文字数 1,592文字

ひどい頭痛で目が覚めた。ゆらゆら揺れる視界に踊らされながら上体をあげると、その拍子に身体に乗っていた空の缶が落ちた。からんからんと、妙に小気味のいい乾いた音を立てながら、空き缶は転がっていく。中身は既になくなっていたらしい。拾おうとして手を伸ばして、そこから先に身体が動かないことに気づいた。
確かに、妙に重い。見れば、突っ伏してこちらに被さる格好で、見慣れた黒髪が寝入っていた。こちらの起きた気配を察したか、身動ぎする。それに合わせて髪が揺れて、鮮やかな紫のメッシュが顔を出した。
声をかけようとして、やめる。よく寝ているところを起こすのは忍びないし、そもそも今日誘ったのは私だったはずだ。痛む頭を巡らせて思い出す。そうだ、現場のあるスタッフの態度がどうにも気に食わなくて、いらついた気持ちのままに、愚痴に付き合わせようと首根っこを掴んで自宅まで引きずってきたのだ。
……いや、考えてみれば随分ひどい話ではある。彼が酒に弱いのを分かっていた上で、そして自分が弱い方ではないのを分かっていた上で付き合わせたのだ。また頭痛がひどくなった。
そういえば今は何時だろう。時計を見上げると、指しているのは朝の四時。ある意味妥当でもある。そんなことはない。かもしれない。
やっぱりまだ酒が残っているようだ。どうにも思考がまとまらない。
そう思うと、急に身体が重くなる。物理的に重いのもあるけれど、なんだか億劫になってしまった。
相変わらず、彼は私の腹を枕にしてすよすよ眠っている。それはまあ構わない、熱源を求めてもぞもぞ移動してくるのはいつものことだ。
顔が見たくなって、体勢を変える。彼の身体が転がって、横向きになる。昔の面影を残した横顔が覗いた。
起きないように、そっと髪を撫でる。存外柔らかい毛が手の中を滑る。その感触も変わっていない。
──幸せになってほしいと思う。
今までの人生で好きだと思った人、好かれたいと思った人、無惨に散った思い出の人たちに。今でもそう思う。学生のときの先輩とか、同級生とか、未だに生傷のあの人とか。
世界のどこかで幸せになってくれればいい。笑っていてほしい。……その横に、私はいなくてもいい。
それは昔から変わらない気持ちだった。向けていた矢印に応えてくれることはなかったけど、きっと本心だった。多分私は、私を一番にできない人のことを好きになるんだろう。大切なものをまっすぐに見る、その瞳が、横顔がきっと好きなのだ。それが、この世の何より綺麗だと思うから。
気づいてしまえばなんと惨めなことか。馬鹿みたいだ。
深くため息をついたら、彼の手が中途半端な寝返りと共に、ぺしと地面を叩いた。起きたかと思って身体を起こすが、しばらく待てばまた寝息が聞こえてきた。そんなに深く寝入っているのか、記憶が正しければ、弱い缶を三本も空けてなかった気がするのに。
そういえば、あのときもこんな感じだったっけ。
十数年越しの彼の想いは私にとっては青天の霹靂で、到底信じられるようなものじゃなかった。あなたの思うような人間じゃないと言っても、それごと肯定されてしまっては何も言えない。私が否定し続けてきた私を好きだと言う。私が嫌い続けてきた私が、好きだと言う。理由は分からない。皆目見当もつかない。
大事な弟で、大切な人で、一番幸せになってほしい人。
世界のどこかで幸せになってくれればいい。笑っていてほしい。……その横に、私はいなくてもいい。
そう思っていたのに。
誰にも取られたくないし、一番近くにいたい。その目に他の誰も映さないでほしい。幸せになるなら、それをすぐそばで見ていたい。
この身の上には過ぎたわがままなのはわかっている。わかっているから、苦しい。
あんなことを言うから。あんな顔で笑いかけるから。私は随分、よくばりになってしまったみたいだ。
「ねえ、紫蘭のせいだよ」
呻くように答えた寝言に、思わず笑いが零れた。
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