第89話 大蛇(3)

文字数 1,174文字

 日ごろ、走ったり駆けたりするなと信重は言われていた。
転ぶと危ないからではない。
武士(もののふ)たる者、慌てているように映る様は、
見苦しいという理由だった。
 しかし今はそうしないではいられなかった。

 先日の長良川では確かに信重が仙千代を助けた。
今日は仙千代が信重を救った。

 きっと二人は運命なのだ……

 左手で仙千代を引っ張るように川辺へ走り、
心中で信重は叫んでいた。

 生まれてきて良かった!……

 人並み以上の暮らしをさせてもらっていることは知っている。
それでも、枠から一歩も出られない窮屈さ、
何事も好きには出来ない満たされない思いがあった。
常に父の圧迫の許に置かれ、
事あるごとに父の若き日と比較され、
少しでも欠けていれば能力が無いと言われ、
上手くやればやったで小器用と評価を受ける。
 信重には信重にしか見ることの出来ない世界があって、
それは偉大な父の雛型と成ることを求められる世界だった。
 皆がそれを期待している。
信重が信重らしく居る道は、まだ閉ざされていた。

 松姫は愛おしかった。
信重の正室として、一度も会わぬまま、もう三年が経つ。
手紙(ふみ)のやり取りで、人柄の善さも伝わってくる。
 ただ、信重にとり、仙千代との違いは何かといえば、
松姫は愛しいが御家の事情、
仙千代は信重が生まれて初めてこの手で選んだものだった。

 二人で川まで来ると、大きく肩で息をしながら、
仙千代と見詰め合った。
 仙千代の背後に、雄大な御嶽山、真っ青な初夏の空、
緑の濃尾平野が広がっている。
 仙千代も呼吸が荒かった。

 「仙千代は蛇が平気なのか?」

 「まさか。鼠の尻尾が嫌いだと前に言ったでしょう?」

 「そうだった!長いものが苦手なのだな。
なのに、蛇使いように枝にクルクル巻き付けて、あの技、凄い!」

 「技でも何でもありませぬ」

 「仙千代のお陰で助かった!」

 「たまたま傍に居たのが私だったのです」

 「違う!仙千代だから、必死になって、儂の為に……」

 二人きりなら、ここで仙千代を抱き締め、
今度こそ、きちんと口づけしたかった。

 だが、小姓達が走り寄って来て、
近習も遅れ馳せながら集まってきた。

 「あっ!若殿!手に血が!」

 信重の手の血液に気付いたのは三郎だった。

 「いや、儂は痛くない」

 あっ、仙千代かと思い、仙千代の右手を広げさせると、
蛇退治で枝を扱っていたせいか、
木の表皮で怪我をしたらしかった。

 仙千代は信重の手を汚したことを詫びていたが、
信重が誘い、二人で川で手を洗った。
 確かめてみると、傷はたいしたことはないようだった。

 「可哀想に。こんなになって」

 「何ほどのことでもありませぬ。全然」

 その笑顔に嘘はなかった。
信重の役に立ち、
水難事故の恩を返せたとでも思うのか、晴れやかだった。

 確かに今、たった二人なら、それほどの幸福はないが、
仙千代との時間はまだ残されていると信重は考えていた。


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