第20話 テンカラ

文字数 3,730文字

 洞窟の中は広く、明かりがまだ届く位置にエゾの隠れ家はあった、横穴を部屋にして煮炊きとベッド、水が確保できる。
 エイラとローレルが拾ってきた薪でキャイキャイしながら火を起こしている、よく乾燥した広葉樹の薪は煙が少ない。
 鍾乳石で作った簡易冷蔵庫から干した魚を取り出す、本来なら鮭だが昨年は捕ることが出来なかった。
ノルマン村より何らかの有害廃棄物が発生しているは明らかだ。
河川残留型の鱒類を辛うじて確保したがノルマン自治区より上流域でなければ釣ることが出来なくなっていた、鮭1匹のタンパク質を鱒で賄うためには5匹は必要になる。
 ケツァルが落とした羽毛は光輝く縞模様、毛鉤にすると魚たちには魅力的なようで抜群の釣果を誇った。
 一昨年までは落ちたケツァルの羽根をあちこちで集めることができたが、いまは見ることが出来ない、巻きためてあった毛鉤も残り少ない、来年の釣果は期待出来ないかもしれない。
 干して桜の木のチップでスモークしたチャーという鱒は冬の間の貴重な保存食となった。
 お湯を張った鍋に玄米と多様なキノコ、鹿の干し肉も入れて味噌を投入する。
 野菜も入れたいが今は手に入れることが出来ない、でも味は十分に旨いだろう。
 煮あがった鍋からエイラが椀に取り分ける、直火に掛けたスモーク・チャーも良い感じだ。
 「さあ、食べよう」
 「うん」
 「この魚もエゾが釣ったの」
 エイラが焼けた魚を手に取りながら興味ありそうに聞く。
 「そうだ、チャーという魚だ」
 「テンカラで?」
 「ほう、テンカラなんて良く知っているな、ノルマン人は餌釣りしかしないのに」
 「なんか、分かった、毛鉤で釣るのでしょ」
 「……覚醒の記憶か」
 エイラの覚醒は漁師だろうか、少しほっとする。
 ローレルも湯気の上がる椀を啜っているが、箸がうまく使えていない。
 「あちっ、……あちっ」
 猫舌でもあるようだ、箸の持ち方の手本を見せて持ち直させる。
 「やってみな」
 「うん」
 手本を見せると直ぐに使い方を覚える、器用だ。
 「上手だ」
 ローレルも嬉しそうに笑う。
 永久にこんな時間が続くのであれば、そこに身を沈めてしまいたくなるが、それはこの娘たちの幸せではない、自分のエゴでしかないとエゾは打ち払う。
 ノルマンからこの娘たちを脱出させる、エゾは再度心に誓うのだった。
 
 食後、満腹でうたた寝をする2人に毛布を掛けエゾは半年を費やして描いている地図を取り出し広げる。
 この鍾乳洞の地図だ。
 この隠れ家を起点にして枝分かれしている道は16本、どれも最後まではヘッドラの電池が足らずに行きつけてはいない、いくつかの道は地上に抜ける縦穴があり、万が一の脱出ルートとして準備しておくべきだろう、エイラ、ローレルのことも考えればステップも小さく作る必要がある。
 2人だけでも逃走できるように目印も必要だ、網の目の全体図を覚えてもらわなければならない、自分たちを標的としている斥候が増え、武装も強化されている。
 冬が来て外界が閉ざされてしまえば、やつらの捜索は地下に向けられる。
 地下では距離をとっての狙撃という圧倒的優位性がなくなってしまう、多勢に無勢となればこちらが不利だ。
 彼女たちを守りきれない。
 少し疲れた、古希(70才)になる、早いものだ。
10年前に送り出したあの娘のことを最近よく思い出す、何度か手紙が届いたが返信はしていない。
やさしい娘だ、バナマ運河の事件できっと心配しているだろう。
里帰りなんて気は起こさないだろうが……。
少し眠ろう、明日は2人に鍾乳洞の脱出ルートを案内しよう。
 焚火の弾ける小さな音が鍾乳洞の高い天井に反響して、水の滴る音との心地よい合奏を聞きながら安息の暗闇に落ちていく。

 「くそ、重てぇ」
 ゾッキョは肩に食い込むボッカの肩紐に手をやる、歩き始めてから10キロメートル、まだ半分来ていない。
 あまく考えていた、50キログラムを背負って30キロメートルの下り道を行くのはなんでもないと思っていたがとんでもない。
 歩き始めてすぐに膝が痛くなり、次に腰にきた、呼吸は苦しくないがとにかく全身が痛い。
 給金の良さに釣られて手を挙げたが正直、割に合わない。
 それに5人の背負子でスタートしたが5キロメートルも歩かないうちに1人が足を滑らせて鍾乳洞の谷に落ちやがった、あれはもう助からねぇ。
 命がけだなんて聞いてねぇ!怒鳴りつけてやりたいが監視の幹部様は背負子が落ちた時も舌打ちをしただけで助ける素振りも見せなかった。
 俺たちの命は明らかに荷物よりも安い、50キログラムのベータロイン、販売価格で5億円、一往復で5万の報酬だ、100万分の1だ。
 バナマ運河の事件以降、工場と運河をつなぐ地上道路が通れなくなっちまった、ブツの運搬が一気にタブつきやがった。
 クソ鳥の連中があんなに頭が回ると予想できたヤツはいねえだろう、ブッたまげたぜ。
 でも、おかげで下っ端のオレにもおこぼれが回ってきた、正直きついが10往復すれば50万円、最新の5.7Lピックアップが余裕で買える。
 残った金で南方のリゾートに彼女を誘う、きっと喜んでくれるに違いない。
 ここは根性の見せ時だ。
 暗い鍾乳洞の細く湿った通路に灯った蛍光灯を頼りに痛む足を引きずりながらゾッキョは運河出口に降りていく。

 標高2100メートル、ヘモグロビンの急落が始まる標高にベータロインの工場はある、マーはこのクソな工場に執行を命じられて3か月になる、前任者は自殺したらしい。
 工場はノルマン族の村の学校を入り口にしている、もちろん通う子供はいない。
 村を襲撃した時点でほとんどを殺傷したが、ノルマンは美人が多い、金になりそうな奴は生かして外国に送る手はずだったが、船積みで密輸できなきゃ死体で送るしかない、死体を買う変態などいない。
 高額商品がただ飯くらいに大変身だ。
 おまけに生き残りのマタギだ、ここ半年で20人も殺られたうえに、組員どもの慰め用に飼っておいた子供まで攫っていきやがった。
 ベータロインの生産は順調だ、首無しの鳥どもは材料となる卵を産んでくれているが、次の世代への交代が難しい課題だと技術者たちはいう。
 卵を孵化させて成獣にするのでは時間もコストもかかりすぎる、野生の成獣を捕獲してしまった方が早いが、いい捕獲場所だった神殿の祭儀場にもすっかり姿を現さなくなった。
 運河襲撃事件の際に相当数をF1鳥に殺されたのもある、どういう理由かあの黒鳥は自分の親戚を目の敵にしている、なにより狂暴すぎて御すことが出来ない。
 大損害も甚だしい、山脈の奥地に捨ててきたはずなのに、なぜここにきて舞い戻ってきたのか、第一にF1というのは繁殖器官が無いはずなのに頭数が明らかに多い、技術者も説明できないと言ってやがった、自分で作っておいて無責任な奴だ。
 しかし、近々の問題は生産ラインをまわす人間にある、最初は生き残りのノルマン人を利用していたが運用して1か月も立たないうちに次々に自殺しやがった、仕方なく使い捨ての組員や犯罪者をスカウトしたが明らかにベータロインの品質か落ちた。
 クライアントからクレームを出されかねない、これは1回の取引ではないのだ、戦争中はハイシーズン、その後も安定的なシノギとなる。
 このプロジェクトは若頭の発案らしい、さすがは国制大卒の覚醒者らしい大胆すぎる発想だが現場を知らねえ、組員の厚生をもっと考えねえと内部から瓦解しちまう。
 ベータロインのクライアントは専用取引の1団体のみ、しかも俺達より質悪く権力の中枢にいる、下手撃てばラドウごと文字どおり消し飛ばされる。
 マーが見下ろす、かつてノルマンの民が暮らしていた村の空き家に灯がともり、煙がたなびき始める。
 老体の組長はそう遠くなくおっ死ぬだろう、息子は阿保のボンボンだ、きっと排除される、そうなれば若頭が新たな組長としてお立ちになる、ここで功績を上げておけばラドウナンバー2の座は俺のものだ。
 このケツァルの糞尿と粘膜、精製薬品の匂いが入り混じった地獄の工場もそれまでの辛抱だ。
 コートの内ポケットから隣国から輸入された高級煙草をシガーボックスから取り出して火を付ける、羅道に入ったころはちびた国内産の粗悪品ばかりを吸っていた、数年で歯が欠け始まり前歯がサメのようにギザギザになった。
 寒風が歯に沁みる、幹部組員のベータロインの接種は禁じられているが、ここには酒とそれしか楽しみがない、あれはいいものだ、自分が神にでもなったかのような全能感、全てを見通せる力を持てる、効いていればいつまでも働ける、覚醒者なんて目じゃない。
 シガーボックスの二重蓋を開けて白い粉を一包取り出し鼻から勢いよく吸い込む。
 ツンとした刺激が一瞬だけ鼻の粘膜に走るが、それは直ぐに体内に吸収され仕事を始める。
 視覚が広がり、頭のCPUが高速で回転を始める、なんでも出来る、俺に任せろ。
 「よしっ、やるぞ!」
 諸問題に対処するため颯爽と踵を返し速足で工場に向かう。
 しかし、傍目には淀んだ目の呂律の回らない男が千鳥足で歩いているようにしか見えない、硫黄臭と甘くて苦い匂いの混じった腐敗臭を吐きながら。
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