第32話 誤算

文字数 4,562文字

 エゾの額の裂傷よりエレナの腹部圧迫による症状の方が心配された。
 昨日の夜から発熱と下血がある。
 「早く医者に見せた方がいいな、内臓を傷つけているかもしれない」
 ニシが熱っぽく、少し苦しそうなエレナの顔を見つめる。
 「私もそう思う、スノーモービルで下山だけなら途中で4WDに乗り換えても24時間で街に出られる、そうしたら救急車を呼ぶのが一番早いだろう」
 リリィがマップを見ながらエゾに道程を指で示す。
 「しかし、我々がスノーモービルを乗っていったら、あんたらはどうするつもりだ」
 エゾは立てるほどに回復していた、老人とは思えない体力だ。
 「心配はいらないわ」
 「ノルマン村には200人はいる、あんたら3人で殲滅は無理だ」
 「いいえ、エゾさん、あなたの地図と知識で具体的な目標と作戦が立案できた」
 
 昨夜、エゾとリオたちは遅くまで情報を交換しあった。
 エゾは工場の位置や発電所、宿舎となっている旧住宅、麻薬運搬のための車両基地、そして何より近づくための鍾乳洞の詳細な地図を提供してくれた。
 これにより発見されずに近づける可能性が高くなった、山脈を迂回するより遥かに早く安全だ、トラップのオマケ付きだ。
 ニシはこれまでの経緯を話した、バナマ運河襲撃事件からディアボロスのこと、リオ、リリィ姉妹の姉、ローズの戦死のこと。
 ダーラニー暗殺未遂からジェイの殉職、ベータロインの蔓延のこと。
 これから何をなそうとしているか。
 オペラシオン・バブル・シャドウの全容を。
 驚いたことにエゾは幼き時のリオ、リリィと話しをしたことがあるという。
 父ジョシュ・アイゼンが現役の陸軍准将でナジリス戦役していた時に部下として同じ戦場で戦ったという、その時にあげた戦果を認められてシャトー・ガイラに招かれたことがあるという。
 ノルマン村に帰郷する前の話だ、リリィ、ローズが養子に来てすぐの頃だろう。
 エゾはリリィたちが覚醒しているのを見て直ぐに分かったという、不幸なことがあったのかと2人に問うと、8才の少女が3才のリオの手を引いてこう言ったのだという。
 『我が主君に再び出会い、お仕えすることがかないました、これ以上の幸せはありませぬ』と、エゾはこんな形での覚醒もあるのかと初めて知ったのだ。
 リリィはその時のことを覚えていた、日に焼けた誇らしげに胸に勲章を提げた戦士を。
 「アイゼン准将のご息女とは、親子で助けていただいたことに運命を感じますな」
 「私たちの魂はきっと、いつの時代も共にあったのでしょう、正しき海の一滴として」
 エゾは覚醒することも悪いことばかりではないと初めて思った。

 エゾがエレナを背負い、オックスがローレルを後ろに乗せてスノーモービル2台は明けきらぬラライ山脈の林を抜けて4WD車両を隠した林道を目指して出発した。
 ルーフキャリアも引いていく必要がない、最低限の食料と武器、長年戦場を共にしたエゾの相棒97式狙撃銃はエゾの身代わりとなり殉職した、リオは自分のショットガンM870を勧めたがエゾはエルダーが使用していたシモノフを選択した。
移動中の脅威はディアボロスが最も危険だ、自分には遠距離攻撃ができる小銃、しかも初速が早く貫通力のあるシモノフは都合がよいと、エルダーは予備弾倉を2パック30発も装備していた。
 エゾの24時間には十分だろう。
 リリィは最後に4WDから無線でR293基地司令ヴォルデマール大佐とアイゼン家への連絡を頼んだ。
 「必ず伝える、無理はするな、必ず戻れ」
 「3人を頼みます、どうかご無事で」
 それぞれに正しき魂たちはお互いの正しき道を行く。
 大儀を祈り、無事を祈り、大きく手を振る。

 猟犬ビーグルだけがその夜工場に戻ってきた、ハンターたちは帰らない。
 無線にも応答がない、ミッションの失敗は決定的だ。
 信じられない、70才の老人1名に5人の諜報員が殺られたのか。
 仲間がいた可能性がある、外部からの助力、閉鎖していたバナマ運河をすり抜けた。
 しかし、大部隊ではないだろう。
 ノルマン自治区全体には非戦闘員も含めれば200人以上いる、地上戦力だけなら大隊規模、いや航空隊の爆撃でもされない限り全滅することはない。
 ハンが工場滞在中に仮の本部としている部屋のデスクの前には砕け散ったカップと、まずいお茶が床に模様を描いていた。
 その破片の向こうには壁にもたれかかる様に胸に赤い染みを作った小太りの女が朝日に照らされて瞳を開いたまま動かない。
 シュガーの死体だった。
 
 最悪の朝の始まりは1時間前だった。
 ハンターが戻らないことよりも重大な知らせが早朝、羅動のリュウから秘匿通信でハンにもたらされた。
 『ハン大佐、マズイです!!ダーラニーの暗殺失敗だ、全員殺られた!!』
 『全員?なぜ分かる、タルシュはどうした?』
 『なぜ分かるかって!ざけてんじゃねーぞ、てめえ!』
 珍しくリュウが興奮している。
 『興奮するな、解るように説明しろ』
 『ああ、教えてやるよ!死んでいるよ、全員確実に!うちの50人と情報部の4人』
 『届いたからな、乗っていたトラックに乗って全員帰ってきたよ、今朝事務所に!』
 『なら、問題な……』『死体でな!!』
 『ご丁寧に事務所前にばら撒いていきやがった、こっちは朝から大騒ぎだよっ!』
 『なんだと!?』
 『刑事部の飼っている連中を使ってもみ消せるレベルじゃない、そっちの外人部隊の身元が割れるのも時間の問題だ』
 『タルシュはどうした?』
 『わからねぇ、死体の中にはいなかった、連絡もつかねぇ』
 アイゼンに拉致されているのか、尋問されても簡単に口を割るようなことはないと思うが薬でも使われればどうなるかわからない。
 『なんてことだ……』
 あの城が予備役基地だとは分かっていたが、戦力を読み違えた。
 『とにかく俺は一時消える!』
 『それで、あの鳥は始末できたのか?』
 『あぁ、馬鹿か、てめぇ!全員殺られたのだ、分かるわけねぇ』
 『確認してないのか』
 『近づける分けねぇだろう!』
 『だめだっ!確認するのだ!』
 『てめえでやれっ!!』

 秘匿無線は一方的に切れた。
 
 「くそがっ!!」
 テーブルの上のコーヒーカップを力任せに床に叩きつけた、額を脂汗が流れ落ちる。
 「どうなっているのだ!」
 天才中の天才、この俺が考えた作戦がことごとく失敗しただと。

 ガチャ、ノックもなくドアが開けられ小太りの女が入ってくる。
 「!?」
 「どうなさったのですか、大佐」
 「ずいぶんご機嫌ななめですね」
 「なにっ?」
 「今日は良い天気になりそうです」
 気持ちの悪い科を作りながら近づいてくる。
 思い出した、こいつは昨日の会議室にいた女だ。
 ナジリスの諜報員か、それともアイゼンのスパイか?女の行動が理解できない。
 「今日私ね、1日お休みなの……」
 「??」
 「ですからね、大佐……」
 女が後ろに手を回した。
 「!」
 バァッン
 危険を感じてハンは胸のホルスターから拳銃を抜き、迷うことなく女の無意味に開けた胸に発射した。
 驚愕に目を見開いたまま女は即死した。
 その手に握られていたのは武器ではなく自室の鍵だったが、ハンには最後までシュガーの行動の意味を理解することはなかった。
 本来なら温かく窓から差し込む日差しが首筋に痛い、いやな朝だ。
 「なんて日だ」
 ハンは更なる危機を予感じていた、雑魚の中で勝ち続けて得た自信が揺らぐ。
 敵は鮫か鯱か、感じたことのない敗北感が忍び寄っていた。

 タルシュは窓のない白い部屋のベッドに寝かされていた。
 身体はベルトで固定されていて動かない。
 あの鬼武者のような女の槍で四肢の腱を切られて動けなくなったあと直ぐに何かの注射を打たれ、意識を失い今目覚めた。
 身体には麻痺の感覚が強く残っている、舌を噛み切ろうとしたが口にも力は入らなかった。
 切られたのは四肢の腱だ、一生だるまで過ごすくらいなら死んだ方がましだ。
 きっと拷問して俺から情報を聞き出すために生かしたのだろう。
 ⦅そうはいくか、失敗はしたがハン様を裏切るようなことはしない⦆
 天井を睨むしか出来なくなったタルシュは自身に向けられるであろう痛みを想像した、拷問する側で、その現場には幾度も立ち会ってきた。
 対象者の呻き叫ぶ声、懇願の目、震える唇、タルシュは立ち会うことが苦痛だった。
 あっさりと殺してやれば良いものを、拷問官どもの愉悦を感じて吐きそうになった。
 身体弱者は直ぐに死に、精神弱者は気が狂い苦痛から解放される。
 恨めしいかな、自分はどちらにもなれないだろう、どれほどの時間、苦痛に耐えなければならないのか。
 どうしたら早く苦痛から解放されるか、その方法を天井に書き出そうとしたが天井は白いままだ。

 悶々と暗い思考を巡らせて3時間が経過したところでドアが開いた。
 いよいよ来たかと腹をくくり入ってきたやつを睨みつける。
 ⦅!?⦆
 入ってきたのは妙にナヨナヨしたへっぴり腰の男と黒服の執事だった。
 「お目覚めでしたか」
 聞き覚えがある、屋上で傭兵忍者を屠った凄腕の男に違いない。
 「あなたに宣誓することを我が主人より言付かっておりますので申し上げます」
 「ああ、そうそう、私はこの屋敷の執事兼防衛隊長のファレルと申します」
 「こちらは、あなたの四肢の腱の接合手術を施術したオルドレス医師です」
 執事は優雅に一礼し、自己紹介をした。
 ⦅四肢の腱の接合手術!?どういうことだ⦆
 「あなたは情報部特務班のタルシュ少尉様でございますね」
 ⦅思い出した、生物大学にいたオネエ主任研究員だ⦆
 「我がアイゼン家は戦争条約に基づき、あなたを捕虜として拘束し、身体の保護を保証いたします、もちろんその傷の治療もさせていただきます」
 「あのですね、手術自体はうまくいきました、なにせ切断が太い血管を避けていましたので、くっ付けるのは簡単でした、どうやったらあんなふうに切ることが出来るか……いえ、
要はあなたの手足は再び歩行や生活に支障がないくらいまでには回復できると思います」
 へっぴりオネエが両手を揉みながら説明する。
 「食事は毎日、8時、正午、18時です、自分では召し上がることは出来ないと思いますので給仕がまいります、それとお暇だと思いますのでビデオでもご覧ください、時代劇などお好みではございませんか、私は好きです」
 
 ビデオをセットして再生すると2人とも1礼をして出て行ってしまった。
 
 タルシュは呆気にとられた、苛烈な拷問を当然覚悟していた。
 それが戦争条約に基づく捕虜扱い、暗殺に来た自分をここまで厚遇する意図はなんだ。
 
 その後も約束通りに食事が提供され、護衛つきとはいえ美人な給仕がスプーンで口に運んでくれた、人間としての尊厳が最大限に守られた。
 タルシュは洗脳されてはいても元来真面目で律儀な男だった、だからこそ洗脳されやすく、ハンのようなダークエンパスにはコンロールしやすい存在なのだ。
 律儀な人間は恩を受けると恩で返さなければならないと考える、ニシは承諾しないだろうが供述を得る効果的な方法だ、外圧を加えても破壊してしまうだけだ。
取り違えてはならない。
 正しき道のための手段を、正しき手段は剣や銃弾だけではないのだ。
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