雨の舗道で

文字数 6,478文字

                           NOZARASI 6-5
 短編集「雨」 その五
   「雨の舗道で」

 夕刻五時過ぎ、案の定落ちてきた、五月にしては冷た過ぎる雨の中、新橋駅へと急ぐ人の群れは、色とりどりの傘の流れとなり、ガード下の改札から押し出されるように流れ出て来る群れ、その反対にガード下へと吸い込まれてゆく群れとなり、その大きな二つの異質な流れが、鈍色の風景の中、混じり合うことも、滞ることも無く蠢いてゆく。
 駅前のSL広場はといえば、それぞれの人が、まるで無関心に、ある者は急ぎ足で雨に濡れた舗道を過り、またある者は、冷たい雨に耐えるかのように傘の柄を握りしめじっと立ち尽くし、まだ来ぬ誰かを待ち続けている。
 何の繋がりも無く人々の蠢くこの殺伐とした風景の違和感に何かを感じることも無く、今という時間の中にただ在ることを、人々は如何なる心で受け容れているのであろうか。
 大都会とはそういうものさと、疾うの昔に解ってはいるのであるが、いや、己の好みではないその風景に溶け込むことの違和感を、馴染めないと諦めてはいるのであるが、どう説明したらよいのであろう、そんな見知らぬ他人にでも、声を掛けたり掛けられたりしてみたいなと思う心が、たまにひょっこりと頭を擡げてくるのである。
 人は、この無機質な大都会の空間の片隅で暮らす孤独さと、相反する人恋しさに寄り添いながら生きてゆくことに、いつしか馴らされてしまったのであろうか。が、その都会というものが齎す無意識の寂寥は、心の何処か奥底で、人間というものの持つ、温かいであろう何かを常に待ち続け、そこに息づく人々の心を支えているのかも知れない。

 ややこしく気紛れなそいつの唆しに、ふと一歩足を踏み入れそうな自分を感じ、俺はその場の人の塊から少し位置をずらし、広場の誰もいない空間に移動した。
 人を待つのも煩わしいそぼ降る冷たい雨の中、適当にこじつけた断りの電話を一本掛ければそれで済む、そう思いつつ、やはり俺の心も人を恋しているのだ、何だか踏ん切りの着かないままに、会社も退けて人の多くなってきた金曜日の駅の雑踏の中にぼんやりと傘を差し雨を除けながら、待ち人の現れるのを期待し続けていた。
 SLの前という約束であったが、この雨では、何処で待とうかと戸惑うのは自分ばかりではないらしく、人待ち顔の人々の目は忙しげで落ち着かない。それでも、三々五々、そんな人たちが落ち合っては、温かい光の溢れる週末の盛り場の露地へと吸い込まれていく。
 遅れるなら遅れると、早めに連絡の一つも寄越せよなという苛立ちが、やがて、こちらから日延べの電話を入れようかと、本気で思うように変わってきていた。
 この雨の冷たさのせいだけではあるまいそれは、いつしか、記憶の底にある、あの切なく哀しいものを呼び起こし、心急く何かを俺に抱かせ始めていたのであった。
 その時、胸ポケットのバイブレーションが着信を知らせ、あろうことか、相手から日延べの連絡が入ってきた。仕事の打ち合わせを兼ね、終わってから何処かで飲みましょうかと誘ってきたのは向こうではないか。
 別段急ぐ打ち合わせでもないし、どうせ最後は飲み屋行きだ、長い独身暮らし、独りで坏を傾けることには慣れている。まぁいいさと、笑って受け流しはしたが、冷たい雨に濡れる舗道の上の少なからぬ待ち時間は、あまり愉快な時間でなかったことは確かであった。
 一人住まいの暮らし、テレビなんぞは見ない俺だ、早く帰っても仕方ない。が、飲み始めるにはまだ早いし、いつもの飲み屋も九時近くにならなければ空いてはこない、込み合う時間に独り客など迷惑千万であろう。打合せをするはずだった旨いコーヒーを飲ませてくれる馴染みのレトロな雰囲気の喫茶店にでも行き、少し時間を潰してからにするかと、大通りへ出、赤信号が青に変わるのを待っていた。
 ぼんやりと見詰める、濡れた舗道に映る暮れ泥む街の灯りの寂しさの中、さっきふと脳裏を過った、切なくも哀しい、あの懐かしい思い出に、尚更の人恋しさがやるせなく募っていくのであった。

「お待たせ、ごめんなさい」と、どこか優しさの籠められた囁くような女の声と、あの懐かしい科白が、すぐ後ろから聞こえた。
 今し方脳裏を過ったその懐かしいあの頃の光景が、その声に重なりゆく。
 刻を超え現れ来たようなその声に、「えっ」と、声にはならぬ驚きの声が、渇きを覚えた喉に閊え、振り向くより先に、稲妻のように、ちょっぴりの痛みを伴い身体全体を駆け巡った。
 切ない願望の故の幻聴か、
「青よ、勿論、行先はあそこよね」と、傘を畳んだ女が、俺の傘の下に滑り込み身を寄せ、その腕を、まるでドラマのシーンのように優しく絡ませてきた。
 突然の出来事に、心の何処かで戸惑いを覚えながら、それを気持ちよく、また懐かしく受け入れている自分が居た。
 遠い昔この場所で、同じ出来事が幾度も繰り返されたのではなかったか。振り返り目を見つめ、何か話しかけたかったが、信号が青に変わり、舗道を忙し気に渡り始めた人混みに流され、言葉すら夢の中のそれを探すかのように見つからなかったし、もしこれが幻想であるにしても、当たり前の言葉を口にするような事はしたくなかった。
 恐らく俺は、信号の変わり動きだし人混みに流されながら、この幻覚のようなシーンが、あの頃のように、ここに当たり前に在ることを夢見ていたのではなかったか。
 綾子も恐らく同じであるのだろうか、後は何も言わずに、組んだ手に少し力を込め、その心地よい重さで感動を伝え、あの頃のように、寄り掛かるようにし身を寄せ、暮れ泥む街を、二人でよく行ったあの喫茶店の方へと歩いてゆく。
 俺は、込み上げて来そうになった涙を堪えようとしている自分に気づいた。出来得れば、このままこの暮れ泥む街の風景の中を、この冷たい小雨の中を、ずっと黙したままに歩き続けていたいと願うのではあったが、その喫茶店は、幾らも行かぬ舗道の先に在った。
 店の一番奥に、新聞を広げコーヒーカップを傾ける客が独り居るだけ、マスターと女将が手持無沙汰のように何かを話していたが、会釈する俺を見、「いらっしゃい」と、いつものように微笑みを送ってくれた。が、続いて入って来た綾子を俺の連れだとはまだ気づいてはいないようであった。
「うわぁ、昔のまんま」と小さな声で喜びながら、綾子は改めて俺に挨拶をするでもなく、入り口脇の、少し大きな鉢植えに遮られた、あの当時好きだった席に腰を下ろし、想い出を追うかのように奥の方を覗き込むのであった。
「ふふふ、誰かさんに振られたの」と綾子が、あの頃のままに、悪戯っぽい笑顔を見せた。俺も首を縦に振り、あの頃のように苦笑いを作って返して見せたが、何故か、まだ言葉は出て来なかった。
「ふふふ、その沈黙は、綾子に遭えた感動のあまりかな」と、また悪戯っぽく綾子が微笑む。
 うーん、悔しいが、当たっていた。
「いつものでよろしいですか、綾ちゃん」と、そこへ、水のコップを運んできた女将が笑顔を突っ込む。
「あーっ、女将さん、お久しぶりです。お元気のようで何よりです」とか何とか、女二人、しっとりとした刻を過ごしたいと願っていた俺の繊細な心の襞の震えを解することも無く、それとはまるで懸け離れたはしゃぎ声で、あの頃のように姦しく話し始めたではないか。
 あーあ、何かが虚しく俺の中で崩れ去っていったが、久しぶりの再会に喜ぶ女将と綾子を責める訳にもゆくまい、何せ、あれから十五年という永き年月が流れていたのであったから。
 俺はあれからも、ここへはしょっちゅう顔を出していたから、まぁいいかと、注文を取ることも忘れて話す二人を笑顔で見ていた。
「いらっしゃい」と、それと気づいたマスターが、三人の隙間に髭面を捻じり込むようにし、まだ注文もせぬコーヒーのカップをテーブルの上に置いてくれた。
 俺にはアメリカン、綾子には温かいミルクがたっぷりのカフェオレ、あの頃のままに。
 客の来ないのを幸いに、四人の会話が弾む。と言っても、ははは、俺はそっちのけである。が、まぁそれも致し方あるまい。
 何だかなぁ、大事に思う俺が訊きたいことまで二人が綾子に質問の雨である。
 やっと現れてくれた客に救われるまで、俺は脇仏のように傍に控え、時折、相槌と愛想笑いを返すだけで、ただただ賑やかな三人の話を聞いているという有様であった。

「元気そうね、好かったわ」
「お互いにかな、俺も嬉しいなぁ」と、やっと現れてくれた救いの神の客に心の奥で感謝し、二人だけの会話が始まった。
「偶然って本当にあるのね、会社退けて駅に向かっていたら、ああ、こんな冷たい小雨の日に、あなたとここで待ち合わせしたこともあったなぁと、ふとあの頃のことを思い出し、いつもあなたが立っていた広場の辺りに目をやったら、あの頃のままに、あなたによく似た人が電話しながら立っているのに気づいたの。まさかと驚きながら近づいてゆくと、何だか待ち合わせキャンセルのような感じだったから、後を付けて……」
「ははは、仕事のことで会って、その後一緒に飲む予定だったけど、待たされた上、勝手にキャンセルされてね、ちょっと不愉快な気もしてたけど、お陰で綾ちゃんと再会できたとあらば、今は感謝だよね。さっき女将さんに訊かれてたけど、転勤だって」
「うん、先月から東京支社の企画課長。余りの忙しさに、あっという間のひと月だったけど、やっと落ち着いてきたところかな」
「それって、栄転」
「うん、ずっと本社の企画係長だったから、超栄転かな。毎日遅くなってあの広場を通るたびに、きょろきょろしてあの頃のあなたを探したり、ここへ顔出せばひょっとしてと思ったりしてはいたんだけど、まだまだ仕事の引き継ぎも完全に終わった訳ではないし、早く一区切りつけて、そろそろ会いたいなぁとは思っていたところだったのよ」
 綾子は、デザインを学び、就職先は故郷静岡のシューズやスリッパを手掛ける中堅どころの会社を選んでいた。俺は、能力に応じた中堅どころの商社、英語だけは得意で、貿易がやりたかったから。
「ははは、カッコいいねぇ」
「十五年振りの東京って、何だか浦島太郎みたいな気分よ。この間なんか、銀座の地下通路で迷子になっちゃった」
「ははは、そうだろ、俺も十年ばかしインドへ行っていたから、よく解るよ」
「インドへ行ってたの」
「ああ、二年ほど前に戻って来た」
 積もりに積もっていたであろう話は、当然のこと、尽きることはなかった。
「あの広場のところを歩いてたってことは、会社はこの辺りなのかな」と訊く俺に、
「そう、支社は新橋六丁目の西寄り。アパートは、あの頃と同じ吉祥寺に住みたくて、やっと見つけたのよね」と応える綾子の表情に、あの頃の思い出と同じ何かを求め、やっと探し当てたのであろう、堪えきれない嬉しさのようなものが溢れているのが感じられた。
「俺は、今は葛飾。勤め先は八丁堀。子供さんも連れてきたんだろ、そろそろ帰ってあげないと、待ってるだろ」と、一番訊きたかったことを、家族に託け、もうそろそろ限界かという時分になってやっと訊いてみた。
「あっ、言いそびれちゃったけど、私、未だ独身なの」
「なんだ、綾ちゃんもか」と、俺は嬉しさを隠し、つっけんどんにそう言うと、普段を装った。
「えっ、一人身なの」と、綾子は正直に驚き、素直に嬉しそうである。
 この辺りは男と女の違いかと、今頃になって冷静さを取り戻してきたらしい俺は、そう思った。
「ははは、この十五年、仕事が忙しくて、恋愛なんて丸っきり無縁だったな。連絡もしないでほったらかしにして。いつの間にか行き方知れずになっちゃったって感じだったけど、ごめん。ははは、後悔した時もあったんだがなぁ」
「いいわねぇ、仕事で言い訳できる人は」
「何だ、それは」
「ふふふ、皮肉かもよ。私はねぇ、あなたからの連絡が途絶えた頃が一番忙しくて楽しかったから、たまには声も聞きたかったけど、ついついおざなりになっちゃって。時が経つと、今頃電話なんかしても、もう家族もいるだろうし、迷惑だろうなぁって、ずーっと、あなたの亡霊に悩まされてたのよ。転勤が決まって、三月だったかな、思い切って電話してみたんだけど、矢張り繋がらなかったわ……」
「……」
 過ぎ去った刻を戻そうとするのではないのであろうが、男と女の心が通い合う僅かな沈黙の刻の流れが、微妙な温もりを感じさせながら二人を包み込んでゆく。
「何なのかしら、私も仕事が楽しくて夢中になっていたのは確かだけど、三十前の頃なんか、結婚とか、ふとそういうことを想う時が幾度もあったわ。ふふふ、でも、必ずあなたが邪魔をしに現れるのよね」
「……」
 綾子とは、毎日のように会わなければ寂しいほどに思う仲ではあったが、綾子が姉と同居していたことや、俺は両親と松戸に住んでいたこともあって、男と女の一線を超えることはなかった。互いの就職が決まった時も、意外とあっさり別れることができたように思う。多分綾子もそうであったのではないのだろうか、自分たちの今より、その仕事に対する新鮮な興味のようなものが大きく心を支配していたのではなかったか。インドへ転勤したことで、電話会社も電話番号も変わり、綾子のものも消去したように覚えている。
「比べるとかいうんじゃなくて、仕事も夢中になれるほど楽しかったし、そんな中で、あの頃のことは、苦しい時や大変な時の支えになってくれるほど素敵な思い出だった。私の心の奥に、この思い出だけは大事にしておきたいって頑ななほどの思い込みになっていたらしく、他のことが入り込む余地が無かったみたい」
「それって解るような気がする。俺も綾ちゃんとのあの時間より大切なものを共有できそうな人に中々廻り遭えなかったということかなぁ」
「ふーん、同じような気持ちだったのね」
「ああ、同じと言えるかどうかはよく解らないけど、綾ちゃんと過ごした大切なあの刻を壊すような恋はしたくなかったんだろうなぁ。都合よく、十年近くもインドに籠って居たしね」
「ふふふ、そういう言い方すると、インドだけに、何かを超越した行者のようね」
「不信心の身、及ぶべくもございませんが」
「ふふふふふ」「ははははは」
「まだあそこあるの」と、綾子が坏を煽る仕草をした。
「無いよ、インドから帰ってきたら、あの店仕舞って、違う店になってたよ」
「残念、浦霞の熱燗で飲みたい気分なのになぁ」
 そういえば、あの最後の日、この町の片隅の居酒屋で、徳利の浦霞を傾けながら、二人だけの別れの会をやったのであった。
「銀座八丁目の方に、浦霞を置いてあるいい店見つけたから、そこへ行こうか」
「お任せします」
「あら、もうお帰りですか。今日はお二人の再会の御祝い、私たちの驕りよ」と、三時間近く居たであろうに、女将が笑ってそう言ってくれた。
「ありがとう、ご馳走様でした、また来ます」と俺が応えると、
「女将さん、ありがとう。綾子、今日から恋愛再開致します」と、綾子が嬉しそうに宣言するのであった。
「えっ」と、女将が面食らったような笑顔で二人の顔を見比べた。
「ふふふ、心配御無用、二人とも、あれからずっと独身でした」
「ふふふ、何だか変な言い方ね。でも嬉しいなぁ、あの頃から、あなたたち二人には、絶対一緒になって幸せになって欲しいなぁって、父ちゃんといつも話してたからね。父ちゃん今忙しそうだから、後で伝えとくね、喜ぶよ」
「ありがとう、またちょくちょく来させてね」
「はい、大歓迎ですよ」
 カウンターの中からマスターが片手で会釈を送ってくれている、俺も会釈を返すと外に出た。

 雨はもう随分小降りになり、傘を差さずに歩く人も多くなっていた。
 雨に濡れた舗道に映る街の灯りの中、行き交う人々に溶け込むように、二人は大きなガードの下を銀座八丁目の方へ歩いて行った。

            短編集「雨」 其の五「雨の舗道で」終わり  其の六へ続く
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