第64話 落水

文字数 1,475文字

 卯月も半ばが近付いていた。
今日は、今年の夏の鵜飼いに備え、舟が数隻新造となったので、
信重と小姓達で見に行こうという話になった。
 
 鵜飼い舟が係留されている長良川の畔へ行くと、
老鵜匠が出迎え、鵜飼いの歴史を話した。
 濃尾は河川が多く、南には伊勢湾が広がって、川鵜、海鵜、
共に非常に馴染み深い鳥だった。
 鵜飼いは古く、日本書紀、古事記にも記載が見られ、
武家との逸話で言えば、平治の乱で源頼朝が敗走する際、
長良川河畔を彷徨い、鵜飼いの長である白明の家に宿り、
そこで食した鮎鮨の美味に飢えを癒したということだった。
 
 信長は鵜匠に給与し、鵜飼いを保護すると饗応に用いた。
信重と甲斐の松姫の婚姻同盟が成った際には信長自ら、
鵜飼いで武田家の使者をもてなし、
土産の鮎も選んだということだった。

 松姫様との婚姻はそれほど目出たいことだったんだな……

 と、仙千代は思った。

 鵜匠宿のある川辺には鵜飼い舟が古いものから新造舟まで、
ずらり、並んでいた。
 老鵜匠が鵜に給餌をするというので、
彦七郎達兄弟や、小姓の何人かは興味を持って、
鵜が飼育されている小屋へ入っていった。

 日ごろ、身体を動かすことが好きではない三郎が、
今日は、はしゃいでいる。舟から舟へ渡り歩き、
とある一隻の船首に陣取って、揺すっては面白がっている。

 仙千代は信重を見ていた。
信重は鵜飼い小屋へ足を向けていた。
餌やりに行くのだろうと思い、仙千代も従った。
 いつもなら、小姓が若殿を先導し、次に若殿、
後ろにまた小姓達、最後尾に近習が警護で侍っているのだが、
鵜飼い舟のある川べりは城郭に隣接していて、
庭園の一部のようになっていたので、
警備の者たちは付かず離れず、
どうかすればずいぶん遠目に居た。

 何やら落水する音がして、そちらを見ると、三郎が川へ落ちていた。
信重の顔色が変わった。
顔色が変わった理由を仙千代も直ぐに察した。
三郎は金槌だった。
よくまあ、見事に沈んでゆかれると一瞬笑ってしまいそうになるほど、
ずぶずぶ沈んだ。
 仙千代は海浜の生まれ育ちで、泳ぎに自信があった。

 とはいえ、飛び込んで助けるよりは、
まず、長い棒でも櫂でも櫓でも投げてやり、捕まらせるのが
常套だった。

 「三郎!仰向けになれ、暴れるな!」

 と信重が叫んだ。
 泳ぐことができない者が着衣のままで暴れても体力を
消耗するばかりだった。
 川面に大の字になって待ち、
こちらが投げる櫂に捕まれば良いだけのことだった。

 信重と仙千代で三郎に櫂を差し伸べたが、
三郎は暴れるばかりで、
沈んでは浮き、浮いては沈んでを繰り返した。

 信重が着物を脱ぎ始めたので、
仙千代は脱がないまま川へ入った。脱いでいたら信重より後になる。
信重を危険な目に遭わせるわけにはいかなかった。

 「ああっ、仙千代!」

 呼び掛けとも叫びとも悲鳴とも聞こえる声だった。
仙千代は三郎に追い付くと、信重が差し出した櫂に三郎を捕まらせ、
三郎が船底を辿りながら着岸したことを見届けると、
自分も岸へ向かった。

 そこで、生まれて初めて、水の力の恐さを知った。
岸は目の前に見えていたのに、ある瞬間を境に、
どんどん流され、泳いでも泳いでも、陸が遠のく。

 三郎がうずくまり、水でも吐いているのか、
身体を折り曲げている姿が見える。
 仙千代は、ついさっき、
三郎が仰向けになり、体力温存に努めれば浮かぶ瀬もある、
櫂に捕まって助かる、簡単なことだと思っていたが、
いざ自分が流されてゆくと、正気を保ってはいられなかった。
暴れこそしないが、泳がないではいられない。
だが、泳いでも泳いでも、身は確実に下流へ向かっていた。

 
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