レモネード

文字数 3,288文字

                                  NOZARASI 6-2
短編集 「雨」其の二    
 レモネード

 突然の驟雨が、背後の山の方から追い縋るかのように音を立て襲ってきた。
 無駄であることは百も承知で、懸命にペダルを踏み込み逃げようと試み楽しんでみたが、とても間に合うものではなく、あっという間に包みこまれ、痛いくらいの大粒の雨が背中を叩きつけて来た。
 やはり、これは駄目だなと諦め、濡れるに任せゆっくりと自転車のペダルを漕ぎ続ける。
 まぁこれも楽しいといえば楽しいのではある。が、すぐに下着までびしょ濡れになり、帽子を被ってはいるのだが、流れ伝う雨で息つく事さえ儘にならなくなってしまった。
 突然、稲妻が地を揺るがすような轟音とともに走った。
 肩を窄めて、少しヤバイかなと思ったが、高原のレタス畑のど真ん中では雨宿りできるようなところも見当たらなかった。
「小父さん、乗っていきますか」と、いきなり背後から声がして振り向くと、作業着姿の若い女が軽トラックの窓を少し開け、その隙間から笑っていた。
 迷っていると、また雷が何処か近くに落ちたような稲光と轟音を立てた。
「早くして、雷、危ないから、自転車、荷台に放り込んで」
 本当に危険を感じているのだ、少し命令口調になっている。
 実際にヤバい状況ではある、言われるままに荷台に自転車を乗せると、びしょ濡れの身体を助手席に滑り込ませた。
「すみません、助かりました」
「突然の雨ですものね」
「シート水浸しにしてしまって、後で拭かせて戴ききますので」
「いいわよ。畑仕事でいつも泥だらけ、却って土で汚れてしまったんじゃないのかしら」
 大きな道を少し逸れた林の奥に、多角形の屋根をしたサイロのある酪農家があり、少し離れて、その風景に見事に溶け込んだ小ぢんまりとした造りのログハウスがあった。
 ログハウスの隣に造られた、まだ新しそうな納屋の広い軒下に車ごと入ると、
「着替えありませんよね」と、やはり笑いながら訊く。
「大丈夫です。真夏ですからすぐに乾きます」と応えると、
「それもそうね。でも、脱いで絞った方が宜しいんじゃありません。私、小屋に行って温かい飲み物でも作ってきますので、その間にどうぞ」
 そう言って、麦わら帽子で雨を避けるようにし、直ぐ隣り合うログハウスに小走りで駆けこんでいった。

「予算が少なくてテラスも作れなかったから、こんな納屋の軒下でごめんなさいね。それに、私一人暮らしなもので、変な噂でも立つと母屋の叔父さんが迷惑するといけないんで、男の方家に上がって戴くことが出来ないの」と、戻ってきて笑いながら言う。
「いえ、助かりました」
 野菜を入れるプラスチックのコンテナを裏返しにし、その上に木地そのままの御盆を置く。
「そこのコンテナ引っ張り出して腰かけてください。はい、これレモネード。お嫌いですか」
「いえ」
 差し出されたちょっと洒落た大きめのマグカップを手に取るとその器の温かさが伝わり、たっぷりと入れられたレモネードの香りがほんのりと鼻を擽る。
「ふーっ」
 ひと口飲むと、思わず吐息が口を突き、雨で少し冷えた身体にその温もりが嬉しい。
「フフフ」と、小さく悪戯っぽく笑った女の顔が可愛い。
「ごめんなさい、笑ったりして。ホットのレモネードって、そんなに熱くなくても、皆、ひと口飲むと、ふーってするのよね」
「そういえばそうですね。少し温かくて、身体全体が心地よくなってゆきます。身も心もほっとするんじゃありませんか」
「フフフ、それ駄洒落ですか。ほっとして、思わず‘ふーっ’ですね。やはり、夏といっても、あれだけびしょ濡れになってしまうと、ここいらは標高高いから冷えちゃいますものね」
「天気予報で今日は雨の心配はないと言ってたものですから、合羽も持たずに出て来てしまいました。とんだご迷惑をおかけいたしました」
「迷惑って、これくらいの事は構わないんじゃありませんか。他人に迷惑かけてはいけないなんて鯱張っていては、人生、面白くもなーんにもないですもの。すみませんって謝られて、少しくらい顔顰めても、笑って赦せるものだったら、後で思い出しても楽しいんじゃありませんか。私、今楽しいですもの」
 女は、笑みを浮かべたまま話し続ける。
「フフフ。私、迷惑の塊」
「迷惑の塊ですか」
「はい。この隣の大きな農家は私の伯父さんの家、死んだ父の兄上。父も母も死んで、東京の家売り払ってここへ来たの。若い女がこんな所へログハウスなんか建てて、身も固めずに一人で百姓の真似事なんかしながら暮らしてるなんて、一見かっこいいようだけど、ご近所の噂の種ね。伯父さんや家族にとってはいい迷惑なんじゃないのかしら」
「……」
「深く考えないで、深刻なことなど何もないんですから。伯父さんたちともすごく上手く行ってるし、ここの暮らしは私の憧れ」
「憧れ」
「はい。小さい時ね、夏休みや冬休みになると、父を説き伏せて必ずここへ来てたの」
「お父さんはあまり気乗りはしなかった」と、合の手を入れると、
「そうなの。私が五つの時に母が死んで、父はずっと独り身を通したの。それでね、ここへ来ると、必ず、そろそろ後添えをって」と、話が続いた。
「それが厭で……」
「でも、ここが嫌いなわけではなかったんですよ。ここに来ると落ち着くっていつも言ってたし、癌で死ぬ前にも、俺の墓はここが見えるところに建ててくれって、ちょっと行った先の丘の上に集落の墓地があるんですけど、そこの一番高い所にって」
「一番高いところですか」
「ここのおうちの墓は一番低い所にあって、この家が見えないの」
「いいですね、自分の生まれ育った家の見える風景の中で眠れるなんて」
「そう思いますか、ふふふ、ある意味では、父も私も落ちこぼれ」
「落ちこぼれ?」
「都会に憧れて田舎を捨てたはずなのに、心の何処かにその田舎をずっと引きずって生きて、それでも死んだらここに埋めてくれって、母は違うお寺に眠っているんですから。私も同じ、上辺だけの人との付き合いや、自分の本質に関わることすら思うようには主張出来ない社会生活、そんなものから逃げてきた落ちこぼれ」
「うーん、僕もそうなのかなぁ、小さい頃に里帰りする父に連れられて夏を過ごしたりした田舎に似ているこの辺りの風景が好きで、小さな別荘建てて月に何度か来るんですが、出来たらここに墓も建てたいと思っているんです」
「お生まれはどちらなのですか」
「昔は田舎だった、埼玉の都会のど真ん中」
「そうですか。でもここいらの寺は、よそ者の墓は受け入れませんよ」
「そのようですね。役場でお訊きしたら、そのようなこと言われました」
「田舎って、昔の風習っていうんですか、くだらない事に頑固なんですよね」
「それでいいんじゃないんですか。何もかも受け入れてしまうと、都会と変わらなくなるような気がしませんか」
「そうかぁ、周りの町場に近いところは皆そのようになってしまい、この頃では半都会っていえる姿になってしまいましたものね。私の大好きなここは、うーん、くだらない事にも頑固で、田舎のまんまの方がいいのかも」
「はい」
 急に鳴き始めた蝉の声に気がつくと、いつの間にか雨は止み、切れて来た雲間の青空から夏の日差しが一気に差しこみ、雨上がりの高原は、あの生き生きとした清涼な空気に満ち始めていた。
「あの丘です」と、女が教えてくれた小高い丘の墓地に、自転車のギヤを落としながら登ってみる。
 北に聳える山の裾野に広がる緑の中に、疎らに点在する農家が一望出来た。ログハウスの辺りは、社のあるこんもりとした森に隠れて、女の言ったように、一番高い墓辺りからしか望めなかった。
 一番高い場所にあるお墓に手を合わせ、今日のお礼をした。
 さっき別れ際に、女が、
「今度、別荘にお伺いしてもよろしいですか」と言うので、別荘の場所を教えておいたが、突然の若い女の訪問に、妻の驚く顔が見ものである。女が訪ねて来る迄、この事は黙っていようと思いながら家路に着いた。

                          ―完―
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