驟雨の後で

文字数 8,356文字

驟雨の後で
 
 それなりに整備された林道を上り詰め、少し広くなった終点の駐車場に車を停める。すでに先行者のものであろう車が四、五台停めてあった。片隅に立つ大分古くなって色褪せた登山道の道標を確かめると、私は、リュックの尻を押し上げ、少しうつむき加減に歩き始めた。
 厭な塩梅だなぁと、今にも降り出しそうな渓間の上空を見上げて、私は気持ちが少し萎えてゆくのを覚えたが、今更引き返し、出直すわけにもゆかぬ、温泉に浸れば、気分も変わるさ、目的の温泉のある山小屋まで、兎に角歩き続けるしかない。
「着くまでは降り出さないでくれよな」と、心の中で神仏に願掛け、「フフフ、無信心の輩ではございますが、ご都合主義の男の神頼み、よろしくお願いいたします」と、独り笑いを作って気分を変える。
 次第に谷が狭まり、急崖に切られた人一人歩けるだけの狭い登山道の行く手の谷底は、結構な流れが白い瀬をなしている。五十メートル以上はありそうだなぁと、その急崖の高さに少し緊張感が走るが、難場はこの先だけだ、登山道には、やけにしっかりとした鎖がかけられていて、滑落注意の白い板が、太い針金で結び付けられていた。
 高所恐怖症というわけではなかったが、まぁあまり気持ちいいものではない。リュックのベルトを締めなおすと、なるべく下を見ないようにしながら慎重に蟹歩きを続けてゆく。
 断崖に切られた道は狭いが、鎖場を渡り切った先は割と歩きやすく、いくらも行かないうちに、目指す山小屋らしき建物が目に入ってきた。
 歩き始めてからおよそ三時間、小屋の左手奥に、うっすらと湯気を上げる温泉が見え、すでに幾人かの人々が湯船に浸っているようであった。
 受付で声を掛けると、一見穏やかな雰囲気を持った初老の小屋番が現れ、危険個所や、一通りの注意事項を説明され、五百円也の使用料を取られた。
 ハハハ、取られたというのは表現が悪いかな、徴収されたとしておくか。
 うーん、取られたと感じたのは、恐らく小屋番の態度がそう思わせたのである。
 悪い、その穏やかな印象とは違い、兎に角不愛想、印象が酷く悪い。
 自炊だが、天然温泉付きだし、公営ということもあって、使用料五百円は特筆ものかな。小屋番の愛想は個人的なものであろうから、この天然温泉付き山小屋の評価には加えられないな。
 先ずは兎も角温泉だ。リュックで寝場所を確保すると、汗だらけのタオルと着替えを持って、人ひとりがやっと通れるほどの狭さの歩道を下る。足元注意と看板はあったが、コンクリートで固められ危ないとは感じられない。歩道を下ってゆくと、二か所ほどの狭い個所もあり、転べば下は岩場、怪我をすることは間違いななぁと、慎重にバランスを取りながら露天風呂のある河原の方に下ってゆく。
 河原から一段高くなった岩の棚の広い場所に、コンクリートと岩で固められたそう広くはない湯船が二つ、泉源は一つのようで、どちらに入っても同じようなものだなと思われたが、片方は上流を、そしてもう片方は下流を見渡せるように上手く造られていて、切り立った渓谷を下る澄み切った流れが身近に望まれ、いかにも深山幽谷の露天風呂といった雰囲気を漂わせていた。
 見下ろす谷川の淵の底が丸見え、水は驚くほどに澄んでいる。一通り四囲を眺めてから、のんびりと、そしてボーッと湯に浸っていると、先ほど到着したらしい若い男たちが三人、何やら姦しい。
 谷川の方を指差したりしながら騒いでいるが、ハハハ、どうやら、流れの中に岩魚が泳いでいるのを見つけたらしい。
 ほかの人も、それに釣られて河原をのぞき込む。ハハハ、もちろん私も……。
「尺はあるだろ」
「いや、もう少しでかいな」とか、七、八人の男たちが素っ裸でワイワイガヤガヤ、まぁあまり見たくはない光景ではあるが、どこかで熊でも見ているくらいで、目を背ける者なんて誰もいないであろう。
 が、私は、コソリと密かにほくそ笑む。
 温泉から上がると、リュックから釣り道具を引っ張り出し、小屋番のおやじに声をかけた。
「この川は釣り禁止ではないですよね」
「ああ」
「入漁券とかありますか」
「ハハハ、そんなものはないよ。釣りが出来るのは、このあたりの上下百メートルくらいだけで、あとはみな断崖絶壁、わざわざ三時間もかけて、おっかない登山道を登って釣に来る物好きなんて滅多にいないからね」
 私は、またニコリとほくそ笑む。
「やる気だね」と、私の雰囲気を感じ取った小屋番のおやじが悪戯っぽく微笑む。
 おや、機嫌が直ったみたいだぞ。
「勿論です」と、なぜかほっとして、私も同じく悪戯っぽい微笑みを返す。
「川虫はいくらでも採れるみたいだよ、この下流は来る時に大変だったろう鎖場のゴルジェ、流されたら登山道の入り口辺りまで上がるところはないよ。川の水は驚くほどに冷たいから、泳ぎの達者な人でもかなり危険だからね、絶対流されないように気を付けるんだよ、いいね」と、小屋番のおやじが念を押す。
「はい」
「河原には、すぐ下の女性用露天風呂の脇を通って降りられるよ、今日は女の人は来ていないから気にすることもないけどね」
「ありがとうございます」
 小屋番の様子が先ほどとは少し違って機嫌がいいのは、まぁ何かそれ相応の好いことがあったのだろう。それが何かは知らないが、こちらとしては不愛想な雰囲気よりはその方が助かるかな。

 釣り餌の川虫を取ろうと流れに入れた手が痺れるように痛い、小屋番のおやじが言っていたように、水が驚くほどに冷たいのだ。この温泉から登山道を上り詰めると、大きな雪渓に出るらしい、おそらくその雪解け水であるからであろう。
 すぐ上の渕尻にユラユラと泳ぐ岩魚の影が……。
 釣りとしては、何の造作もない、放り込んだ仕掛けの餌が沈みきらないうちに、気づいた岩魚が待ちきれないかのように素早く餌を襲ってきた。
 所謂向こう合わせであるが、淵の奥へ逃れようと抵抗するパワーが凄い、それでも何とか最初の一匹を確保した。
 川虫が豊富なのであろう、丸まると太って旨そうな岩魚である。
 小屋番のおやじの話では、今日の泊り客は十人ばかしらしい。まだ温泉に浸かっているさっきの三人が、私に向かって手を振っているが、何か叫ぶように言っている声は、渓川の流れの音に消されて判別は出来ない。仕方ないので、一応私も手を振って応えておいたが……。
 二十匹あまりの岩魚が短時間で確保できた。それも、型ぞろいの好い岩魚ばかりである。
 河原で内臓を取り除いてから小屋へ戻る。
 小屋番のおやじが、その釣果に目を丸くして呆れている。
「ふーん、上手なもんだ、傷むといけないから、沢水を流しっぱなしの洗い場のバケツの中に浸けとくといいよ」
「ありがとうございます。二十匹ばかし釣れましたから、今夜の泊りの方々に塩焼きにでもしてくださいとお伝えください」
「ありがとう、みんな喜ぶよ」
 岩魚をバケツに浸けていると、さっきの三人組が覗きに来た。
「えっ、こんなに釣れたんですか」とか、「ウワッ、いい岩魚だなぁ」とか、それぞれに驚いている。
「ハハハ、釣りをする人なんて滅多にいないから、岩魚も初、警戒心というものがないんだろうね」|
「あのー、これ少し分けていただけませんか」と一人が、見え見えの遠慮がちを装いながら聞いてきた。
「ハハハ、そのつもりで余分に釣ってきたから、さっき小屋番のおやじさんに、よかったら、泊りの人みんなに分けてくれって頼んでおきましたよ」
「やったぁー、岩魚酒が飲めるぞ」と喜ぶ若者に、「ここには、そんなことするお酒なんてないでしょ」と私が呆れ顔で言うと、「ヘへへ、売り物はないけど、酒類持ち込みはオーケイ、一升瓶と瓶ビール二ケース、このために汗だくになりながら担いで登ってきましたから」と自慢げに嘯く顔が悪戯っぽく好感が持てる。というか、純粋に卑しいだけなのかな。
 そうは言えないから、「若さだねぇ」と、お世辞で返す。
「さぁ今日は忙しいぞ、バーベキューの準備と、岩魚酒を拵えての宴会だ、よかったら今夜は楽しく一緒にやりましょう」
「是非、ですが、炭とかも持ってきたんですか」と私が聞くと、「炭はね、大概のお客さんが残ったやつを置いてゆくから、裏に山ほどあります、いくらでも使い放題なんですよ、もし無いときは、受付にも売ってますし」と、屈託はない。

「やっぱりビールは瓶が一番だよなぁ」
「ここの沢水の温度が、ビールに適温なんだよなぁ」とか、「プハーッ、最高」とか言いながら楽しそうに飲んでいる。
「ここにいるとね、ビールなんて飲めません、いつも焼酎、たまぁに、お客さんの置いて行ってくれる上等のウイスキーかな」と、小屋番のおやじも上機嫌である。
「ここの水なら、焼酎もウイスキーも、極上になるでしょ」と私が聞くと、「ハハハ、それは言えてるけど、この小屋は公営だから、酒類は販売禁止。俺はビールと日本酒、それが大好きでねぇ、歩荷の人にこっそり頼むんだけど、彼らも役所の請負だから、個人的な嗜好品はねぇ、三百五十の缶ビール六本入りとか、日本酒は四合瓶かカップ酒、ほんの気持ちだけ持ってきてはくれるよ、それは、心からありがたい、感謝感謝だがね」と、気落ちした笑顔を作って見せた。
「前に来た時にそれ聞いてたから、今回は、お酒とビール、余分に持ってきましたよ、僕らからのプレゼントです、遠慮なく召し上がってください」と、三人組の一人が笑う。
「ありがたいねぇ、感謝して戴きます」と、小屋番のおやじが丁寧に頭を下げた。
 岩魚を配った他の客が、「ありがとうございました、岩魚って初めて食べましたが、結構おいしいですね」とか言いながら、持参の缶ビールとか、カップ酒とかを置いていってくれる。
 三人組は職場の仲間、温泉が目的ではあったが、ひと汗かいて、温泉で疲れを取って、バーべキューでアルコールを一杯引っ掛け宴会をするのが楽しみらしく、多いときは、七、八人で、近場で、温泉があって、こういう遊び方ができる場所を探しては訪ね、楽しんでいるらしい。
「山の中だもの、やっぱ、肉より山の恵みの岩魚かな、このきれいな流れで育ったんだもの、刺身だっていけそうだよなぁ」
「御刺身好いですね、造りましょうか、まだ何匹か残っていますから」と私が応えると、「えっ、マジですか」と、一人が身を乗り出してきた。
「はい、超マジ。任せてください、すぐに出来ますからね」
 私は、二匹の岩魚を捌くと、刺身にして出してみた。
 スーパーの袋入りのワサビをリュックから取り出して添えていると、「山葵持参ですかぁ」とか、「あのぉ、もしかしてプロですか」とか、包丁捌きの手真似をしながら、なんだか恐る恐る聞いてくる。
「見事な包丁捌きだものなぁ」
「ハハハ、僕、魚屋の三男坊ですから」
「魚屋さんの、ですか」
「はい、実家は漁港の町の小さな魚屋です」
「ふーん、それじゃプロと一緒だ、俺たち付いていたんだよなぁ、こんな山奥で、こんな旨い岩魚料理を食えるなんてなぁ」とか、「山奥だからこその恵みだろ」とか、勝手なことを言いながら、三人も嬉しそうである。
「俺は付きというものが全くない男だけど、今日は上々、吉日だな」と、小屋番のおやじが少し赤くなった顔で拗ねてみせながらも嬉しそうである。
「俺はなぁ、教育委員会と役所の連中に騙されたんだよ。小学校で校長を定年退職、柵縛りにされ、無理やりここの小屋番の再就職を押し付けられ、給料は三分の一以下、一年のうち半分はここへ山籠もりさ。役所の人間の言ってたように、最初はこんな素晴らしい大自然の中でのんびりできるなんて最高の贅沢だと思って楽しんでいたんだけど、二年もすると、もう辟易、何もすることもないこんな山奥での一人暮らし、食い物なんて最低さ、毎朝毎晩干物や缶詰、それにパックの漬物とレトルト食品、たまに役所に頼まれた歩荷が運び上げてくれる肉や野菜、平日なんてお客さんの来ない日の方が多いだろ、寂しくて寂しくて、酒の量ばかり増えていくのさ。好きなビールや日本酒なんて滅多に飲めやしない、焼酎か安物のウイスキーの水割りばかり、今日は最高の贅沢かなぁ」と、愚痴りだしたから、みんな一瞬にしてシュン、口数が少なくなってしまったが、ハハハ、そこは元校長先生、みんなの表情にすぐそれと気づき、「みんな、今日はありがとう、感謝感謝、俺のため、みんなのため、今日の良き日に乾杯だ」と、上手に気分を転換させ盛り上げていく。
 ハハァーン、私が受付をした時の不機嫌さはこのせいか、彼らが現れて、お酒とビールを担ぎ上げてきてくれたから機嫌を直したのだなと、私はあの仏頂面を思い起こし、心の奥でクスリと笑ったが、うーん、でも自分だったらここの暮らしには耐えられないかもしれないなぁと、心底同情するのであった。

 寝る前に確かめたラジオの翌日の天気予報は最悪、午後近くから大雨かもしれないという。
 翌朝、三人組を含め、泊りの人たちは、雨の降りだす前にと、さっさと朝風呂に入り、いそいそと帰り支度、十時前には小屋には誰もいなくなってしまった。
 いや、私と小屋番のおやじを除いてはかな。
「今夜も泊まらしてもらっていいですか」と聞くと、「ああ、山小屋はね、泊りの人は断れない決まりでね……」と、嬉しそう。
「五月の連休の出勤で、その分の休みを貰ってここへきてますから、慌てて帰る必要もないので、もう一日、のんびりと温泉に」
「雨の予報、登山客も上の山小屋で足止めだろうから、秘湯を独り貸し切りだ、いいねぇ。俺は毎日貸し切りのようなものだけどね」と、小屋番のおやじが笑い、「今夜も独りのつもりだったから、俺も大歓迎だよ、嬉しいねぇ」と、本音を吐く。
 昼前から降り始めた雨は、次第に強さを増し、山小屋の屋根を、会話もできないほどに激しく叩き、驟雨の態である。
「大丈夫だ、山越えの風に乗って雲が湧くときは、この山の雨は長くは続かない。幾分川の水嵩が増すくらい、それに、遅くとも、夕刻にはこの雨は上がるよ」と、不安げな私の表情に、小屋番のおやじは至って鷹揚である。
 この山小屋の主ならではの観天望気か。
「明るいうちに雨が上がったら、すぐに風呂に入るんだよ、滅多には見られないものが見られるかもしれないからな、カメラ持ってきてたら濡れないようにして用意しとくといいよ」
「はい……」
「ハハハ、何がとか、そんなこと何も聞くんじゃないよ、期待外れってこともあるが、今日は何となくよさそうな気がするから、楽しみにしてな」と、小首を傾げる私を見ながら、意味深である。
 渓川を見下ろすと、少し水嵩が増し、水の色もわずかに濁り始めてきたように見えたが、空は明るさを増してきていた。
「うーん、雨はすぐに上がるよ、そろそろかなぁ、いつ始まるか予測はできないから、長風呂が苦手でなければすぐ行った方がいいよ」と促され、私はビニール袋にカメラを入れ、タオルを頭に被って露天風呂に向かった。
 小さな屋根の脱衣所で小さくなって服を脱ぎ、湯船にどっぷりと身を沈める。
 一陣の冷気を帯びた風が谷間を吹き下り、私の頬を嬲ってゆくと、雨は急激に上がていった。
「自然現象だからね、予測は外れることもままあるが、まぁのんびりと待ちますか」と、後ろで声がして、小屋番のおやじも風呂の中の人となった。
「動くぞ」と、小屋番のおやじが少し緊張気味の低い声で言う。そして、「来たぞ」と切り立った渓の上流奥を指差した。
 雨に濡れ、濃い灰褐色に変化した狭い渓間の空間から、白い霧の丸い塊が押し出され、あたかも白い大蛇の這い出してきたかのように、少し開けた山小屋の前に広がる空間にスローモーションのように現れ、ゆっくりと広がってゆく。
「ウッ……」と、私は感動の声を上げようとして声を飲み込んだ。
「カメラ、カメラ」と小屋番のおやじが小声で催促する。
 慌ててカメラをビニール袋から取り出し、構えた。
 渓間の遥か上空を覆うように流れてゆく雲が速い。
 そして、切り立った渓間から、白い大蛇の化身のようなその濃い川霧が、まるで得体のしれぬ何かに襲い掛かるかの如く風景を飲み込んでゆく。
 その光景に気圧されながら何度かシャッターを切った。が、それはアッという間に私たちをも包み込み、辺りは濃い霧で視界不良になってしまった。
「フワーッ、荘厳というのはこういうのを言うんだよなぁ」と、緊張に固まった全身の力を解いた私の感動の吐息が口を突く。
 渓谷の流れの響きが、霧に包まれた静寂の中に聞こえ、逆しまにその静けさを弥増す。
 小屋番のおやじはいつの間に消えたのか、露天風呂には私だけが取り残されていた。
 感動の余韻を楽しめるよう、小屋番のおやじは、気を利かしてそっと姿を消したのであろう。
 黄昏の菫色が静かに渓間を支配し始めたころ、私は霧に包まれた露天風呂から上がった。

 一緒に夕餉の支度をしながら、「運のいい人だな……」と、小屋番のおやじがぽつんと言った。
「しょっちゅう見られる現象ではないんだよ、あれは、この上流の大雪渓の賜物、温かい驟雨が雪渓の冷気に冷やされ一気に大量の霧を生む。冷たい空気は重いから、この狭い谷を、塊のようになって下ってくるんだろうね。俺もここに来てから五度くらいかな、それを初めて来て見られたんだもの、やはり君は強運の持ち主だね」とも……。

「ハハハ、あの三人が、昨夜は貴重な岩魚も食べさせてもらったし、岩魚のお陰で肉がこんなに余りましたから召し上がってくださいなんて殊勝なことを言い、どっさり置いて行ってくれたのさ、恐らく最初からお土産のつもりで多めに買い求めてきてくれたんだろうね。缶詰なんて引っ込めて、彼らに感謝しながら戴くとしようか」と、赤くなった七輪の炭に渡された網の上に肉を並べ焼き始めた。
「ビールにお酒、上等の牛肉とタン、人との出遭い、彼らとの出遭いに、感謝感謝、乾杯ですね」
「彼らは去年一度来て、二度目かなぁ、わざわざ、愚痴を零した俺のために、重い瓶ビールを二ケースも背負い上げてきてくれた、それに日本酒、一升瓶二本もだよ」と、小屋番のおやじは至極嬉しそうである。
「ここにいるとね、一週間も十日も人に会えない日が続くこともある、そんなとき、気が合う人が訪れてくれると、心が晴れるんだよ。彼らみたいな気さくな連中が来てくれると、沈んだ心も癒されるってもんだ。ここにいてうれしいのは、そういう人たちと会えるってことかなぁ。歩荷の人が、役所に届いたお礼の手紙なんか持ってきてくれるけど、読んでるとね、そんな人たちの笑顔やなんかが思い出されて寂しさが紛らわされ、ほんとに涙が出そうになってね、ありがとうって、ぼそっと呟いたりしてるんだよ……」
「今どきの若い者、捨てたものではありませんねぇ」と、私も嬉しさと感謝を隠せない。
「君もそう思うかね、俺はね、年寄りがよく、今どきの若い者はって剣を尖らし口癖のように言うのを聞くのが大嫌いなんだよ。長い間子供の教育に携わってきたからだけじゃなく、子供たちも、若い彼らも、その心には、素晴らしいものを沢山持っているんだとね、年寄りが偉ぶって若い者の芽を摘むような言動をするのは慎むべきだよね……」
「そうですよね、同感です……」
 流れの音が聞こえるだけの静寂の中、山の夜の空気が小屋を包み込んでんでゆく、その霊気の齎した静けさの中で、二人はだんだん無口になってゆく。時折目線を交わし、その貴重であるであろう時間を噛みしめながら、ゆっくりと酒を酌み交わしてゆくのであった。

「時間はあるんだろ、今夜の肴に岩魚でも釣ってから帰ればいいのに、塩か味噌を塗しておいて、途中のコンビニで氷を買って入れておけば、明日までくらいなら、美味しく食べられるさ」と勧めてくれたが、私は、「はい、ですが、あの美味しい岩魚はここだけの楽しみ、今度また来た時に旨いお酒の肴になってもらいますから」と、小さく微笑んで返した。
「ハハハハハ、それはいいや、でも、なんだか釣られた岩魚が可哀そうに思えてきたよ。俺も君が今度来る時まで頑張ると致しますか」

 鎖場に差し掛かると、急崖の向こうに閉ざされ、もう山小屋は見えなくなってしまった。
 ふと、「お礼の手紙を読んでると涙が出そうになる」と言って本音を垣間見せてくれ、目を潤ませた小屋番のおやじの優しい顔が浮かび、一抹の寂しさを感じながら、鎖を頼りに慎重に蟹歩きをし、私は、何度も何度も、小屋番のおやじとあの三人組に「ありがとう」と、心の中で礼を繰り返すのであった。

       驟雨の後で  終わり

*まだ推敲中ですが、最近さぼっていますので、とりあえず公開とさせてください。


 
 
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