エンドロール

文字数 1,243文字

例えばこれが物語だったらどうだろう。
いかにも僕の書きそうな話じゃないか。互いが唯一の理解者だったひと組の男女が、些細な、けれど決定的なたったひとつの言葉で破綻する。
その物語では、女が自殺しようとするのを男が間一髪で止める。そう、自室で小説を書いているとき、急にインク瓶が転がって落ちたのだ。妙に嫌な予感がした男は、文字を綴る手を止めて、妻の部屋へと向かう。逸る気持ちでもしたんじゃないだろうか、それならば途中、少し駆け足になるだろう。そして戸を開けた瞬間、今まさに首をくくって吊ろうとしている妻の姿を見るのだ。
男は地面を蹴って妻を止める。妻はきっと泣くだろう、どうして止めるのかと。男は妻をきつく抱きしめて、情けない声で呻くのだ。愛している。そう、何度も。
こういうのはどうだ。首を吊る妻の姿は、執筆しながら居眠りをしていた妻の夢だった。目が覚め、慌てて妻に会おうとするも、部屋はもぬけの殻。家の中のどこにもいない。妻は外に出てしまったのだ。男はそこでようやく己の愚かさに気づく。男は妻に電話をかける。当然、妻は出ない。居ても立っても居られず、男は家を飛び出す。街中を駆けずり回って、隣街まで足を伸ばして、それでも見つからなくて、最悪の想像ばかりが頭を巡って。運動にとんと向かない身体は限界を迎えて、真夜中、家の近くの公園のベンチで途方に暮れる。最後にもう一度、妻に電話をかけようと思ったが、走りながらかけ続けていた携帯は無情に黙りこくっている。男はついに祈るように俯き沈黙する。無駄に広がる想像に鼻の奥が痛くなる。目の奥が熱くなる。
そんな男の元に、妻は現れる。『反省した?』と笑いながら。男は何も言えず、ただ頷く。
いくらでも考えつく。例えば、男が己の投げた言葉の重さに気づき素直に謝る。例えば、ご機嫌取りに家事を手伝ってみる。花を贈る。物を贈る。話をする。手紙を書く。
それとも。
夫婦の日々の間には何も起きていないとか。ふたりの日々は至って平穏で、お互いがお互いを深く愛していて、欠点も認めあっていて、ときに怒ったり、悲しんだりするけれど、それすらすぐに時と流れ去っていて。妻はいつもどおり買い物に出掛けていて、ただ途中で何かに気を取られて、時間を忘れている。だから日が沈んで、やっと思い出す。中々帰ってこない妻に不安になった男は、扉の前で行ったり来たりを繰り返し、鍵を開く音でようやく安堵する。ドアが開いて、窓から差す茜に染まった頬で、妻は現れる。それから、眉を限界まで下げた男の顔を見て、妻は声を立てて笑う──
──そんな、話は。
声が聞こえる。
『遅くなってごめんね』
聞こえる。
『すぐに夕飯作っちゃうね』
聞こえる。
『ああもう、ごめんってば。そんな顔しないで。次からは連絡するから』
君の笑顔が滲む。傘もなく歩く雨の日のように。水の入ったコップから覗くように。あるいは、焦点のズレたカメラのように。
人生は一本の映画だという。
僕はずっと、エンドロールを待っている。
そこにはきっと君の名前がある。
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