第56話 湯殿(3)

文字数 791文字

 仙千代は小姓の宿舎へ戻ると、信重がくれたギンナンを、
やはり信重から貰った懐紙で容器を作ってそこへ入れ、
文机の上に置き、幾つかを掌で転がしたり、
かと思えば、長い間、じっと眺めたりした。

 やがて気持ちを切り替えるように経本を取り出すと、
一心不乱に般若心経を書き写した。
 万見家の菩提寺となっている浄土宗の寺の和尚から写経を勧められ、
母や姉妹共々よくやっていて、何かというと癖になっている。
 さほど長文ではないので、
諳んじて(そらんじて)一切見ずとも書くことができるが、
有り難い一文字一文字を万一にも間違えてはならないという思いで、
今も経本を確かめつつ、記した。

 仙千代の集中ぶりが却って面白可笑しいのか、
彦七郎や彦八郎が、暇つぶし半分でからかってくる。
 仙千代が相手にせず、黙々と綴っているので二人は諦め、
小姓仲間に借りたらしい絵草紙を読み始めた。
 
 確かに誰かが身体に触った。
それは辛い記憶を思い出させた。
けれど、自分だって若殿の裸を見て正体不明の興奮を覚え、
もっと見たいと思っていたではないかと仙千代は自分を省みて、
恥じ入った。

 「なぁなぁ、いつまで書いとるんだ?
残しておいてもらってある夕餉が捨てられてしまうぞ。
早く食ってこい」

 彦七郎に注意を受けても筆を止められなかった。
今、筆を置くと、湯殿でのあの手の感触や自分の浅ましい欲が、
御経の有り難さを追い抜いて、心身を捕らえてしまうと思われた。

 「今日はいらない。彦七郎、何なら食べていい」

 「勿体ないなあ、雉肉、美味かったぞ」

 「いらない」

 「じゃあ、代わりに食ってくるわ。捨てるのも何だしな。
彦八郎、一緒に行くか?」

 「うん、では、そうするか」

 兄弟は仙千代に何かあったのか無かったのか、
深入りはしなかった。
図太く見えて、けしてそうではない二人が仙千代は好きだった。

 写経を続けて、墨がなくなると、またすって、
気が済むまで、仙千代は書いた。








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