文字数 5,221文字

                            NOZARASI 6-1
【序】
 別に、特別雨が好きというのでもないのであるが、その風景の中に身を置くとき、僕はその湿り気のようなものに引き込まれてゆく自分を感じるのである。
   *短編、晩酌中に書き進めることもままあり、乱文、御赦お願いいたします。 


短編集 「雨」其の一
     菫

 国内でも一番遅くまで蒸気機関車が走っていたという山間の駅を降り、車一台やっと通れるような道を、片手に持った三脚を肩に乗せ、背中にちょっと重いリュックを担いで歩いてゆく。
 小さなコンクリートの橋から下を見ると、深く切れ込んだ谷間の綺麗な流れの水底に、岩魚だろうか、魚の影が数匹見えた。
 まだ夏には少し早いが、ここまで小一時間歩いてちょっと汗ばんできた身体に、渓谷を渡る風が心地よい。
 目指す廃村まではもうじきのようであるが、道端に何やら文字の刻まれ苔生した小さな石塔が多くなってきていた。この辺りに古くから伝わる山岳信仰の名残であろうか。
 分校跡と白いペンキで塗られた立ち杭に書かれた看板に従い、校庭であったのであろう夏草の茫茫と茂った広場に出た。
 灰色のコンクリートの土台だけが、確かにここは校舎だったのだと、静けさの中にそれを伝え残していた。
 三脚を立てるとカメラを据え、ローアングルにしたファインダーから、夏草に覆われてしまいそうな校庭をバックにその土台を写してみた。
 何枚か撮り終えると、カメラを三脚に据えたまま担いで、また道を行く。  
 濃くなってきた緑の中に、冬の大雪に潰されたのであろうか、壊れかけた大きな廃屋が、まるで野ざらしのように、私に何かを語りかける。
 静けさの中にカメラのシャッターの乾いた音だけが響き渡り、異質な遠い時間を蘇らせる。
 神社の祠だけが新しいところをみると、余所に移り住んでいった住民たちが、今もここを何らかの形で心の拠り所としているのだろうと推測された。
 神社の傍らに綺麗な清水が滾滾と湧いて、小さな池が設えられている。昔は御手水であったのだろうか。が、今はその周りも夏草に覆われ、草刈りでもしなければとても使用は出来そうもなかった。
 その水面に、幾つかの雨の波紋が広がっては消えてゆく。
 空を見上げると、いつの間にか大きな黒い雲の塊が沸き上がりつつあり、今にも夕立の来そうな感じであった。
 いくらも経たないうちに、黒い雲は生き物のようにモクモクと広がりを見せ、大きな雨粒が小気味よい音を伴いながら落ちて来た。
 カメラにビニールの覆いを被せ、神木であろうか、杉の大木の根本に逃げ込む。
 歩いて来た道の方から、濡れるのを嫌うでもなく、一人の老人が鎌を片手に歩いてきた。
「こんにちは」
「こんにちは。この雨はすぐに上がるが、一刻はもっと強くなるよ。雨宿りするならうちに来た方がいいよ」
「いいんですか」
「いいよ。一人暮らしで、お茶くらいしか出せないがね」
「ありがとうございます、お願いします」
 案内された家は、神社からの階段を少し下った所に建てられたプレハブ造りの小さな家であった。窓が無いのは、大雪を想定し、雪囲いをしなくても済むようにしてのことであろうか。
 狭い土間と八畳くらいの畳の部屋、真ん中に小さな囲炉裏が切ってあった。その囲炉裏の大きさと、檜であろうか、見事な木目と縁の厚みとに驚いていると、
「ははは、雪で潰れてしまった前の家のやつをそのまま使ったのさ、結構な時代物だと思うがね、いつの頃の物だかは判らないなぁ、爺さんの時にはもう在ったらしいよ」
 その見事さに見とれている私に、老人は笑いながら教えてくれた。
「その大きな荷物はそこの隅に置いて、まぁおあがりなさい」
「お邪魔いたします」
 土間には湧き水から引かれたのであろう、大きな青いコンテナのような水槽に、透き通った水がチョロチョロと静けさをいや増すような音を立てて満たされてある。
 その中に冷やされた赤いトマトの色が目に鮮やかに飛び込み、その底に、瓶や缶が沈んでいた。そこに浸された大きなペットボトルのお茶をコップに注いで、
「こんなものしかないよ」と、老人が私の前に押し出した。
「ありがとうございます。戴きます」
 本降りになってきた雨がプレハブの屋根を叩いて言葉を掻き消す。
「何処から来なさったかね」
「神奈川です」
「神奈川かね。横浜って町のあるところだね」
「はい、そのそばの大和ってところです」
「そうかい。歩いて来たのかい」
「はい。麓の駅から」
「大変だったね」
「いえ、山が好きですので、歩くのは苦になりません」
「立派なカメラのようだけど、お仕事かな」
「はい、一応カメラマンです」
「こんなところで何を撮るのかい」
「うーん、色々」
「色々?」
「はい。山や、緑や、廃屋や、人も」
「いいのが撮れたかい」
「はい、でも始めたらすぐにこの雨に降られちゃって」
「ははは、この季節、ここの天気は気まぐれそのもの、いつ降られるか分かんないよ」
「そうみたいですね」
「あの大荷物はテントかい」
「はい、明日か明後日までやるつもりで来ましたから」
「ここに泊っても構わないよ」
「いいんですか」
「遠慮はいらないよ。その代わり何もないけどね」
「よろしくお願いいたします。私、添田五郎です」
「添田さんか、儂は、猪俣源治」
 二人の会話が、プレハブの屋根を打つ雨音に負けないよう、大きな声になっている。それが、却って二人の間の垣根を取り払ってくれ、初対面とは思えないほどに打ち解けて行くのであった。
「ここにあった我が家は、七年ほど前に雪の重みに耐えられなくなって潰れてな、息子に手伝ってもらい、代わりにこれを建てた。夏の間だけの年寄りの我儘な心を満足させるためだもの、これで十分だよ」
「夏だけですか」
「ああ、他に五人ほど住んでいるよ。儂を入れて四軒、みんな雪解けの終わる頃から秋の落ち葉の頃までだ。昔は五十軒からあったんだがね、今でも潰れずに残っている当時の家は、長だった人の大きな家だけだ」
「ということは、ふた組はご夫婦ですか」
「そうだよ。みんなここの事が忘れられないのさ。夏になるのが待ち遠しくて、道路の雪掻きが終わるのを待って、すぐに登って来るのさ」
「雪掻き終わるの五月の連休の頃でしょ」
「よく知ってるね。此処は、五月から六月の初めが春なのさ」
「一応、町役場に問い合わせてから来ましたので」
「ちょうど山菜の良い頃でな、今は、蕨やミズしか採れんがな」
「ミズ、美味しいですよね」
「あんなもの、そこいら中にあるよ」
 ミズ、水菜、蟒蛇草ともいうらしいが、炒めたり、煮たり、私は叩きにして味噌と和えたものが好きな山菜である。
「ミズが好きなのか。よし、雨が上がったら行くか」
 小一時間もした頃、屋根を打つ雨の音が聞こえなくなり、開け放たれたままの入り口の向こうの庭に初夏の明るい日差しが降り注いでいた。
「よし、上がったな」
 老人は、ゴソゴソと部屋の入り口の脇で何かをやっていたが、振り向いた時、その手に五十センチほどの振り出しの釣竿を握っていた。
「岩魚釣りですか」
「そうだ。雨上がりは良く釣れるからな、今夜のご馳走だ。それに、谷の斜面には太い良いミズがいっぱい生えてる」
「一緒に行っても構いませんか」
「うーん、足がな」
「足ですか」
「胴長靴と滑り止めが要る」
「無理ですか」と、未練気に訊いては見た。
「ああ。まだ水も身を切るように冷たい、雪渓の雪解け水だからな。来月の半ば頃までは、夜になれば囲炉裏の火もいるくらいだ。見るだけなら見れるがな」
「はっ?」
「そこの吊り橋」
「あっ、さっき見えたあの赤い吊り橋ですか」
「そうだ、あの上から見てればいい。どうせ二人だ、五匹か六匹だし、あの橋の下だけで十分だよ」
 老人は、私に笑いながら手を振り会釈をすると、さっき来た道を戻っていった。
 高い、三十メートル以上はあるだろう。赤い吊り橋の下を流れる谷川は、真上から覗き込むと、水を被った岸辺の石の色が変わっていなければ、水が流れているとは気付かないのではないかと思われるほど澄み切っていた。
 カメラに収めていると、やがて大石の間を縫うようにして老人が釣り上ってきた。
 上を見上げて片手を振ってくれた。私も手を振って返す。
 流れに竿を出していた老人の動きが瞬持躍って、流れの水面に岩魚の暴れる白い水しぶきが見えた。
 片手の網に掬って、それを差し上げ老人がこちらを見た。
「大きいですねー」と言ったのだが、流れの音で聞こえないらしく、返事は返ってこなかった。
 すぐ上流でもう一匹釣ると老人は竿を畳み、腰下ほどの流れを渡り、急な崖の灌木の中に消えた。
 暫く待っていると、杉林の中から老人の呼ぶ声が聞こえてきた。
「釣れたよ、ほら」
「みな岩魚ですね」
「ここは岩魚しかおらん」
 腰に下げた魚籠の中には、二十四、五センチはある丸々とした見事な岩魚が五匹並んでいた。手に提げた袋の中には、太い見事なミズが詰まっていた。
「谷の崖沿いを伝い流れる清水の脇に生えるミズが、太くて、柔らかくて、一番旨いでな。塩焼きと岩魚汁。この四匹で足りるかな」
「後の一匹は?」
「明日じゃな。一度にそんなは食えんじゃろ」
「戴いてもいいですか」
「いいよ」
 小屋に戻ると老人は岩魚を捌き、私は、岩魚と、ミズを少し貰うと台所を借りた。
 ミズと岩魚の〝叩き〟、有り体に言えば‘なめろう’である。
「学生の頃、秋田出身の山仲間に教わったんですよ」
「うん、これは美味い。ミズの〝叩き〟はやるが、岩魚を混ぜたのは初めてだ、中々美味いよ」
 老人は、囲炉裏に翳した岩魚の串を返しながら、旨そうにコップの酒をチビリチビリと飲みながら、ミズと岩魚の〝叩き〟を口へ運んでいる。
 ここにいる間に、来年の分まで作って干しておくのだという割り揃えられた薪のパチパチと燃える囲炉裏の縁で、酔いの回ってきた老人の口から、ポツリポツリと昔語りが零れる。
 心地よく回ってきた酔いに身を委ね、相槌を打ちながら聞いていた。
 突然話題が変わった。
「ここで死にたいからの、死ぬときは夏の頃じゃな。電気はあるが、電話はひとつ下の集落まで行かねば無いでな。急な事になれば、この年では間に合わん、大概、ここで死ねるな。去年も、上の元ちゃんの婆さんが、間に合わずに死んだ。大分ショックだったのだろう、元ちゃん、今年は来ないものな、でも、ここで死にたいって言ってたから幸せな婆さんだよ、今は神社の裏の墓場で眠っとるよ。ほら、願わくは花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころじゃな」
「そうですか、西行の心境ですね」
「ははは、お恥ずかしい、比ぶべくもないがの。今日は嬉しくて酒が美味い。添田さんも、もっと飲んだらいいが」
「はい」
 言われなくとももうしこたま飲んでいた。老人の嬉しそうに飲む姿が、私の酒を一段と美味しくしてくれ、いつもは度を超すことの無い酒を飲み過ぎていた。
 本当はリュックの中に、山の夜の静寂の畏ろしさに負けぬよう、缶ビールを多めに持ってきていたのだが、老人の、ビールは駄目だとの一言に、そのままになっていた。帰りもその重さに耐えなければと思うと気が少し重かったが、老人と同じに一升瓶から注いだコップの酒を飲んでいたかった。
「明後日になれば末の息子が様子見に来る。食いものやら酒やら積んでな」

 翌朝、そう言って、その車で帰れ、もう一日泊まれと勧められた。
 別に急いで帰ることもなかったし、老人の勧めも嬉しかったので、先ずは持参の食料を少し減らすかと、お昼時に、ハムのハンバーグや、缶詰の即席料理を無理やり勧め、のんびりと撮影をしながら一日を潰して、二日目の夜もまた二人で飲むことにした。
 早朝の集落を撮影し戻ると、老人が庭の草を毟っていた。
 朝日を浴び始めた庭の片隅に、まだ葉に露を纏った小さな菫が、眠りから目覚めたように咲き始めていた。
 可憐な菫にカメラを向けていると、
「いい色の菫だろ、死んだ内の婆さんがどこかで貰って来たんだよ。貰ったとこの菫よりいい色に咲いているって喜んでたな。きっと土が合うんだよ。花だって、人間だって、ここがいいってところがあるんだよ。遅い春の、そろそろ終わりの菫だな」と、老人が遠い目で言った。

「ははは、父のお付き合い、ありがとうございました。大変だったでしょ」
 車のハンドルを握りながら、同い歳くらいであろう老人の息子が笑っている。
 往きは二時間以上も歩いた道が、すぐ駅に着いてしまった。
 やはり歩けばよかったと、少し後悔した。
 歩けば、老人とのあのふくよかな時間が、もっともっと煮詰められ、大切なものに昇華していたのではないかと思われたから……。
 下り降りて来た谷を振り返ると、黒い雲が湧き始め、今日もまた雨が降りそうな雲行きであった。

                         ―完― 

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