第108話 蛍の舞い(1)

文字数 1,018文字

 堀田邸は平城と言っても過言ではない権勢ぶりで、
中庭すらも広大だった。
 池、小川、奇岩、樹々が絶妙に配置され、
東屋の周りの梔子(くちなし)の木は、
若草色の瓜実(うりざね)型の蕾がたわわで、青い姿が清らかだった。

 遠い潮騒と共に、
夕餉の後の小姓達の騒いでいる声も時おり聴こえる。

 初夏の夜に夏を待ち切れない蛍が乱れ舞っている。

 信重は声を上げた。

 「何と幻想的な……極楽とは斯様なところか」

 感嘆している少し後ろに仙千代が居た。
陽が沈み、仙千代の姿は月の光と館の明かりに浮かんで映る。
 海のあと、着替えた仙千代は、
親が持たせてくれたという萌木色の素朴な小袖となっており、
その様は仙千代の心の在り様と合っているようで、
信重の胸は愛しさで締め付けられた。

 常は山頂の天守に住んでいる信重は、
蛍を目にすることがなかった。
 城が建つ稲葉山は岩盤で、掘削しても水は出ない。
清らかな水辺にだけ、蛍は棲む。

 「源氏も平氏もおりまする」

 「見分けがつくのか?」

 「源氏は川に住み、大きく、
平家は小さく、主に池におりまする。
ここには小川も池もありますゆえに」

 舞い踊る蛍が信重にも仙千代にもふわっと絡む。

 「仙千代、動くな」

 信重は仙千代の動きを止めた。

 「髪の先に蛍が……光の髪飾りのようじゃ……」

 少し乱れた髪の先々に蛍の光が漂うように揺れ宿り、
あどけない仙千代を優しく照らした。
 
 「はい」

 命じられたとおり、じっと動かず、信重を見詰める。
仙千代に触れたかったが、蛍が去っていきそうでこらえた。

 「ずっとこのまま……この一瞬が続けば良いのにな」

 「はい」

 「戦も何もなく……ただ、生きる」

 動かないままの仙千代が涙をひとすじ流した。
声を漏らすまいと唇が微かに震えている。

 「どうした?」

 涙の理由を知る前に、信重も景色が曇りかけている。
仙千代が泣くのなら信重も泣く、
信重の涙のわけはただそれだけで十分だった。

 「今このひと時が十分幸せでございます」

 鼻の奥がつんと塩辛くなった。
色の無い世界に生きてきた自分を仙千代が救ってくれた、
僥倖とも思われるめぐり逢いだと思っていたが、
そうではない、運命だったのだ、前世から繋がっていて、
来世もその次の世も、永遠に共に居るのだと信重は思い、
仙千代と同じようにこの一瞬に感謝した。

 潮風の向きが変わり、仙千代の髪から蛍が離れた。
 二人は池の端に佇んでいる。
 蛍の群れは正視していると、
酩酊してしまいそうに常に居場所を変え、揺れ動いている。

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