第163話 淮南子

文字数 1,794文字

 三郎に個室が与えられることになり、
小姓達の間ではちょっとした話題となった。
 あの真ん丸顔の「満月三郎」が、
若殿の寵愛を授かっていたとはという驚きなのだった。

 「本当なのか?何かの間違いに決まっている」

 「有り得るわけがない。
若殿は仙千代を気に入っておられたはず」

 「しかし仙千代は今や殿の御寵愛が深い。
そもそも三郎と趣が違い過ぎている。
やはり若殿は毛色の変わった御趣味なのに違いない」

 「三郎は褥でも饅頭を食っていそうだ」

 陰口でもないが、皆、言いたい放題だった。
三郎に愛嬌があって憎めない人柄であることの証左なのだが、
三郎本人はといえば、そのことで羨むような声を投げられると、
いつも困った顔をして、やたら汗をかくばかりなのだった。

 竹丸が仙千代の部屋にやって来た。
竹丸は織田軍本隊の来月の北近江出陣で二度目の遠征予定だった。

 仙千代が竹丸の愛読書『淮南子(えなんじ)』を読みたいと
かねてから言っていたので、持ってきてくれたのだった。

 「かたじけない。竹が留守の間に読んで、
良いなあと思った箇所は書き写しておこう」

 仙千代は拝領の仕草で書を預かった。

 「仙は今も毎日、
小姓の務めの逐一を書き記しておるのか?」

 「うむ。書けば、行った(おこなった)時、書いている最中、
書き終わって読んだ時という風に三回やったと同じことになる。
出来の悪いこの頭でも流石に覚える」

 竹丸がニコニコしている。

 「仙は根は真面目じゃな」

 「根だけだけではない。根っから真面目じゃ」

 二人で笑った。

 「なあ、竹。先だっての天守で、
若殿は三郎が愛童なのだと仰せだったが、どう思う」

 竹丸は間髪入れず即座に放った。

 「有るわけがない。まず、無い」

 「うん……」

 「殿が若殿を心配されて、伽小姓を持て持てと仰って、
場を収める為に言われたのだろう。
仙も本心ではそう思っているのでは?」

 「うん。まあ……」

 「良いではないか。三郎は部屋を頂戴でき、
若殿もひとまずお好きにできて。若殿は純でいらっしゃる故、
愛童選びも慎重でいらっしゃるのだろう」

 「そうだな。うん……」

 「若殿は御心の深い御方……あのような御方に好かれたなら、
生涯の幸せじゃ。何事も浅い考えで動くような御方ではない」

 「そうかな……」

 「仙は、この言葉を知っておるか?」

 「どんな?」

 「異路同帰」

 「いろどうき?」

 「その『淮南子』に書いてある」

 竹丸が教えるには、
『淮南子』が出典の「異路同帰」とは、
易経が出典の「殊塗同帰」とも同義で、文字通り、
「道順は違っても到着する場所は同じ」
という意味なのだという。

 「間違った道を行かなければ、ふたたび道は重なって、
めぐり逢いが叶うということじゃ」

 「そうなのか。博識じゃなあ。いつも感心する」

 「儂らは道程を歩み始めたばかり。この後、まだ先がある。
何事も諦めず、しっかり日々を送れば浮かぶ瀬もある。
気落ちするようなことが目の前にあっても嘆くな。
自暴自棄がいちばんの悪手だ」

 もしや竹丸は仙千代の信重への想いに勘付いているのではないかと
仙千代はちらっと思った。
だがそれを仙千代が確かめたとしても竹丸は知らぬ存ぜぬで
受け流すだろうとも思った。
それが仙千代の知る竹丸の賢明さ、優しさだった。

 「竹と知り合えて良かった。良い友は一生の宝じゃ。
今回の北近江出陣も無事を祈る。心から」

 「うむ。いくら殿は、
弓、石、銃弾が飛び交う中へは行かれぬといえ、
道中でも陣でも何処で何が起きるか分からぬ。
ただただ殿の安全を第一に過ごす日々。
正直、身も心も休まらぬ。しかし甲斐はある。
殿の身辺を正しく保つことが小姓の役目。
殿があっての織田軍じゃ。小姓の務めも張りがある」

 「儂も付いていきたい、できるなら」

 信重の初陣に付いていきたいというのが本心だった。
たとえ蔑まれ、嫌われ、口をきくことすらなくとも、
日に一度で良い、顔を見、できれば声を聴きたかった。

 「仙は歳からいって来年じゃ。楽しみに待て」

 仙千代は頷く振りはしたものの、

 ダメで元々、殿に願い出てみよう……
迷惑にならぬよう、頑張るからとお願いしてみよう……

 と秘かに思った。
 
 三郎は今回、信重に付いて行くことが決まっている。
こう言っては何だが、腹ばかり壊して泳ぎも苦手、
たまに寝小便もする三郎が選ばれるなら、
一才年下とはいえ、
自分も役に立たないわけではないと仙千代は考えたのだった。




 

 


 

 




 


 
 


 
 

 
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