時雨
文字数 1,116文字
時雨
山には、六月のあの日に出遭った輝くような生命力はもう感じられなかった。
往時は馬車道だったという廃道同然になってしまった旧道を落ち葉が覆い、今朝方の冷え込みで霜でも降りたのであろうか、登山靴にしつこく纏わり付く。
いや何、それが歩くのに邪魔になるというのでもないのだが、何とはなしに煩わしく気にかかるのである。
それはきっと、自分の心から離れてゆかないあの想いに起因することは確かであろう。
見上げれば、冬木立が天を刺し、蒼穹と呼ぶに相応しい抜けるように青い空がその哀しみを弥増す。このまま歩き続け、いつものようにクタクタに疲れ果て、あの小高い山の頂に立てば、今にも朽ち果てそうな祠の虚空蔵様が俺に何かを語りかけてくれる。
苔生した石の虚空蔵様が口を利く訳ではないのであるが、恐らく、俺の心に用意されたいくつかの迷いの中から一つの解決を導き出してくれるのである。
そう、それはもうあらかじめ俺の心に存在するであろう妥協の一つなのであろうし、受け入れやすいように噛み含められているのだ。
そうでなければ、選択肢は一つしかないから……。
ははは、必ずそこへは行き着かないように、俺の心は二重三重に守り固められてはいる。
こんな山歩きなんぞしなくても、あのアパートの小さな部屋で、耳栓をした沈黙の世界に閉じ籠り、半日も耐え続ければ、同じ結論に行き着くのも確かなことではあった。
ただ、それをしたくない自分が居る、その俺が、生き延びることを選択するためにここへ誘う何かが存在するのである。
コンビニで求めたお昼の弁当を食べながら、「あっ、ごめんなさい」と笑い、虚空蔵様にお裾分けの竹輪の揚げ物をお供えする。
虚空蔵様も笑ったような気がした時、一陣の風が吹き抜けた。
小春日和の暖かさを押しのけ、頬を刺すような冷たい空気が……。
空を見上げると、先程までの青い空に、次第に黒い雲の塊が、少し早い風に乗って流れ始めていた。
明るい初冬の空からパラパラと小粒の雨が打ちつけるように落ちてくる。
急かされるように腰を浮かすと、「時雨ですよ、また来ます」と、虚空蔵様に頭を下げ、来る時と違う踏み分け道の坂道を下り出す。
遠くに見える集落まで二時間余り、直に林の中に入り込み、時雨もそうは気にならなくなってゆく。
登山口に停めた軽自動車に辿り着くと、一応「ほっ」とするのではあるが、自分を納得させることができない悔いみたいなものが心の何処かに今日もあることを後ろめたく感じるのである。
車のドアを「バタン」と閉めると、俺はもう日常の自分に戻っていた。
フロントウインドーのワイパーが滑り、「時雨」を拭う……。
第八話「時雨」 終わり
山には、六月のあの日に出遭った輝くような生命力はもう感じられなかった。
往時は馬車道だったという廃道同然になってしまった旧道を落ち葉が覆い、今朝方の冷え込みで霜でも降りたのであろうか、登山靴にしつこく纏わり付く。
いや何、それが歩くのに邪魔になるというのでもないのだが、何とはなしに煩わしく気にかかるのである。
それはきっと、自分の心から離れてゆかないあの想いに起因することは確かであろう。
見上げれば、冬木立が天を刺し、蒼穹と呼ぶに相応しい抜けるように青い空がその哀しみを弥増す。このまま歩き続け、いつものようにクタクタに疲れ果て、あの小高い山の頂に立てば、今にも朽ち果てそうな祠の虚空蔵様が俺に何かを語りかけてくれる。
苔生した石の虚空蔵様が口を利く訳ではないのであるが、恐らく、俺の心に用意されたいくつかの迷いの中から一つの解決を導き出してくれるのである。
そう、それはもうあらかじめ俺の心に存在するであろう妥協の一つなのであろうし、受け入れやすいように噛み含められているのだ。
そうでなければ、選択肢は一つしかないから……。
ははは、必ずそこへは行き着かないように、俺の心は二重三重に守り固められてはいる。
こんな山歩きなんぞしなくても、あのアパートの小さな部屋で、耳栓をした沈黙の世界に閉じ籠り、半日も耐え続ければ、同じ結論に行き着くのも確かなことではあった。
ただ、それをしたくない自分が居る、その俺が、生き延びることを選択するためにここへ誘う何かが存在するのである。
コンビニで求めたお昼の弁当を食べながら、「あっ、ごめんなさい」と笑い、虚空蔵様にお裾分けの竹輪の揚げ物をお供えする。
虚空蔵様も笑ったような気がした時、一陣の風が吹き抜けた。
小春日和の暖かさを押しのけ、頬を刺すような冷たい空気が……。
空を見上げると、先程までの青い空に、次第に黒い雲の塊が、少し早い風に乗って流れ始めていた。
明るい初冬の空からパラパラと小粒の雨が打ちつけるように落ちてくる。
急かされるように腰を浮かすと、「時雨ですよ、また来ます」と、虚空蔵様に頭を下げ、来る時と違う踏み分け道の坂道を下り出す。
遠くに見える集落まで二時間余り、直に林の中に入り込み、時雨もそうは気にならなくなってゆく。
登山口に停めた軽自動車に辿り着くと、一応「ほっ」とするのではあるが、自分を納得させることができない悔いみたいなものが心の何処かに今日もあることを後ろめたく感じるのである。
車のドアを「バタン」と閉めると、俺はもう日常の自分に戻っていた。
フロントウインドーのワイパーが滑り、「時雨」を拭う……。
第八話「時雨」 終わり