気泡

文字数 1,616文字

湖の底にいる。気持ちのいいほど澄んだ水は、六月の冷気に晒されて刺すようにつめたい。肌の周りを服がたゆたう。海藻のように揺れている。真昼の高い陽が木に遮られ、幾筋かの光が水の中まで差し込んだ。
命日。半身が終わりを迎えた場所に私はいる。
ずっと昔にふたりで見つけた秘密の湖。森の中の水たまりのような、隔絶された緑の空間。雨の多い日は水かさがぐっと増して、溢れた分がくぼみに流れ、少し離れた川と繋がる。それを知らずに傘をさして訪れて、ふたりで溺れかけたっけ。びちゃびちゃになりながら笑ったあのときの、あの子の声はもう思い出せない。
裸足の裏に泥のふわりとした柔らかい感触が伝う。眼鏡のない視界は少しぼやけている。はらり、落ちて沈んでいく木の葉が頬をかすめて、ちり、と痛んだ。
静かだ。
鼓膜が濡れてぽわぽわとしている。少しくすぐったい。身体の力を抜いたまま、ゆっくりと水面を見上げる。ゆらゆら、ちかちか、光も揺れている。
息が苦しくなってきた。堪えきれなくなって、吐いた。ぼこぼこと、大きな気泡が昇っていった。小さな気泡がそれに続いた。だけど、それは見えていなかった。
右も左も分からずにただ暴れる。息が出来なくて。空気を求めて、静かで美しい湖を荒らす。水をかき分けて必死に足を動かして、ようやく外に顔が出る。
げほげほと、痛々しい咳をしてから、大きく息を吸った。
自然の青と、生き物の緑が混ざった、きれいな空気が身体を巡った。見上げれば、重なり合った葉の隙間から空が見えた。雲ひとつない空だった。
ふと、鼻の奥がつんと痛くなった。水が入ったのかと思ったが、やけに顔が熱くて、頬を覆う水が生温かい。視界まで滲んできた。急いで泳いで、乾いた草に手をついて、身体を引き上げた。水を含んでまとわりついた服がやけに重かった。
立ち上がる気力がなくて、そのまま草はらに転がった。かさかさと鳴って背を刺していた植物が、湿って体重に負けていく。空が少しかげった。
水底でのあの苦しさが蘇ってきた。いくら必死に水をかいても、一向に近づく気配のない青い天井。死を感じて冷える腹の奥。それでも諦められず、もがいて、私は今、生きている。
あの子は、これを経て死んだのだ。
ひく、と喉が鳴った。また辺りが明るくなってきた。嫌味なくらいの晴天だった。私には、その程度の度胸しかない、と、思った。
雨の日だった。窓が割れるかもしれないほどの雨粒が降りてくる日に、あの子はここに来た。川は手がつけられないほど氾濫していて、きっとこの場所も、足場もないほど水に沈んでいた。
晴れた翌日に、死体は発見された。川辺の石に靴が引っかかっていたらしい。川に落ちたあと、水に流されてこの湖まで来たのだろう、とあの子の死体の前で誰かが言っていた。事故死なんて可哀想に、どうしてあの日あんなところに、そんな言葉が口々に吐かれた。そんなの分かりきっていた。あの子は私のためにここに来て、私のために死んだのだ。
苦しかっただろう。辛かっただろう。そんな風に分かったように言うことすら烏滸がましいくらいの思いを、あの子はしたんだろう。
喉が貼り付いたようになって、上手く呼吸が出来なくなった。水にぼやけていた視界が更に見えなくなっていく。あとからあとから涙が溢れて、覆い隠すように腕を交差して、呻くように泣いた。
まだ死ねない。死にたくない。
じゃあ、どうなったら死んでいいの?
頭の中で、ひとつ、答えが浮かぶ。あの雨の日の少し前、死にたいと零した私にあの子が言ったこと。
『──死んでもいいのは、幸せなひとだけだよ』
ねえ、故。
私はあなたの命と引き換えに安寧を得た。
でもね、あの日から、私の世界は壊れてしまった。切り立つ崖のように、半分、崩れて消えてしまった。
あなたのいない世界で、どうやって生きていけばいいのか分からない。
ひとりきりじゃ、幸せになんてなれないんだよ。
精一杯の恨み言を吐いても、ただ木々がさわさわと揺れるだけだった。
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