花火、夢の跡

文字数 2,170文字

夏の日だった。
大通りでは祭りがやっていた。提灯の光が川のように輝いていて、響いた太鼓の音が腹の奥を震わせていた。あそこはきっと腹をくすぐるいい匂いがするのだろう。背後から迫る死臭が窓の外へ流れ出ていくのを感じながら、そう思った。
部屋のチャイムが鳴った。窓際から離れ、床に転がる母親だったものを越えてドアの前に立つ。靴棚と壁の隙間に仕舞われていた折り畳みの台に登り、ドア穴を確認する。背伸びして下の方を見ると、艶やかな黒髪が見えた。台から降りて雑に退かし、ドアを開ける。
友人が立っていた。白いワンピースが闇夜に映えていた。
部屋の中に招き入れ、しっかりと鍵をかける。上から順に二回、きちんとかかっていることを指さし確認して振り返ると、友人は母親の横で背負っていたリュックサックを開けていた。それは私たちの体躯には似合わない大きさの代物で、中からは見慣れないものがたくさん出てきた。青色のビニール袋と、灰色の砂、透明なレインコート、それから見たこともないほど大きな包丁。
ばらばらにしよう、と友人が言った。二人で母親を引きずって、バスルームまで運んだ。おとなって重いんだね、私がそう言うと、死ぬと重くなるんだよ、と答えが返ってきた。それから、包丁と砂と袋をバスルームに持っていった。家にある包丁は、小さいし研がれてないから使えない、と言われた。渡されたレインコートは大人用で、輪ゴムで縛ったり裾をまくったりして、何とか私たちの身体の大きさに合わせた。
包丁を握ると手が震えた。思ったよりもすごく重くて、持ち上げるのもやっとだった。そんな私の横で、友人は大きく包丁を振り下ろした。だん、とびっくりするような音がして、母親の腕が身体から離れた。真っ赤なネイルが、腕の端っことおそろいになった。私も負けじと振り下ろした。思い切りやれば、意外と簡単なものだった。バスルームは狭くて、換気をしても臭いが酷かった。気持ち悪くなって手が止まった時、友人は休んでもいいよって言っていたけれど、大丈夫、とただ返して、私は包丁を持ち直した。死んだ後だと血が少ないんだよ、と友人が言う。へえ、と気の抜けた返事をしながら、首を絞めたのは正しかったんだな、と思った。コードの跡は私の手にも、母親の首にもしっかりと残っていて、目を見開いて呪詛を吐いたあの表情のまま凍りついたように固まっていた。
小さく切った後は、灰色の砂と一緒にビニール袋に詰めた。初めは鉄臭かったけれど、砂を入れたらその臭いはぱったり消えた。協力して袋の口を縛ってからリュックサックに詰めた。要らない鞄はある?と聞かれたから、母親が一度使ったきり仕舞われていた手提げを渡した。つやつやしていて綺麗だね、と友人は言った。包丁をレインコートでぐるぐると巻いてその中に入れた。友人はリュックサックを持とうとしていたけど、なんだか申し訳なくて交換をした。背負った時、重くてよろけて、壁にぶつかりそうになった。
鍵をしめて、外に出る。ポケットがなかったから、くまのストラップを握りしめたまま、道を歩いた。住宅街からは外れた道路で、灯りは少なかった。ぽつぽつと置かれた街灯の隙間の闇の中で、確かに隣を歩く友人の服の白さだけが、唯一不安を和らげてくれた。
どん、と大きな音がして、振り向いた。真っ暗な空に大きな花が咲いていた。少しだけそれを見ていたけれど、すぐにまた歩き出した。後ろから照らされるのを感じる。私たちはそれと反対の方向へ進んでいった。
海風が肌に沁みる。段々と、視界の中に黒が増えていく。私たちは防波堤の端にいた。テトラポットの並んだ海沿い、水平線に向かって飛び出したコンクリート、その上。リュックサックを下ろして、海を覗き込む。黒い水面は夜そのもので、腹の底からじわじわと恐怖が浮き上がってきた。できたよ、と友人が言ったので、見ると、リュックサックの紐で手提げを結びつけていた。二人で引っ張って強度を確認した後、持ち上げて、投げた。ひゅるひゅると、背後で火の花が浮かぶ音がした。重量がないように鞄が飛ぶ。水面につく、その時に、大きく花は弾けた。ぱっと一瞬、明るく照って、水の冠が見えて、すぐ、消えた。海は何もなかったかのように静かに、ただそこに広がっていた。
リュックサックは重かった。きっともう、二度と上がっては来ない。
友人が防波堤の端に腰掛けた。私はその斜め後ろの位置へ進んだ。ふわりと風が吹いた。潮の匂いが鼻の奥を刺した。目が少し痛かった。きっと海風のせいだろう。
友人のワンピースが揺れた。一点の曇りもない白だった。それを見ていたらまた、風が吹いた。私の着ていた、薄汚れたくたびれたシャツが、空気を含んで膨らんでいた。綺麗な髪に、白い服、サンダル。友人はいつも大人びて見えた。くせっ毛に汚いシャツ一枚の自分の姿は、それに比べて酷く惨めなものだった。
月だ、と言って、友人は下方を指した。そんなところにあるわけがないと思ったが、確かにそこには月が揺らめいていた。形の歪んだ光の塊。紛い物であり、鏡写しの偽物の月。しかし見上げれば悠然と丸く在る。
月の明るい晩だった。私はその時初めて気づいた。
幸せだと思った時、楽しくて仕方がない時、何かに感動した時、未来を心待ちにした時、誰かを愛しく思った時。私はあの夜を思い出す。
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