雨 其の四 「ジャスパーの蒼」
文字数 2,488文字
NOZARASI 6-4
短編集 雨 其の四
ジャスパーの蒼
あの時、自分の内に生まれ、今も離れて行かないその焦燥が、何かとんでもない事態へと流されて行きそうな予感がしていた。
その予感を感じ出してから、もう三月近くにもなるのであろうか。
去年の十一月、リーマンショックの余波だろうか、
「木島君、申し訳ないが、派遣の方たちは、順次、次回の更新は出来ないからね。木島君の契約期間は二月の十日だったよね、頑張っていい仕事探してね」と、いつも神経質そうに眉根を寄せながら喋る課長にそう言われた時は、なぜか他人事のように聞こえたその言葉が、日を追うごとに自分の心の中で、脅迫されているような言葉のニュアンスに変ってゆくのを、吐き気のするような鬱々とした気分で感じ始めていた。
自動車の特殊な部品を造る、そんなに小さくもない下請けの会社だが、こんなに急激に受注が少なくなるとは、誰しも思わなかった。
日に日に少なくなってゆく仕事と、テレビなどから聞こえてくる‘派遣切り’などというニュースに、自分もそろそろかな、という思いはあったが、もう五年以上も続けて働き、会社の方も良い印象をもってくれているだろうと、さして疑うようなこともなかった。
保障された身分の中でのんべんだらりと働き続ける正社員の連中よりは、遥かに役に立っている。自分は何とかなるのではないかという思いも、心のどこかにあった。
次の仕事を探しては見たものの、思うようにはいかなかった。
纏わり付くような不安は、これから自分が堕ちて逝くのであろう奈落の暗闇を覗き込んでいるかのようなものを感じさせ、狭いアパートの部屋にじっと蹲っていると、心臓の鼓動が、その時へのカウントダウンのように、ドクン、ドクンと身体を揺する。
瀬戸の町で見つけた単品のセットのカップにコーヒー淹れ、寝転がって好きな本でも読んでいれば、いつもは心落ち着かせてくれる四畳半一間の小さなアパートの狭い空間が、重く、押し潰されそうにのしかかって来る。
気が付いた時は、バイクに乗り町の中を走っていた。やがて降り出した冷たい早春の雨が、着重ねた厚い服にジワジワと浸みて、もうスロットルを絞る手も感覚が薄れてきていた。
河川敷に乗り入れると、橋の下へ逃げ込む。
寒い。
煙草に火をつけようとするのだが、ブルブルと手が震えて、上手くゆかない。
「ほらっ」
右肩に触るようにして、日に焼けて手のひらの白さだけが浮き上がって見える手が、ジッとライターの石を擦った。
ポっと点った百円ライターの橙色の火が、妙に温かそうに見えた。
「すみません」と礼を言う唇も震えている。
大きく吸い込んだ煙草の、肺に沁み入る温かさに、少しホッとする。
「待ってな」
ホームレスの男はそう言うと、寝るだけのようなブルーシートの小屋の中から練炭火鉢を持ち出して来た。
「股火鉢にしな。大事なところを暖めれば身体全体が早く温ったまるよ。一緒に中に入れればいいんだが、俺一人寝るのがやっとの小屋でな」と、済まなさそうに言う。
「ありがとうございます」
「いいってことよ。今、温ったけぇの飲ましてやっからな」
「悪いからいいです」
「遠慮するなって。コーヒー好きか」
「はい」
「ブラックでいいか」
「はい」
ホームレスの男は、小屋の中から、さっき練炭火鉢から下ろしたのだろう、まだ湯気の立ち登っている熱そうな薬缶と、挽いたコーヒー豆を淹れた小さなインスタントコーヒーの瓶を持ち出し、ウエッジウッドのセットを二つ並べ、ドリッパーを使ってコーヒーを淹れ始めた。
手馴れた仕草で淹れ終わると、
「これだけが生きてることの証のようなもんでな、朝晩飲まなきゃいられねぇんだよ。こんな橋の下に住んでるくせに、おかしいだろ」と、自嘲気味に笑った。
「いえ」
「温まるよ、飲みなよ。これ、死んだ連れ合いの形見でな」
「ジャスパーのこの蒼、いい器ですよね」と応えると、急に男の目が輝きを増したように見えたが、
「やっと解るやつと飲めるな。俺にとっては哀しい蒼だがな、これで飲むコーヒーだけが俺の最後の砦よ。飲みなよ」と、心の一端を垣間見せた。
冷えた身体にコーヒーの熱さがジーンと沁み渡り、心までが解されてゆくようだ。
「うめぇか」
「はい。キリマンですか」
「解ってるねぇ、嬉しいねぇ」
そう言った男の目に、涙が浮かんだ。
男は遠い目をして嬉しそうに飲んでいたが、それからあとは何も言わず黙り込んでしまった。
途切れた会話を取り戻そうと思ったが、蹲るように座り、両の手でジャスパーのカップをその胸に抱え込む哲学的姿に、なぜか、このままの沈黙の方がいいのではないかと感じられ、そのまま黙っていた。
いつの間にか雨は上がっていた。
立ち上がると、
「行くのか」と、男は座ったまま少し離れた川の水面を見つめながら、どこか寂しげに言った。
「はい。ごちそうさまでした」
「人間だもの、誰だって哀しいときや寂しいときがあらぁな、死のうかなぁなんて思うのは止しにして、心が塞いだ時はいつでもここへ来なよ。今度はモカマタリ淹れてやっからよ、一緒に飲んでくれよ」
「はい」
なぜ、「はい」と応えてしまったのだろう。
毎週のように出かけている、海の見える大好きな山道のスラロームから、あの海の碧と空の蒼の空間へダイブ出来たらいいなぁと、出来もしないくせに、今日もぼんやり想いながら、ひたすらそこへ向かって走っている途中だったのに、雨さえ降りださなければ……。
そうだ、雨さえ冷たくなければ、あのホームレスの男に遭いさえしなければ、多分、自分は今頃生きてはいなかったのかもしれない。
なぜあの男は、自分が死のうとしていた心を見抜いたのだろうか。
オートバイを走らせながら、ずっと考え続けてみたが、アパートの二階へ昇る階段の下へ戻るまで、遂に解らなかった。
鉄の階段を昇りながら、モカマタリを飲みに行く気になっている自分がいた。
―完―
短編集 雨 其の四
ジャスパーの蒼
あの時、自分の内に生まれ、今も離れて行かないその焦燥が、何かとんでもない事態へと流されて行きそうな予感がしていた。
その予感を感じ出してから、もう三月近くにもなるのであろうか。
去年の十一月、リーマンショックの余波だろうか、
「木島君、申し訳ないが、派遣の方たちは、順次、次回の更新は出来ないからね。木島君の契約期間は二月の十日だったよね、頑張っていい仕事探してね」と、いつも神経質そうに眉根を寄せながら喋る課長にそう言われた時は、なぜか他人事のように聞こえたその言葉が、日を追うごとに自分の心の中で、脅迫されているような言葉のニュアンスに変ってゆくのを、吐き気のするような鬱々とした気分で感じ始めていた。
自動車の特殊な部品を造る、そんなに小さくもない下請けの会社だが、こんなに急激に受注が少なくなるとは、誰しも思わなかった。
日に日に少なくなってゆく仕事と、テレビなどから聞こえてくる‘派遣切り’などというニュースに、自分もそろそろかな、という思いはあったが、もう五年以上も続けて働き、会社の方も良い印象をもってくれているだろうと、さして疑うようなこともなかった。
保障された身分の中でのんべんだらりと働き続ける正社員の連中よりは、遥かに役に立っている。自分は何とかなるのではないかという思いも、心のどこかにあった。
次の仕事を探しては見たものの、思うようにはいかなかった。
纏わり付くような不安は、これから自分が堕ちて逝くのであろう奈落の暗闇を覗き込んでいるかのようなものを感じさせ、狭いアパートの部屋にじっと蹲っていると、心臓の鼓動が、その時へのカウントダウンのように、ドクン、ドクンと身体を揺する。
瀬戸の町で見つけた単品のセットのカップにコーヒー淹れ、寝転がって好きな本でも読んでいれば、いつもは心落ち着かせてくれる四畳半一間の小さなアパートの狭い空間が、重く、押し潰されそうにのしかかって来る。
気が付いた時は、バイクに乗り町の中を走っていた。やがて降り出した冷たい早春の雨が、着重ねた厚い服にジワジワと浸みて、もうスロットルを絞る手も感覚が薄れてきていた。
河川敷に乗り入れると、橋の下へ逃げ込む。
寒い。
煙草に火をつけようとするのだが、ブルブルと手が震えて、上手くゆかない。
「ほらっ」
右肩に触るようにして、日に焼けて手のひらの白さだけが浮き上がって見える手が、ジッとライターの石を擦った。
ポっと点った百円ライターの橙色の火が、妙に温かそうに見えた。
「すみません」と礼を言う唇も震えている。
大きく吸い込んだ煙草の、肺に沁み入る温かさに、少しホッとする。
「待ってな」
ホームレスの男はそう言うと、寝るだけのようなブルーシートの小屋の中から練炭火鉢を持ち出して来た。
「股火鉢にしな。大事なところを暖めれば身体全体が早く温ったまるよ。一緒に中に入れればいいんだが、俺一人寝るのがやっとの小屋でな」と、済まなさそうに言う。
「ありがとうございます」
「いいってことよ。今、温ったけぇの飲ましてやっからな」
「悪いからいいです」
「遠慮するなって。コーヒー好きか」
「はい」
「ブラックでいいか」
「はい」
ホームレスの男は、小屋の中から、さっき練炭火鉢から下ろしたのだろう、まだ湯気の立ち登っている熱そうな薬缶と、挽いたコーヒー豆を淹れた小さなインスタントコーヒーの瓶を持ち出し、ウエッジウッドのセットを二つ並べ、ドリッパーを使ってコーヒーを淹れ始めた。
手馴れた仕草で淹れ終わると、
「これだけが生きてることの証のようなもんでな、朝晩飲まなきゃいられねぇんだよ。こんな橋の下に住んでるくせに、おかしいだろ」と、自嘲気味に笑った。
「いえ」
「温まるよ、飲みなよ。これ、死んだ連れ合いの形見でな」
「ジャスパーのこの蒼、いい器ですよね」と応えると、急に男の目が輝きを増したように見えたが、
「やっと解るやつと飲めるな。俺にとっては哀しい蒼だがな、これで飲むコーヒーだけが俺の最後の砦よ。飲みなよ」と、心の一端を垣間見せた。
冷えた身体にコーヒーの熱さがジーンと沁み渡り、心までが解されてゆくようだ。
「うめぇか」
「はい。キリマンですか」
「解ってるねぇ、嬉しいねぇ」
そう言った男の目に、涙が浮かんだ。
男は遠い目をして嬉しそうに飲んでいたが、それからあとは何も言わず黙り込んでしまった。
途切れた会話を取り戻そうと思ったが、蹲るように座り、両の手でジャスパーのカップをその胸に抱え込む哲学的姿に、なぜか、このままの沈黙の方がいいのではないかと感じられ、そのまま黙っていた。
いつの間にか雨は上がっていた。
立ち上がると、
「行くのか」と、男は座ったまま少し離れた川の水面を見つめながら、どこか寂しげに言った。
「はい。ごちそうさまでした」
「人間だもの、誰だって哀しいときや寂しいときがあらぁな、死のうかなぁなんて思うのは止しにして、心が塞いだ時はいつでもここへ来なよ。今度はモカマタリ淹れてやっからよ、一緒に飲んでくれよ」
「はい」
なぜ、「はい」と応えてしまったのだろう。
毎週のように出かけている、海の見える大好きな山道のスラロームから、あの海の碧と空の蒼の空間へダイブ出来たらいいなぁと、出来もしないくせに、今日もぼんやり想いながら、ひたすらそこへ向かって走っている途中だったのに、雨さえ降りださなければ……。
そうだ、雨さえ冷たくなければ、あのホームレスの男に遭いさえしなければ、多分、自分は今頃生きてはいなかったのかもしれない。
なぜあの男は、自分が死のうとしていた心を見抜いたのだろうか。
オートバイを走らせながら、ずっと考え続けてみたが、アパートの二階へ昇る階段の下へ戻るまで、遂に解らなかった。
鉄の階段を昇りながら、モカマタリを飲みに行く気になっている自分がいた。
―完―