雪起こし

文字数 3,056文字

 雪起こし

「少し寒いかな」と、実家の玄関を出た鴇夫は、北西の暗い空を見やりながらつぶやいた……。
 もう直にシベリヤからの強い季節風が吹き始める、この浜を歩くのも、またの春が来て温かくなるまではお仕舞いという季節がやって来るのだ。
 仕事の出張のお陰で、久しぶりに実家に帰れることができ、今朝は早起きをして浜を散策だ。散らばる流木の間を抜けて浜に出ると、柔らかい砂がスニーカーの中に入り込んで少し歩きづらかったが、それが苦になるということはなかった。
 子供のころから馴れ親しんだ砂浜だ、だいぶ年老いて、浜の東側に在る実家から西側まで、あの頃のように元気いっぱい歩き続けることはもうできなくなったが、それでも、ときどき立ち止まって、海峡の向こうに見える佐渡ヶ島や、あのころとは少し変わってきた海岸の風景を眺めながら、寄せては返す潮騒の奏でを楽しみ、時折、独りごちながら……。
 振り返ると、もう父や母もいない故郷の生家が、この地方独特の暗い板塀を見せて、少し寂しそうに晩秋の風景に溶け込み佇んでいる……。
 五つ上の兄が跡を継ぎ、若くして漁師に見切りをつけると、友人を頼り会社勤めに転身、二年ほど前にその会社も辞め、年金暮らしをしながら家を守ってくれているが、よく二人で遊んだこの浜の想い出は、老いた今も兄弟を強く結びつけ、離れることは無い。

 小学校に上がる前の頃だった、晩秋に近いある日、鴇夫は兄と二人、この砂浜で戯れていた。
「鴇夫、来るぞ!走れ!」
 いち早く帯電を感じ取った兄の声に、「うん!」と応えると、鴇夫は自分を守るかのように後ろについて走ってくる兄の足音を感じながら砂浜を懸命に走った。
 物凄い雷鳴と稲光が、同時に浜を切り裂いて、身体に、かなり強烈な電気が走ったような気がして、異常な恐怖感を覚えた。
 同時に背後から何かが自分に覆い被さるように襲ったのを、鴇夫はぼんやりと記憶している。
 我に返ると、「行くぞっ!」と、兄の力強い声が聞こえ、襟首を掴んでむんずと引き起こしてくれた腕が、ポンポンと背中を叩き、鴇夫を励ます。
 兄が、反射的に鴇夫を庇おうとして覆い被さってきたのだ。
 一番近い家の軒先に走り込んだ二人は、互いの必死の表情を見合わせる。
「ハハハハハ!」兄が高らかに笑った。
 鴇夫も釣られて大きな声で笑う。
 笑う二人の間に、安堵感が通じ合う。
 兄が笑いながらも、尚引き攣ったような表情で、浜の船着き場の方を指差した。
 四、五漕の船が引揚げられた浜に立つ少し高い柱から煙が立ち昇っていた。
「あれに落ちたんだなぁ……」と兄がつぶやく。
 駆け込んだ家からお爺さんが出てくると、「正夫、鴇夫、大丈夫か?」と優しい笑顔で声をかけてくれる。
「はい」と応えながら、兄が、鴇夫を見ながら、また大笑いし始めた。
「?」
 同時に、近所のお爺さんも面白そうに笑いだす。
「しかぶったんか?」
 兄の問いかけに、鴇夫は、自分が失禁したことに初めて気づいた。
 鴇夫の照れ笑いに、二人がまた笑う。
「誰だって、あんなすぐそばに雷が落ちれば怖いよなぁ、こんな雷を雪起こしって言うのさ、もう直、雪がどかっと降ってくるぞ」とお爺さんが鴇夫の頭を優しく撫でてくれたが、鴇夫には、失禁したことの記憶がなかったように覚えている。
 それからしばらくは、みんなの笑いの種にはなったが、みんな優しい笑顔で楽しそうに笑い、鴇夫がそれで落ち込むということもなかった。

 兄はあの時、とっさに落雷に反応し、半ば反射的に鴇夫の身体を庇ってくれたのだ。
 その行為が、落雷から鴇夫を守るということは、今思えばなかったのではあろうが、鴇夫には、兄の優しさが、大切な温もりのように自分の身体中に広がってゆくのが感じられた瞬間であった。
 五歳という年の差、いろんな場面で兄の温かさを知らされた。その度に、鴇夫が照れながら小声で「ありがとう」と感謝すると、兄はいつも微笑んで鴇夫の頭を小突いた。その折々に生まれた二人の間の温かい空間に、言葉なんぞは要らなかった。
 あれも、確か鴇夫が中学生の時であった……。

 秋のある日、鴇夫は中学三年になって、大分逞しくなった兄と二人、父親の小さな伝馬船に乗り、少し沖合に点在する根に烏賊釣りに出た。
 好条件が重なったのか、烏賊は思った以上に釣れ盛り、二人は時の経つのも忘れて釣りに夢中になっていた。
 北西の空に、急に怪しげな雲が湧き起こり、冷たく強い風が吹き始めた。
「鴇夫、帰るぞ!」という、危険を感じ取った兄の緊張感の籠った言葉に、鴇夫は間髪を入れず反応し、自分の仕掛けと兄の仕掛けを巻き取り始めたが、その時、兄はもう長い艪を力を込めて漕ぎ出していた。
 斜め前方から吹き付け始めた風は、白波を起こし、舟べりをバタバタと叩き、舟の中にも水しぶきが……。
「汲み出せ、鴇夫!」
 このまま風に流されれば、岩場に叩きつけられてしまう。次第に強くなって行く風と水の重みで船足が鈍るのを危惧した兄の声に緊張感が漲る。
「休むなッ、どんどん汲み出せッ、負けるなッ鴇夫!」
 緊張感の漲った兄の励ましのその声に、「うんッ!」と鴇夫も力を込めて応える。
 舟の重心を少しでも後ろにし、舳先を浮かして船足を少しでも早めようと思ったのであろう「もう少し後ろに来いっ!」と兄が叫ぶ。
 鴇夫は、必死に漕ぎ続ける兄の足元に移った。
「この根回りを抜け出せばもう安心だからな、もう少し頑張れッ!」
「うんッ!」
 大分草臥れてきたのか、海水を掻き出す鴇夫の手が重くなってきた。兄はと見上げると、必死の表情の下から、ニコッと微笑みを返す。自分が弱音を見せれば鴇夫も弱気になると判断したのであろう。
 それを見た鴇夫も、急に力が湧き出てくるのを感じ、「よいしょッ!よいしょッ!」と掛け声を出しながら水を掻き出す手に力が込み上げてくるのであった。
「よぉッし、もう大丈夫だ!」と鴇夫の頭を、櫓を漕ぎながら微笑む兄が小突いた。
 兄は噴き出してくる汗でびしょ濡れ、鴇夫は海水を被ってびしょ濡れ。
 びしょ濡れで交わす二人の笑顔……。
 舟を浜に揚げると、釣れた烏賊を生簀から出し、それを締め、近所に配りながら家に戻ると、お袋が、「急に風が強くなってきたみたいだけど、大丈夫だったかい?」と優しく笑う。
「うんっ」と応える鴇夫の目が自慢げであった。
 兄はただ嬉しそうに、「これッ」と烏賊をお袋に手渡す。
「アオリは旨いからねぇ、父ちゃんも喜ぶよ」
 その夜、アオリ烏賊をつまみに酒を飲む父の嬉しそうな姿は、今でも鴇夫の脳裏にしっかりと残っている。

 浜の砂の重みを嚙みしめるように歩きながら、あの頃の感傷に耽っていられる間は短かった。
 沖合の黒い雲の塊の下が煙っている。
「来るなッ」と感じ、鴇夫は踵を返すと、集落の方へゆっくりと戻り始めた。
 雲は、広く早く展開を始めると、あっという間に浜を包んで強い雨が降り注いだ。
 今日の空からは、雷は来ない、急がなくていい、急がなくてもいいんだ、鴇夫は驟雨にびしょ濡れになりながら、その時間の流れを惜しんだ。
 そして、雨はすぐに止むと、雲の切れ間から斜めに陽光が差し、雨に洗われた風景を照らし出し、何事も無かったかのように、あの時に重なりゆく時の流れが、また静かに動き始めた……。
 もう直にこの海の風景に雪起こしが鳴り響き、そして鈍色の空と海から雪が横殴りに降りつけ、この風景を、厳しくも白く優しく包んでゆくのだ……。

                     第十話 おわり
 

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