文字数 3,282文字

 坂

 会社で美弥子と毎日顔を突き合わせているのも億劫だ、美弥子は辞めないだろうから、俺が辞めるか。
 そう思って辞表を出した。
 いや、大した理由がある訳ではない。
 要するに俺は、初恋以来、人生三度目の失恋をしただけなのである。
 辞表を出した後、三十も半ばになって失恋で会社を辞める奴も珍しいと、自分でそう思って、心の中で苦笑いをした。
 詳しい事は話すまでもない。
 そこら辺に腐るほど転がっている、男と女のお話である。
 会社に出るのは明日までと云う日に、美弥子から携帯電話にメッセージがあった。
「ごめんなさい」
 それだけのメッセージである。
 いや、何も期待はしていなかったのではある。が、少し寂しい事は寂しかった。
 大学時代の友人に頼んだら、営業で良ければと、まぁ次の行く先は決まっていたし、二十日ばかしの時間と、少なかったが退職金も貰えた、久し振りにのんびりと旅にでも出てみるか。
 何処へ行く当てもなかったが、生まれ故郷の九州を選んだ。
 生まれ育った阿蘇の、あの雄大な風景の中で少しのんびりして見たかった。

 レンタカーで、熊本駅から実家のある宮地に向かう。
 立野から阿蘇の外輪山の中、聳え立つ五嶽を懐かしく眺めながら車を走らせていたら、無性に草千里を見たくなった。
 実家に向かうのを止め、直接阿蘇山に向かった。
 多分、車の行く手の風景の、余りの変わりように、あの頃と変わらぬ風景を見たくなったのだと思う。
 草千里は、俺の期待を裏切らなかった。
 雄大な阿蘇に抱かれ秋色の草原は、小学生のあの頃を思い出させてくれた。
 草千里でターンすると、そのまま日向へ向かった。
 予感がしたのだ。
 志津子と見た、あの時の素晴らしい紅葉が見られるのではないかと。
 学生時代、志津子とは、同じ九州と云う事で近しくなっていった。
「独りぽっちの部屋に帰りたくない」と、志津子が言った日から、杉並の俺のアパートで共に暮らすようになっていた。
 シャイではあったが、芯の強い女であった。
 四年の夏には二人とも就職が決まった。
 どちらからともなく、九州へ旅行に行こうと云うことになった。
 俺は、いずれ志津子と結婚するつもりでいた。
 この際、父や母にも会って貰い、出来たら、志津子の両親ともと思っていた。
 宮地の実家では、和やかな雰囲気で迎えられ、志津子もホッと胸を撫で下ろしていた。
 親父の車を借り、阿蘇を巡ったりし、三日目に志津子の田舎へ向かった。
 高千穂に近づくにつれ、山々の紅葉は二人の言葉を失わせるほどに綺麗であった。
 もうじき日の影と云うところで、志津子が車を止めさせた。
 小高くなった道路の下に広がる山間に、川の流れに沿って、民家の点在する集落が見受けられた。

「あそこが私の家」
 そう言って、川沿いの集落を指差した志津子の声が、心なしか寂しそうに感じられた。
 暫く懐かしそうに見ていたが「行きましょ」と、車に先に乗り込んでいった。
 坂を下ろうとした俺に「違う、戻って」と、突然志津子が言った。          
 当然実家に向かうのだと思っていた俺は、「帰るの?」と聞き返した。
 志津子が頷く。
 その目に寂しさのようなものを浮かべ、涙ぐんでいた。
 俺は何も聞かなかった。
 それ以上は聞いてはいけないような気がしたのだ。
 初めて志津子が見せた、心の奥のような気がした。
 戻った実家では、平静を装い、志津子の家へも挨拶をしてきたことにした。
 東京へ帰る列車に乗り込んだその時から、志津子は塞ぎがちになって行った。
 志津子が俺の前から消えたのは、杉並に戻って十日もしない内だった。
「ごめんなさい」と、それだけ書かれた便箋が、狭い四畳半の茶卓の上へ置かれていた。
 俺は志津子を探さなかった。
 美弥子の時も、志津子の時も、別れの時、俺は流れのままに己を任せた。
 引き留めたい気持ちも、探したい気持ちも、無い訳では無かった。
 いや、本音を言えば、泣いて縋っても一緒にいてもらいたかった。
 それほど好きであった。
 見栄を張った訳でも、投げ遣りになった訳でもなかった。
「ごめんなさい」とだけ告げて、別れるのだと心を決めた女の、その心の奥に踏み入る事を怖れたのだ。
 当然、俺は、分かれた二人の女の、その心奥を知らない。
 喧嘩したって、正面切って互いの目を見ながらやっている内は良い。
 男と女は、背中と背中で話すようになった時はもうお終いなのだ。
 恰好つける訳ではないが、今でもそう思っている。
 未練な話、俺の方から背中を向けた事は無かった。
 俺は、今でも二人の女に惚れている。
「ごめんなさい」と、ただそれだけの志津子の便箋だって、美弥子のメールだって、それは大事に取ってある。
 未練と云えば未練かなとも思うのだが、捨てられない。

 高千穂でやっと見つけた宿に泊まり、翌日、神社に立ち寄ったりしてから昼過ぎに高千穂を出て、冷たい小雨の中、延岡へ向かった。
 日の影まで来たが、あの車を止めた所が分からなかった。
 思い出せないのだろうか。
 霧雨のようになってきた雨に、風景が違って見えるからだろうか。
 あの日は晴れていた。
「あそこが私の家」と、志津子が指差した、あの坂の上からの風景に行き当らなかったのだ。
 新しい立派な道路になって、車を止めたあの坂自体が記憶と重ならなかったのか。
 微かに残るあの坂から見えた川の流れの記憶を頼りに、それらしき川に沿って上流へ向かう。
 川沿いの山の、雨に煙る紅葉が美しい。
 道は、簡単に舗装された、車がやっとすれ違えるくらいの幅であった。
 道の端を、学校帰りの四、五人の子供らが、濡れるほどでもない霧雨に、傘を手にはしゃぎながら歩いていた。
 スピードを落とし、子供たちを追い抜くと、少し上流まで行き戻ってくる。
 別に、志津子の家を探そうとしている訳では無かった。
 何となく、あの日見た、行けなかった志津子が育った風景の中に身を置いてみたかった。
 見通しの良い道の向こうに、さっきの子供たちが歩いて来る。
 道沿いの民家から、子供の母親であろうか、道路まで出て、子供らと楽しそうに話していた。
 その脇を、ゆっくりと通り過ごしてゆく。
 母親が、徐行する車に向かって、「すみませんね」と云う風に、軽い会釈をくれた。
 志津子!
 会釈を返しながら少し行き過ぎ、俺は思わずブレーキを踏んだ。
 サイドミラーを見ると、訝しげな表情で、その志津子らしい母親がこちらを見ていた。
 霧雨の水滴で少し見難い。
 窓を開けた俺に、子供達を気遣いながら、「何処かお訪ねですか」と、母親が訊いてきた。
 俺に気付かないのか。
「あっ、すみません、延岡へは?」
 焦る気持ちが、咄嗟にそう聞いてしまった。
「この先の広い道を右です」
「ありがとうございます」
 俺は礼を言うと、腑の抜けたような心で、アクセルを軽く踏み込んだ。
 右の瞼に小さな黒子が二つあったし、志津子に違いはあるまい。
 三年近くも共に暮らした俺に気付かないのか。
 十年余りの間に、俺はそんなに変わってしまったのか。
 あの頃の俺を思い浮かべてみた。
 変わったと言えば、変わったか。
 ポニーテールが結えるほどに長く延ばした髪も短く切って、勤め人風に小ざっぱりとし短髪にしているし、細身だった身体もだいぶ肥ってしまって、顔もふっくらとなってしまったし、眼鏡も掛けるようになっていた。
 志津子は、少し丸くなった体型以外は、そんなには変わっていないように見えた。
 広い道に出ると、右に曲がった。
 なだらかな下り坂を、アクセルを軽く踏み込み加速しながら、何処か胸の小さな閊えが下りたような気がしていた。

 日向灘は晴れていて、蒼い空と碧い海が、目に沁み込むように綺麗であった。
 美弥子もまた新しい恋をして、幸せに暮らしてゆくのであろうかと、その風景を眺めながら思ったとき、ふと牧水の歌が脳裏を過った。
「白鳥はかなしからずや海の青空のあをにも染まずただよふ」
 俺は、本当に二人の女の心を理解できていたのであろうか……。

                            完
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