文字数 1,625文字

叔母は変な人だった。気持ち悪いくらいに優しいときもあれば、何かをきっかけにヒステリーを起こして当たり散らす。それは近所じゃわりと有名な話らしく、道行く大人は気の毒そうに眉をひそめ、先生たちは親が来るイベントのときにいつも決まって「無理はしなくていいからね」と気遣わしげに言うのだった。
私たちがその噂の元を目の当たりにしたのは、両親が死んで、叔母と叔父に引き取られてから二ヶ月が経った頃だった。

急に頬を叩かれた。私たちはそのとき、ふたりで絵を描いて遊んでいた。リビングの低い机の上で、自由帳をひとつ開いてクレヨンを握っていた。視界のズレに少しだけ酔って、叩かれた方の頬がじんじんと痛んで、状況が分からず見開いた目には、驚いた顔をしている片割れが映った。
叔母は何も言わずにそのまま去った。あとに残された私は、混乱したままわんわん泣いた。片割れもつられて泣き出した。
日が暮れて叔父が帰ってきた。叔父は真っ赤に腫れた私の頬を見てしばらく固まったが、やがて目を逸らすように横を通り過ぎた。
その日から、食卓には私の分がなくなった。
顔を合わせる度、叔母は私を叩いた。基本的にはそれだけだったけれど、ひどいときには殴られたり、水に顔を押さえつけられたり、首を絞められたりもした。最初の方は私も、泣いたり喚いたり、わからないながらに謝ったりしていたのだけれど、何をしても変わらないことを知ってからは、ただなるべく痛くないようされるがままにするようになった。
朝食は居心地が悪いから、家を出る時間まで部屋で図鑑を読んでいた。夕食時はベランダに出されるから、なるべく遅く帰るようにした。代わりに学校の給食はたくさんおかわりをした。それでも夜中に耐えられなくなってリビングに行くと、ちょっとだけ温かいご飯がぽつんと置いてあった。もったいなくて、それをちょっとずつ食べる。バレて怒られるのは嫌だから、洗って棚に仕舞う。あれを誰が用意してくれていたのかは、今でもわからない。

一度だけ、片割れが間に入ってくれたことがあった。私をかばって、思い切り頭を殴りつけられていた。自分が殴ったのが片割れだとわかると、叔母は目に見えて狼狽した。それからしきりに片割れに謝って、実の子どもにするみたいに抱きしめて撫でていた。
その時の片割れの表情が忘れられない。
もう二度と、殴られたくない。そう思っているのがありありとわかった。
それ以来かばってくれることもなくなったし、表立って何かしてくれることもなくなった。ただ、痛いよね、辛いよね、なんて言うだけ。そう言って泣くだけ。じゃあ、代わりに殴られてよ。その言葉は口から出なかったけれど。

痣は増えていった。だけど切り傷はなかったから、時間が経てば何もなくなった。ちょっとずつ、ちょっとずつ、痛みに鈍くなってる自覚があった。紫色の痣をぐっと押しても、ああ、痛いなあと思うだけ。泣くこともなくなったし、どうやったらお腹とか痛いところを守れるかもわかってきた。
そう思うと、本当にバカバカしくなる。
どうにか逃げようと、先生や大人に縋ったこともある。たすけてください、そう言う度に大人たちの目に浮かぶ、関わらないでおこう、という色。

自殺を食い止めるポスターの文言に、鼻血を拭いながら舌打ちをする。誰も助けてくれやしない。結局、耐えるしかないのだ。
きっと、どうにかなる。どうにかする。
高校に入ったらバイトをしよう。ひとりで生きられるくらいのお金をためて、家を出る。大学については何も考えてないけど、どうせなら寮がついているところがいい。ずっとふたりだったのにひとりきりになるのは寂しいけど、きっとあの子はひとりでも大丈夫だろう。
いつか笑って生きられる日まで。
でもそうか、そう考えると、少なくともあと六年か。……長いなあ、でも、頑張ろう。

結果的に、その覚悟は報われることになった。想定してたよりも早く、耐えなきゃいけない日々は終わった。
だけど、これは望んでなかった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み