなっているところだ。あそこならこのくらいの雨なら水が溜まらねぇよ」
「ありがとうございます」
「明日も釣るのかい」
「はい。この沢を少し釣って、お土産の岩魚を確保してから帰ります」
 暗くなり始める頃から少し雨脚が強くなってきた。
 ゴソゴソと夕飯の支度をしていると、
「雨本降りになってきたな、小屋で一緒に寝るか。テントはこのままにして明日片づければいいだろ。明日は晴れるってラジオで言ってたよ」と、声を掛けてくれた。
「いいんですか」
「毎晩一人で飲んでもつまらねぇ、飲めるんだろ」
「はい、好きな方だと思います」
「それ、今晩の御数か」
「はい」
 御数といっても、岩魚のムニエルと味噌焼き、それに鯖味噌と鰯の煮付けの缶詰だけである。
「それ持ってきな、小屋には大したものはねぇから」
「はい」
 狭い入口の筵を潜ると、中に奥さんらしき女の人がいた。釣りに来たときに時々出遭って会釈を交わす人だ。
「おじゃまします」
「どうぞ」
 なんだか奥さんには歓迎はされていないような気がした。
「それ、ウイスキーか」
「はい。背負って歩くにはこれが一番軽いし、沢水で割って飲むと結構いけますから」
「ははは、ここの水はたぁだ飲んでも旨いからなぁ、俺はこれだよ」
「あんた!」
「いいじゃねぇか。これ、どぶろくだよ」
「濁酒ですか」
「自家製だよ、密造だな」
「酒税法違反」
「ははは、一升瓶なんて二晩と持たねぇからなぁ、それに重くてそんなには持っては登ってこれねぇだろ。米は必需品だからな」
「ははは」
「飲んでみるか」
「いいんですか」
「口に合ったら今夜はこれにして、そのウィスキー置いてってくれよ、俺もたまには変ったもの飲みてぇから」
「はい、いいですよ」
 それが間違いの元になるとは夢にも思わなかった。
「旨いや」
 トロッとした口当たり、口の中に広がる少し甘ったるいような優しい味、中々のものであった。
 美味しいと褒めると、
「こいつは出来が良かったからなぁ」と、嬉しそうに笑った。
「いつも同じ味ではないんですか」
「いつも違う味だな。あまり旨くない時もある」
「ということは、飲めないような物が出来る事もあるんですか」
「あるな。でも、米が勿体無いから鼻抓まんでも飲んじゃうけどな。アルコールは変わらないみたいで結構酔えるよ」
「呑んべぇだからでしょ」
 無口そうな奥さんが笑って言った。少し警戒心を解いてくれたらしい。
「ははは、運が良かったんだ、俺」
「そういうことかな」
 囲炉裏の灰に串を刺して焼いている味噌焼きの岩魚の香ばしい匂いがしてきた。
「おっ、いい匂いだな」
「宜しかったらどうぞ」
 齧り付くように一口食べて、
「これはいい。蕗味噌じゃねぇか」と、目を輝かせ私を見た。
「はい、二週間ほど前に来た時、この下流で摘んだ蕗の薹で作りました」
「ふーん。こいつは旨いぞ、お前も食ってみろ」と、自分の食べかけを渡そうとした。
「あっ、こちらのやつ食べて下さい」
 食べかけの味噌焼きを奥さんに渡そうとしたのを止めてもらい、もう一本のやつを勧めた。
「あんたの分だろ、悪いよ」
「俺は、明日釣ったやつを家で食いますから」
「そうかい。じゃ、さっき貰ったやつ、塩焼きだけど食うかい」
「はい、戴きます」
「あっ、これは本当に美味しいわ」
 奥さんが、薇を揉み、その灰汁で黒くなった手を隠そうとするかのような仕草で串に刺された岩魚をひと口食べ、嬉しそうな目で私を見た。
「でしょっ、味噌に漬けこんでから二、三日置くと、これがまた旨いんですよ」
「そんな気がするけど、これ、ただの蕗味噌なの」
「家のやつにやってもらうからよく解んないけど、蕗の塔を微塵に刻んで、胡麻油で軽く炒めて、味醂とか酒を加えて味噌で練るようにして、少し煮詰めただけだと思います」
「ふーん、私も今度作ってみようかしら」
「岩魚どうするんだ」
「あんたが釣れば」
「釣りなんてまどろっこしい事やんねぇよ、俺は」
「また来た時に、釣れたら置いてゆきますよ」
「よし、そん時はまた泊まって行きなよ」
「お願いします」
「ところで、何処から来た」
「埼玉です」
「俺、若い頃川口にいたんだよ」
「あっ、その隣の鳩ケ谷です」
「キューポラって知ってるか」
「はい、鋳物とかやるやつ」
「その工場で働いてた。中学出てすぐ行ったんだが、二十四の時だったかな、親父が事故で死んでな、次男坊だったけど、兄弟誰も、こんな辺鄙な所には帰って来たくはないみたいでな、俺もそうだったけど、ここで死にたいっ手ごねるお袋一人じゃ暮らしてゆけねぇしな、仕方なく戻って来たのさ。今でも時々思うよ、あのまま川口で頑張っていたらなぁって。今の暮らしが嫌だって云うんじゃないんだけどな、なんかこう、もう一人の俺がいたんじゃないのかなぁって」
「もう一人の俺ですか……」
 いつのまにか酔って寝てしまったらしい。二人の小声で話す声を遠くで聞いたような気がした。

「おいっ、起きなよ」
「あっ、はい」
 起き上がろうとして、思わず「うっ」と、戻しそうになった。
「ははは、初めてどぶろく飲んだやつは大概みんなやるよ、そこの沢でやんな。沢水もたっぷり飲んで腹ん中で薄めとくといいわ。熊とかカモシカのションベン混ざってて、漢方薬みたいによーく効くぞ」
「あんた、何てこと言うの」
「ははは」
 釣られて笑おうとしたが、またやってきた。
 慌てて沢へ駆け下りると、たまらず戻してしまった。
「これだけでも食べておくと、きっと少し良くなるから」
 口の縁りの漆の剥がれた使い古しの椀の味噌汁に、黄色っぽいキノコが入っていた。
「ワカイよ」
「ワカイ?」
「まぁ食べてみろや」
 汁をすすって、キノコを食べる。
 キノコの出汁がいい。ワカイと教えられたキノコそのものはそうでもなかった。
「ふうーっ」と、その旨さに気分の悪さが抜けていくようだ。
「お口に合いました」
 奥さんが嬉しそうな顔で笑った。
「いい出汁が出るんですねぇ」
「そう、雪が融けると最初に出るキノコなの」
「この沢の奥に、こいつの沢山出る倒木があってな、薇採りの帰りに採ってくるんだよ」
「あの一番上の雪渓まで登るんですか」
「ああ、雪の融けるのを追いかけるようなもんだ」
「うわッ、凄い!重労働だ」
「一日二度行くんだぞ」
 私が驚くと、さも当たり前のようにそう言った。
 標高差七、八百メートルはあるだろう。それを、帰りは生の薇をいっぱいに背負っての二往復、かなりハードである。
「いっしょに行くか」
「いえ、とても」
 焦っている私に、
「ははは、違うよ。俺は薇採りだが、今日はこの沢で釣るんだろ」と言って笑った。
「あっ、そうか」
「ははははは」
 三人とも笑っていた。
 二日酔いの身体で沢を歩くのはきつかった。
「俺はここからあの雪渓へ登る。きつそうだな、あまり無理するなよ。また来なよ」
 そう言うと、さっさと斜面へ取り付いて、かなり高い所に見える雪渓目指して登って行く、まるで羚羊のようだ。
 二日酔いの私だったが、岩魚は良く釣れた。
 魚籠に入れた半分の四匹を置いて、奥さんに別れを告げた。
「どぶろく、内緒にしておいてね」と、悪戯っぽく笑って言った。
「はい」と応え、私も笑って別れの挨拶を返すと沢を渡った。

 それから何年か、叶津川へ通った。
 勿論、行くたびに二人の御世話になった。
 その後、転勤や何やかやで十年ほど行けなかった。
 久し振りに訪ねた時、あの小屋には違う家族がいた。
「以前にお世話になったことがあるんですが」と切り出し、二人の事を尋ねると、
「酒の飲み過ぎで、肝臓悪くして死んじまったよ。一番下から二番目の家だ、奥さんがお婆ちゃんといるよ」と教えてくれたが、届けようと思った岩魚は、国道工事の土砂に埋まってしまった叶津川にはもういないのか、一匹も釣れなかった。
 それらしき家の前をゆっくりと車を走らせ、
「さようなら、ありがとうございました」と手を合わせ、叶津川に別れを告げた。
 それ以来、私は叶津川を訪れてはいない。
 ひょっとしたら、国道の開設工事で荒れた叶津川を見るのが怖いからなのかもしれない。
 いや、……。

                           ―完―

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