累ねて灯して

文字数 15,518文字

初めて会ったのは、高校教師になって何年か経ったその年のこと。桜の季節、ベタな時期だった。富山(とみやま)(るい)は今年29歳の世界史の教師。学生時代の恩師に憧れ、自分も同じように生徒を導きたい、とこの道を目指した。思い通りに行くことの方が少ないが、自分にとって最高の仕事だ。
春、新入生達が制服に着られながらやってくる。入学式の日、緊張した面持ちで先輩に花を付けてもらう姿がなんとも初々しい。冨山は担任のクラスは無いので、手を引かれ華々しく飾られた体育館に入ってくる一年生を、壁際に立って見ている。
生徒会長の号令と共にガタッと音を揃え全員が着席する。
「えー、新入生の皆さん。新春の、希望溢れる季節です。誇り高き我が校は─」
──校長、話長いんだよな。
まあでも、流石にこの状況で寝るような新入生はいないだろう。
と、思っていたのだが。
目の前に、かなり袖の余っている制服に花を付けた黒髪の生徒が、こっくりこっくりと頭を揺らしていた。寄りにもよって一番前の席で。
──校長もちらちら見てるな。
冨山はそっと近づき、とんとんと軽くその生徒の膝を小突く。
「んにゃ?」
とろんとした目で不思議そうにこちらを見てくる漆黒の瞳。数秒見つめ合ってから、今の状況を思い出したのかハッとしたように目を見開く。段々と顔が赤くなっていき、掠れた声で言葉を絞り出した。
「…す、すみません…」
冨山はそれを見て身を引き、なんでもないかのように席に戻った。隣の席の数学教師、壊灰(かいはい)卯花(うはな)が何やら変な顔でこちらを見ていたが、何も見なかったことにする。

冨山が黒髪の生徒のことを初めて一個人と捉えたのは、一学期中間考査後のこと。
──授業は真面目に聞いている。むしろ態度は良い方だ。…なのに。
冨山は『鈍空(にびぞら)灯都(とうと)』と綺麗な字で書かれた答案用紙を前に、職員室の自机で頭を抱える。
──なんでこんな点数なんだ!
高校生活が始まり、まだ不安も残る中での試練、高校一年生の一学期中間考査。精神状態を気遣い比較的簡単に設定した。単語を覚えてさえいれば点数は取れる。当然平均点は高い。しかし答案に書かれているのはそれを大きく下回る47点。改めて見て、冨山は大きく溜息をつく。
「どーしたんですか累せんせ」
隣の席の眼鏡の位置を直しながら壊灰が覗き込んでくる。
「うっわぁそれあの黒髪ちゃん?やっばいね。今回の世界史めっちゃ簡単だったじゃん」
「どうして知ってる」
「暇だからね。解いた」
そう言えば他の教師から、壊灰は全学年全教科の考査問題を解いていると聞いたことがある。あれ、本当だったのか。
「そうそう、マジマジ。にしてもさ、なんで鈍空ちゃんそんなに世界史出来ないんだろうね。他の教科すごいのに」
「他はどうなんだ」
「えーっと」
壊灰は思い出すような仕草をする。
「数Ⅰは学年6位、数Aは5位、国語は9位、他も大方20位以内だったかな?」
冨山の心でますますどうしてだ!という気持ちが膨れる。
「嫌われてんじゃん?」
聞こえないことにする。

段々と周りの環境にも慣れ始めた5月。友達も出来たらしく、最初の固まった微妙な笑顔もほぐれ、今では晴れやかな笑みで駆け抜ける。そんな頃のお昼時。冨山は4時限目の二年生の授業を終え、道具を持って職員室へ向かう途中だった。渡り廊下を抜け、角を曲がろうとした時、小さい影が飛び出し、前面衝突。どうやら全力疾走していたらしい人影は、冨山の胸元に勢いそのままに飛び込んでしまう。不意打ちを食らった冨山は体制を崩し、二人とももつれるように倒れ込む。
「いてて…」
冨山の上に乗っかっている生徒は黒髪を揺らしながら頭を抑える。
「…鈍空」
呆れ十割、という声で下敷きになっている冨山が言う。
「とっ、とととと冨山先生!!!」
鈍空は自分が上に乗っていることに気づき、顔を真っ赤にして飛び起きる。
「廊下は走るな。危ないだろう」
「す、すみません…」
落ちた教材を拾って渡す鈍空。 目に見えて、しょーんとしょげた様子。
「…何をそんなに焦っていたんだ?」
「えっと…今日、お弁当忘れちゃって、気づいたのがついさっきで…購買に何か買いに行こうと…」
もじもじと言い訳するように語る鈍空。
「で、カレーパンがあるって…でも、美味しくて人気だからすぐ売り切れちゃうって聞いたから…」
確かに、購買のカレーパンは手作りらしく、類を見ない美味しさだと聞いた。冨山は食べたことがないが。
「まあ、気持ちは分かるが怪我をしては大変だ。廊下は走るな」
「すみません…」
鈍空のへこみ具合は見ているこちらが申し訳なくなる程だった。冨山は少しだけ罪悪感を覚え、フォローに入る。
「…まあ、ぶつかったのが俺でよかった」
あまりフォローになっていないが。
「うぅ…すみません…」
「買いに行くなら早く行かないと他のも無くなるぞ」
「あっはい!」
くるりと背を向ける鈍空に、ふと思い出したように冨山が言う。
「次の考査、平均点取らないと補習だからな」
うげっ、と潰れたような声は無視した。

そんな声掛けも虚しく、期末考査の点数は39点。
「あはは、サンキュー!…なんて」
笑えるような状況では無いことを悟ったのだろう、鈍空は真顔で冨山の顔からスッと視線を逸らす。
向かい合った机にそれぞれ座り、さながら生徒指導。時は夏休み、朝の誰もいない学校の一室でのこと。
「…勉強したのか」
「しっ、しました!ちゃんとしました!」
なんの説得力も無い弁明である。
「…どうして世界史が出来ないのか、何か心当たりとかは無いのか」
「横文字が…苦手で…覚えた側からぽんぽこぽんぽこ抜けてっちゃうんです…」
「その割には英語の成績はいいようだが?」
「英語は横文字とかそういう概念超えてますから」
キリッ!と言う鈍空。溜息をつく冨山。
「どうして世界史を選んだ?」
この学校では、日本史と世界史のどちらかを選ぶことが出来る。
「日本史は中学で散々やったから、やったことない世界史にしようかと…」
「…1577年10月」
信貴山城(しぎさんじょう)の戦い」
「GHQの正式名称」
「連合国軍最高司令官総司令部」
冨山は、いっそう大きく溜息を落とす。
「…弁当は持ってきたか」
「はい!」
「よし」
冨山はパチン!と自らの頬を張る。
「覚悟を決めておけ。特別補習、計六時間。始めるぞ」
ひぇ…と間の抜けた声が応える。

「もう無理。マジで無理。鬼。鬼畜。溶ける。無理」
ノートの上に乗せた頭から地を這うような声が漏れる。
「四時間経ちましたよ先生」
「あと二時間だな。頑張れ」
「無理ぃ……」
ぐだぁ…と溶けそうな鈍空。
「休憩にしましょうよ…ご飯食べましょご飯。お腹空きました。お腹空いてたら集中力も切れるってもんですよ先生」
ぐぅぅうとタイミング良く鈍空の腹が鳴る。ほのかに赤くなった顔はノートで隠れて見えない。
「ふむ」
まあ一理ある、と冨山は納得する。
「じゃあ俺は職員室に戻るから、30分経ったら…」
「え!?先生一緒に食べないんですか!?!?」
「ああ。昼食まだ買ってないし職員室で…」
「あっれーー!?おっかしいなー!!間違えてお弁当二つ作っちゃったー!こんなに食べられないなー!!食べてくれる人いないかなーー!?!?」
あからさま過ぎる誘いに、冨山は笑って応える。
「おっと、俺は昼食を忘れてしまったようだ。分けてくれる優しい人はいないものか」
「なんという奇縁!これぞ運命!ウィン・ウィンの関係!このお弁当を差し上げましょう!」
冨山の前に、割り箸が1膳乗った可愛らしいうさぎの包みの弁当が差し出される。
「ご協力感謝する」
「いえいえ困った時は助け合いってやつです」
そんな茶番をしつつ、二人は和気あいあいとした雰囲気で仲良く昼食を取った。

「さ、休憩は終わりだ。続きを始めよう」
「きっかり30分…鬼…」

冨山は、鈍空の解いた小テストを見ながら言う。
「…内容や流れを問う記述問題は出来ている。だが、やっぱり単語だな」
「ぐっ…なんで他国語を無理矢理日本語にしちゃうんですかね…」
「一々その国の言葉を学ぶつもりか?」
「どちらかと言うとそっちの方が…」
「…それは趣味でやれ」
まあ、悪くは無い。と冨山は小声で言葉を落とす。
「とりあえず、これで補習は終わりだ。六時間、よく頑張った」
「うゎぁぁい…」
ふにゃふにゃと机に突っ伏す鈍空。その頭にプリントを乗せる冨山。
「宿題だ」
「嘘でしょ…?」
鈍空はぶつぶつ文句を言いながらも、律儀に鞄にプリントを仕舞う。そして、その横に置いておいたもう一つの手提げから水着とタオルを出す。
「これから部活か」
「いえ、自主練です。大会が夏休み明けにあるので」
くるくると器用に手提げを丸め鞄に突っ込む。
「あ、先生これから暇だったりしません?タイム計ってくれる人が居なくて」
「悪いが、社会科見学の問い合わせをしなきゃいけないんだ」
「そうですか…」
「顧問の先生は?」
「今日は居ないです。好きに使っていいよーって言われました」
「…後で言っておく」
鈍空は荷物をまとめ、よいしょ、と持ち上げた。
「先生、もし暇になったら来てくださいね」
ああ、と冨山は教室を小走りで去っていく鈍空の後ろ姿を見送った。

──もう七時だ。
冨山は校内の見回りをしながら外を見る。もう薄ら暗くなっていて、すぐにも日は沈むだろう。昇降口の鍵を手の中で鳴らしながら歩く。
音楽室、体育館と順に見回りを終え、廊下で冨山はふと思う。
──まさか、いくら日が長いとはいえ、もう暗い。
少し不安に思い、屋上へ続く階段を上る。
変に頑丈な両開きの扉を開ける。
長い黒髪を風になびかせ、水に足をつけプールサイドに座り、夕闇の中伸びやかに歌声を響かせる彼女がいた。
少しだけ、見とれてしまった。
「あ…先生。いたんなら言ってください」
鈍空は少し頬を赤く染め、照れたように笑って言った。
冨山はまだ上の空。しかしすぐ意識を戻し、普段通りの声色で言う。
「もう七時だ。すぐに帰らないと暗くなる」
「えっ!?もう七時!?」
急がなきゃ、とわたわた帰り支度を始める鈍空。
「支度が終わったら言ってくれ。危ないし、駅まで一緒に行くから」
「分かりました!10分で戻ります」
ぺたぺたと更衣室に入っていく鈍空を、言い表せぬ気持ちで冨山は見送った。

「蒸し暑いですね」
学校から最寄り駅までの道のり。点々とした街灯の下を並んで歩く。
照れた二人の微妙な距離感。
ふう、と息をつき、パタパタと鈍空は服の胸元をつまんで動かす。濡れた髪がうなじに張りついていた。冨山は目を逸らした。
「部活に熱心なのはいいが」
頭一つ分下の存在に抱いた感情を後ろめたく感じる。
「遅くなりすぎるのは感心しないな」
ごめんなさい、と当の本人は何でもないようにいつも通りに笑う。
「夏休みはチャイムが鳴らないから気づかなくて…」
「…そもそも顧問がいないのがおかしい。生徒だけで使ってはいけないはずなんだが」
あはは…と困ったように鈍空は笑う。
「着いちゃった」
あっという間の特別な時間に、少し名残惜しそうな表情を作る。
そんな顔をするな。
「今日はありがとうございました」
ぺこり、と頭を下げ、鈍空は冨山と反対方向のホームへ進んでいった。冨山はそれを見送り、くるりと踵を返した。

「そろそろ体育祭ね」
10月、交換留学生として、一ヶ月だけ二人の生徒が学校に来た。一年生の双子、ライジー・グリーブとクロス・グリーブ。ライジー、もとい姉のリジーは持ち前のコミュニケーション能力でクラス内の友達を沢山作ったが、対して弟は引っ込み思案で話しかけられず教室の隅で佇んでいた。そこに明るく話しかけたのが、鈍空の幼馴染でクラスメイトである紺野(こんの)(つよし)
「なあなあなあ!今日の放課後暇か!?暇なら俺の部活来てくれよ!あ、俺は紺野!お前はクロスだよな!よろしく!」
あ、待って日本語出来んの?と、間の抜けた一言に、緊張していたクロスの面持が緩んだ。
それから一週間が経ち、クロスは毎日のように紺野のいる合気道部に通いつめ、リジーは女子達と可愛らしく会話を楽しんでいた。
そんなある日の授業前。
その日最後の授業は世界史。早めに教室に来て板書をしていた冨山の近くで、リジーと鈍空が二人で話していた。
「はぁ、灯都の髪と目はほんとに綺麗。真っ黒でキラキラしてる」
「そ、そんなことないよ、リジーの赤毛の方がすごい綺麗」
「あらありがとう。灯都は肌も綺麗だわ。羨ましい」
「そんな、白くないの、悩んでるんだよ…」
「健康的でいいじゃない!気にすることないわ」
「ありがとう…リジーは日本語上手だよね」
「ええ、フィアンセが日本人だから、彼のために勉強したの」
軽々しくリジーの口から発せられた単語に、鈍空は一拍遅れて驚いた。
「ふぃ、ふぃあんせ!?」
「そう。…なにか変かな?」
「だ、だってまだ高校生だよ…!?」
「私の母国じゃ普通にあったけど…いや、家柄?」
鈍空はぱくぱくと口を動かしている。
「ねーえ、灯都はいないの?」
「は!?いるわけない!!」
「じゃあ彼氏」
「ゔっ………欲しい」
「えー、こんな可愛いのに。好きな人は?」
「…………」
鈍空は明後日を見ながら小声で言った。
「い、いる、よ…………」
顔を真っ赤にして俯く鈍空。かわいー!と抱きつくリジー。
そこに響くチャイムの音。
「…鈍空。ライジー。授業が始まるから早く席に戻りなさい」
「ひょあっ、ひゃい!」
会話を聞かれていたことに顔を真っ赤にして教室の一番後ろまでダッシュする鈍空。
かーわいー、とおもむろに歩くリジー。チラリと冨山を見て、意味ありげに笑う。
──…年頃の女子はなんとも。
会話の内容は別として、掴みづらいところがなぁ…と思った冨山は、自分が相当に歳をとった気がした。そんなことは無い。断じて。

いつものように廊下を爆走する鈍空。いつものように注意する冨山。いつもと違うのは、すれ違った拍子にポニーテールにしてた鈍空の髪が、冨山の袖のボタンに引っかかってしまったこと。
痛っ、と物理的に後ろ髪を引かれた鈍空の背に、冨山は慌てて腕を回す。
「動かないでくれ」
流れるような綺麗な黒髪を、傷つけないよう柔らかな手つきで外す。
「外れたぞ。廊下は走るな」
「あっごめんなさい」
鈍空は乱れた髪を直そうとして、ふと手を止めた。
「む、結んでほしいなー…なんちゃって」
可愛らしく首をこてんと傾げて言う鈍空に、仕方ないな、冨山は答えた。
後ろ髪をきつくひとつに結ばれた鈍空は、何やら少し不機嫌そう。
「…もうちょっと可愛いのがいいです」
そう言われても、女子の髪を結うなんてあまり機会のあるものでも無いし…そう思いながらも、冨山は器用な手さばきで三つ編みを作る。サイドの髪を持ってきて…と何やら本格的なアレンジである。
黙々と髪を結う冨山とは対照的に、鈍空はうなじも耳も真っ赤にして胸を抑えている。
「これでいいか」
恐る恐る髪を触り、すごい!と目を輝かせる。
「先生器用なんですね!」
「まあ、こういうのは嫌いではないな」
ありがとうございます、とまた走り出そうとして、髪が崩れるのを恐れたのか、鈍空はゆっくりと歩き出した。
その日、珍しく部活を休んだ鈍空は、家の姿見の前で満足げな笑みを浮かべくるくると回っていた。

秋も深まる10月の半ば、いよいよ生徒にとっての一大イベントがやってきた。
「いい空だ!全身全霊、精力尽くして最後まで戦い抜け!」
晴天の下、体育委員会顧問の飴川(あめかわ)凛子(りんこ)の聞き取りやすいよく響く声で体育祭は始められた。
各学年の徒競走で、赤いはちまきをなびかせ全力ダッシュする紺野と、同じくひらめかせ一生懸命に走る鈍空。プログラム二つ目は選抜の騎馬戦。前列で特攻する紺野とクロスの騎馬。善戦するも呆気なく落とされてしまう。
「あーーー!やられたー!」
「あはは、お疲れー。バカみたいに突っ込むからだよ」
鈍空は座席に帰ってきた紺野に笑いかける。ムキになって反論する紺野。仲の良い口論の最中、ライジーが鈍空に言う。
「ねえ灯都。もう行かなきゃじゃない?」
「あっやばっ!」
ぱたぱたと校舎に走っていく鈍空。
その頃、体育祭本部であるテントの下では。
「やっぱり体育祭は楽しいな。見ていて気持ちがいい」
マイクを前に足を組んで座っている飴川が心底楽しそうに言う。
「…この季節はいつも活き活きしてるから嫌でも分かる」
隣には残暑に茹だった様子の冨山。
「良いじゃないか。一生懸命な生徒を見てるとなんだかこっちまで頑張ろうって気になる」
お、と飴川は身を乗り出す。
「うちの部活の発表だ」
軽快な音楽と歓声の中、目も当てられないほどに短いスカートにキラキラとしたポンポンを持ったポニーテールの女子達が入場する。チアダンス部だ。
その列の一番左端に、少し恥じたような様子の、ポニーテールの鈍空がいた。
「…鈍空は水泳部じゃなかったか?」
「ああ。一昨日チア部の1年が一人骨折してな、代わりに出てもらった。中々筋が良くてな、引き抜きたいくらいだよ」
三日しか練習していないとは思えない様に、周りとぴったりの動きで踊る。冨山は頬杖をつきながらそれをじっと見ている。
「……」
チアダンス部が退場し終わると同時に、飴川は勢いよく立ち上がる。
「全校男子諸君!一年に一度の見せ場がやってきた!大和魂を見せてやれ!」
それまで座席に座っていた男子が一気に立ち上がり、うおお!!と拳を突き上げる。
「始まった…地獄の金次郎玉入れ…」
誰かが独りごちた。
毎年体育祭恒例の金次郎玉入れとは、体育会系数学教師である壊灰が籠を背負い、全校の男子がボールをひとつずつ持ち、それを籠に入れるというものである。普通の玉入れと違うのは、籠が縦横無尽に動き回ること。ボールを手から離した時点で参加資格は無くなるので、避けられたら大人しく引き下がるしかない。ところが、壊灰は持ち前の直感と運動神経で一度たりともボールを入れられたことは無い。直前で避ける、二段蹴りで弾き返す、など。
眼鏡を外し、ジャージ姿に髪を結った本気モードで、壊灰は校庭の真ん中で仁王立ちしている。
ピーー!と、飴川の吹いた笛を皮切りに、男子生徒は襲いかかる。それを軽々と飛び越え、ボールを弾き、背後に迫った玉を避ける。
「はは、今年も連勝記録は更新かな」
ボールを失い手持ち無沙汰になった生徒がはけ、残ったのは数名。
うらあああ!!!と叫びながら突撃するクロス。瞬殺される。その隙を突こうとしたほかの男子も一瞬でボールを奪われる。
「仇は取る!!」
結果として、持ち前のガッツと運動神経で紺野が飛びかかり、あっさりと投げ飛ばされて玉入れは終わった。
鼻に絆創膏を貼った紺野が座席に戻ると、英雄の凱旋のようにクラスが沸き立った。あれよあれよと胴上げをされ、やっと落ち着いた頃、紺野がちらちらと気にしているのは敵陣営である白組、他クラスの姫カットの大和撫子。生憎、その子は興味のないように隣の女子と談笑していたが。
その後、和太鼓部による渾身のソーラン節があり、部活動対抗リレーがあり─水泳部と合気道部は人数が足りず不参加だったが─いよいよ体育祭も終盤まで来ていた。
「さて、次の競技は飛脚競走!くじに書いてある相手を見つけて、運ぶか運んで貰うかしてゴールしてくれ!!」
慣れている三年生から順にスタートし、置いてある紙に書いてあるお題に合う相手を見つけていく。
「ちなみに、相手が生徒だけとは限らんからな」
ある男子生徒は『筋肉のある教師』というお題を引き、外国人教師の筋肉に包まれながらゴールした。魂の抜けたような顔で。
紺野は『女性教員』という紙を引き、壊灰にお姫様抱っこされてゴールした。
「意中のあの子じゃなくてごめんね〜」
「あっ…ウス…」
ライジーは『家族』を引き、クロスにおぶわれてゴール。
一番最後の鈍空は紙を開き、困惑したような表情で、本部で座っている飴川と冨山を見た。
「お、どうやらスペシャルカードを引いたようだな」
「なんだそれは?」
「私が相手を決める」
そんなもん入れたのか…という顔の冨山に、飴川は妙案だ!という面持ちで言う。
「よし、行ってこい!」
「は?俺が?」
「ほら、委員会顧問の命令だ。ほらほら」
しぶしぶ冨山は立ち上がり、困惑と照れが混ざったように顔を赤くする鈍空に近づいていく。
「え、せ、先生?」
「俺じゃ嫌だったか?」
にや、と冨山は笑う。
「そ、そんなこと…うひゃあっ!」
焦って弁明する鈍空を抱き上げる。
客席、生徒座席からは歓声が上がる。
堂々ゴールした頃には、鈍空は顔を覆って茹でダコのようになっていた。
こうして、怒涛の体育祭は幕を閉じた。これから鈍空は冨山のことでからかわれ続けることになる。

「リジー帰っちゃうの寂しい…」
「1ヶ月だけだからね、仕方ないわ。また会いに来るから、その時は遊んでね」
「当たり前だよ!いっぱい電話するから!」
「豪、1ヶ月ありがとう」
「あー…おう。なんか、寂しいな…」
「…僕も」
切ない別れの時間だった。

さて、楽しくも恥ずかしい体育祭を乗り越えた鈍空に襲いかかる試練は期末考査。中間考査は六時間補習の成果もあり、平均こそ下回るものの、ぐっと点数は伸びていた。しかし、ここで一学期同様の点数を取ってしまってはまた補習になってしまう。今回ばかりは甘んじえ受け入れる訳にはいかない。鈍空は冬休みに大会を控えている。一年も終わりのその大会は、夏とはキッパリ気持ちを入れ替えて望まなければ。
その結果は。
「…先生っ!この前の!テスト!結果!教えて!」
廊下で見かけた冨山にいつかのように全力で突進する鈍空。キキーっ!と直前で急ブレーキをかける。
「…危ないから走るな。何回言えばいい」
「それはわかったから!点数!補習!」
息も絶え絶えに畳み掛ける鈍空。
「……残念だが」
その言葉を聴き、ヒョッと身体を震わせる。そんな様子を見て、声を上げて笑う冨山。
「冗談だ。中々いい成績だった。頑張ったな」
一瞬ぽけ、とした顔をして、満面の笑みを浮かべる鈍空。表情がころころ変わって見ていて面白い。
「もうっ!先生、からかわないでください!」
良かったぁ…と心底安堵した様子。微笑む冨山。
「まあこれで補習は無いな。三学期になっても同じ成績だといいんだが」
「そこはまぁ、頑張ります」
鈍空ー、と曲がり角の先から飴川に声をかけられ、そちらに走っていく鈍空。冨山もまた背を向けた。

年も明け、運命の定期考査も無事乗り越え、待っていたのは、年頃の恋する乙女なら誰もが頭を悩ませる桜色のイベント。
そう、バレンタインデーである。
誰もが朝から色めきたっている中、一人だけ少しリラックスしたような鈍空。
「…本番は夕方、本番は夕方、本番は夕方…」
無理に平常心を保っているだけだった。
放課後、渡せたり、渡せなかったり、貰えたり、貰えなかったり、数々の表情が歩いていく。
何故か学校の敷地内にある市の温水プールでは、いつものように練習をしている──ように見える、鈍空がいた。
いつもは時計など見ずに冨山に追い立てられてしぶしぶ練習を終えるのだが、この日はしきりに時間を気にして、いつもよりも30分も早く練習を切り上げ、着替えもばっちりの状態で体育座りをしていた。
「……」
ガラス越しの夕日で光る水面を見つめ、プールサイドで微動だにしない鈍空。
段々暗くなった頃、カツカツという聞きなれた足音が鈍空の耳に届いた。
ばっ!と立ち上がり、またゆっくりと腰を下ろす。
「…鈍空?何やってんだ」
「はっ!」
見られた!恥ずかしい!でもそれどころじゃない!大事な使命がある!…と心の中で暴れる。
「せ、先生!今日は何の日か知ってますか!?」
声が裏返ったァァァ!!!内心大慌てな様子。
「今日?なんだ…?…あ、仏滅?」
「バ・レ・ンタインですよ!!」
「ああ…だから女子が」
「先生!これあげます!じゃあ帰ります!ありがとうございました!」
後ろ手に隠していた包みを冨山の胸元に押し付け、ものすごいスピードで逃げ去っていく鈍空。あまりに鮮やかな一瞬の犯行に取り残される冨山。可愛らしい紫色の包みを少し開けて覗けば、少し歪な、ハート型のマドレーヌが二つ入っていた。
なんとも愛らしい通り魔に、冨山は頬を緩めた。

対になるは3月14日。ホワイトデー。
「πの日だよ」
そんな謎の文句と共に、数学教師は自作の小さめのチョコパイを配る。冨山は、授業の合間の空腹満たしにそれを頬張りながら、机の横にかかっている青い小さな紙袋を流し見た。
相応のお返しを、と慣れないデパートのスイーツコーナーを3時間歩き回ってやっと選んだお菓子。ラングドシャとクッキーの詰め合わせ。女性に、それも女子高生に送るには少し寂しいパッケージだが、それはまあ、冨山の頑張りに免じるしかない。
──少し緊張する。
そんなことも露知らず、呑気にプールで泳いでいる鈍空。どうやらホワイトデーのことを忘れているらしい。
いつものようにプールから追い立て、着替え終わり出てきた鈍空に、冨山は持っていた紙袋を手渡す。美味しかった、と文句を添えて。
なんの返答も無いので、逸らしていた視線を顔に持っていけば、そこには、口を少し開け、心底驚いたようで、しかしどこか嬉しそうな表情があった。逆光で陰った顔でも、耳の端まで赤かった。
訳も分からないくらい心臓が酷く傷んだ。首元まで動悸が伝わった。信じられないほど綺麗に見えた。
「…あ、ありがとうございます」
ぱっと俯いたその下から、掠れた声が漏れた。
「…ああ」
目を逸らしあった二人を、傾く夕日が照らした。

開いたドアの間から黒髪の少女が降りる。心なしか足取りは軽やか。鞄の中に大事そうに仕舞った青いプレゼントとその送り主を想って、にへっと笑う。段々と人通りも街灯も少なくなっていく。いつもと同じ道なのに、なんだか少し怖くなって、小走りでアパートへ向かう。暗闇の路地裏から、四本の腕が伸びて、華奢な身体を思い切り引いた。
幸せだったその夜、誰もいない真っ暗なアパートの一室で、細く胸を締められるような嗚咽が静かに落ちた。
鈍空に、誰にも言えない秘密が出来た。

冨山は悩んでいた。
──鈍空が学校に来なくなって、1週間以上経つ。自分は何かやらかしてしまったのだろうか。
──まさか、お返しを渡されたのが気持ち悪かったとか…年頃だから…有り得るかもしれない…。
いや、まあ、それは置いといたとして、こんなに長い間休むとは、クラス内で何かがあったのだろうか。はたまた家庭の事情か。
──何にせよ、心配だ。
「なんで?いや、知らないです。前の日まで普通だったし…」
ねー、と女子生徒はそばの友人と顔を見合わせる。
やっぱり何かあったのだろうか…と人知れず不安を募らせていたとき、ふらりと思い出したように鈍空は学校に来た。
その顔色は悪く、足取りは不確か。
すれ違ったその横顔に、えも言われぬ焦燥感を覚え、冨山は声をかけた。
「何かあったのか」
鈍空はゆっくりと顔を上げ、どこか遠くから焦点を合わせたように、諦観の微笑を浮かべて言った。
「…なんでもないですよ」
ぺこり、と頭を下げて鈍空は背を翻した。
──本人がこういうなら、追求する訳にもいかない。
立場が教員である以上、一人の生徒に入れ込んではいけない。
冨山は不安感を押し込めて歩みを進めた。

結局、来たのはこの一日だけで、終業式も『体調不良』で欠席。こうして二人は一年を終えた。

春休みも終わり、久しぶりに見た鈍空はすっかり元に戻ったかのように見えた。まるで前のことなんて勘違いだったような。
友人と笑いあって、授業を真面目に聞いて、部活にも一生懸命で。声をかければ笑い返してくれる。それでも以前と違うのは、一年の時みたいにに一人で遅くまで残って泳いでいることが無くなったこと。自主練はしているが、以前のように見回りの教員に注意されて帰るようなことは無くなった。
なんだか調子が狂う、という冨山の思いは変わることなく、あっという間に時間は過ぎていった。
夏が来た。鈍空は早い時間に来て練習をしているようで、朝廊下で会うと髪が濡れている。
それでも、ふと一人でいる時に見せる、暗く落ちたような表情に、どこか歯車が噛み合わない気持ちになる冨山。
もやもやとした気持ち悪さを抱えたまま、夏休みは始まった。
「…あ、おはようございます」
学校の最寄りの駅の改札で、冨山と鈍空はばったり出会った。
「今日も部活か?」
「はい、自主練です。先輩は引退しちゃうし、一年生はあんまりやる気ないし、同級生はいつの間にか幽霊部員になってるし…」
「じゃあ鈍空が部長か」
「…多分…あんまり気乗りはしないんですけど…」
自然に二人で並んで歩いていることに気づいた鈍空が言った。
「なんか、先生とこうやって話すの久しぶりですね」
「ああ…」
確かにな、と後半は心の中。
話題の無い無言の空間が続く。蝉の声と、歩く音だけが響いていた。
「…そういえば、最近は帰るのが早いらしいな。壊灰先生が言っていた」
鈍空はその言葉にくしゃ、と顔を歪めた。
泣きそうに。
「…怒られたくないですからね。早く帰らないと。ほら、内申とか」
困ったように冨山に笑いかけるその顔は普段と変わらなかった。
学校に着き、玄関で別れ、冨山は職員室に、鈍空は屋上へ向かった。
きっとなんでもなかったのに。

なんで、って言われても、特に理由なんてなかった。
普段なら絶対にしない事だし、そもそも思いつきだってしなかった。
でも、きっと…ちょっとだけ、疲れちゃってたので。
いつもより、きらきら光る水面が綺麗に見えたので。
上げていた髪を解いて。
鼻歌を歌いながら。
ゆっくりと。
ちゃぽん、と頭の上まで水の中に入る。
浮かぶ気なんて、もう無いよ。

いつもと、去年と同じように、学校を出る前に見回りをする。
ちょっとだけ期待をして。
外はもう茜色。それさえじわじわと侵されている。
いつもと同じ道を歩いて、いつもと同じ場所を通って、いつもと同じ扉の前。
扉に手をかける寸前、どこかに違和感を覚えたが、思い当たらなかったので、そのまま扉を大きく開けた。
一人で使うには大きすぎるプールの真ん中に、何かが浮いている。
それは、陽で赤く染まった水着姿。
「──に、」
一歩踏み出すと、水際全体から、仄かな光を灯すたくさんの蛍が、一気に、一番星輝く上空に吸い込まれていった。
─まるで。
「──鈍空っ!」
夢のように消えた蛍など気にもせず、冨山はプールに向かう。
「おい、鈍空、返事しろ!おい!」
スーツにまとわりつく水をかき分けながら中心まで進む。跳ねた水が容赦なく顔にかかる。短い距離が嫌に長く感じられた。
「鈍空!」
悲鳴のように声をあげて、冨山は水を吸った袖を持ち上げながら目の固く閉じられたそれを抱きかかえる。ずしり、とひと一人分の重さが腕にかかる。
動かない。
くそ、と悪態をつきながら抱きしめる手に力を込めてプールサイドに進んでいく。
早く、早くと思うのに足を水が強く引く。
滴る水が、何なのかも分からない。
どうにか抜け出し、横たわらせる。
「…鈍空」
肩を叩いて呼びかけるが、返事すら、動きすらしない。
耳鳴りが煩わしい。
頭の隅に残しておいた救命措置を無理矢理引っ張り出す。
─顎を、持ち上げて、鼻を塞いで。
どうか、と目をきつく閉じ、祈りながら、唇を重ねた。
今、頬を伝うこれは、涙だ。
目を伏せたまま上体を起こす。
動かない。
滲んだ視界を乱暴にこすって、キッ、と眉根を寄せた。
やるべき事がある。
ぐらつく頭を抑えてプール入口にかかっている内線を取る。
なんだか記憶が曖昧で、自分が何を言ったのかも思い出せないが、血相を変えた壊灰が扉をぶち壊しながら駆け込んで来た時、心底安心したのを覚えている。
まず壊灰は救急車を呼び、顔を歪めながら鈍空の身体を見た。そして自身のジャケットをかけ、膝をついて手を合わせた。パッ、と身を翻して冨山に向き合い、腕を掴んで無理に立たせ、同階の待機室のベンチに座らせた。
「情けない顔どうにかしなよ」
にや、と笑いながら壊灰は冨山の顔にタオルを投げつけた。
「私に任せて、帰んなよ。今の状態じゃ何もできないでしょ」
はいジャージ、と紙袋を投げる。
なんで、と微かに冨山の口が動く。
「その格好で帰る気?」
色の変わったびしょ濡れのスーツ。
「誰か付けようか」
いや、と冨山は頭を振った。
ん、と満足げに言って、壊灰は扉の向こうに消えた。
冨山は、手に持つタオルに顔を埋め、息を吐いた。

案内されて通ったのはどこか空気の冷たい、仄暗い安置室。
「不思議なことです」
隣の警官が言う。
「普通、水死体って沈むんです。肺に水が入るから。でも、浮いてたんですよね…不思議です」
警官は首を傾げた。
冨山は無表情で寝かされた死体を見る。
「奥さん!」
ドアの向こうからバタバタといういくつかの足音と叫ぶ声が聞こえる。
二人が振り返ると同時に勢いよく扉が開いた。
「─あなたが!」
知らない女性が真っ赤な目を見開きながら冨山の胸ぐらを飛び込むように掴んだ。
「あなたが、いたのに!どうしてあの子は、あの子が、気づいてあげられなかったの!」
泣いているように嘔吐きながら喉を震わせ、それでも叫ぶ。
冨山はどこか他人事のように抵抗もせず受け止めながら、見覚えのある目元と、白の混じった美しかったであろう黒髪を見て、この女性が『彼女』の母親であることを知った。
もはや何を言っているのかも分からないまま、母親は冨山の頬を張った。
「奥さん、お母さん!落ち着いてください!」
二人の警官に抑え込まれ、母親は大粒の涙を流しながら言う。
「あなたなら、あの子を、灯都を、助けてあげられたのに」
警官に引きずられ、母親は部屋を出た。抱えている警官のひとりがちらりと冨山を見て、そして、バタンと閉じる音がした。
あるのは一人分の呼吸だけ。
冨山はゆっくりと台に近づき、頭のあたりで止まった。
布はかかっていなかった。
おもむろに、その閉じた瞼を指先でなぞる。
身じろぎすらしない事実が胸を締める。
眠っているだけに見えるのに。
「長い居眠りだな」
幻聴すら聞こえない。
泣かないよ。
俺は教師だから。

女子生徒のすすり泣きと読経の声だけが響く。灰色の空だった。教師陣は斜め下を見たまま動かない。
最後の挨拶を、と言われ、生徒が順に席を立つ。わあっ、と誰かがいっそう泣き出した。それを誰かがなだめて、つられて泣き出した。飴川はハンカチをありったけの力で握りしめ、壊灰は涙も拭わずに手を合わせた。冨山は無表情で顔を見て、一例しただけだった。
鈍空と仲の良かった女子生徒は、冷たい、と思った。
鈍空の母親は虚ろな目をしていた。
気分が悪い、と冨山は通夜振る舞いの前に帰った。
誰も引き留めはしなかった。

ガン、と冨山は右腕をアパートの壁に打ち付ける。くそ、と悪態をつきながらボサボサに乱れた髪を更に掻き乱す。
頭に巡るのは、瞼に張り付いて消えない安らかな顔。
──なにも。
なにも出来てやしなかった。
なにか、出来たはずだろう。
強く、強く壁に頭を打ち付ける。痛みなんて、そんなの、比べたら微々たるものだ。
どうして、なにもしなかった。
どうしてあそこで信じたんだ、あの言葉を。
ただの痩せ我慢だって、心のどこかで感じていただろう。
馬鹿か、お前は。
なにを見てきたんだ。
なんのために居たんだよ。
また、頭を打ち付ける。僅かに血が滲む。
「…ごめん」
俺は教師だから。
絶対に、死ぬまで。
だから、だから今日だけ。
今だけは。
好きだった自分で。
ぼろぼろと大粒の涙が床に落ちる。殺した嗚咽も。
あの子がひとりで抱えて仕舞い込んだ、悲しい秘密と言葉のように。

翌日。冨山は平然とした顔で学校に居た。いつものように授業をして、いつものように準備をして、いつものように、何も変わらずにそこに居た。
「…酷い。あんなに灯都と仲良かったのに」
「冨山先生は冷たいよ」
「信じられない」
女子生徒の声が耳に届く。しかし、その言葉を聞いても冨山は表情を変えずにいつも通りのことをするだけだった。
授業が無い時は、一箱の煙草とライターだけを持ち喫煙所に行く。古びたベンチに腰をかけ、息苦しい様な顔をして、どこでもない場所を見ながら、ぼんやりと煙を吐き出し、飲み込む。それは通常ではありえない頻度で、身体を壊してしまうであろうことは明白だった。
それを、他の教師達は何も言わず、何も言えずに見ていたのだった。

自分のせいではないと分かっている。でも、助けてあげることが出来たのも、事実だ。
煙草なんて吸ったことは無かった。むしゃくしゃして、耐えられなくて、葬式の日の帰りにコンビニで買った。
初めてのその害悪は、酷く苦くて苦しかった。その辛さが身に染みて、なんだかぴったりだったのだ。
窓の桟から半身出して、煙と一緒に後悔を吐く。吐けば吐くほど募る後悔だ。
警鐘を鳴らす心臓を無視して見上げた灰色の空に、吐かれた煙は汚く滲んで溶けた。

重苦しい鉛の空の透ける影の下で目を覚ました。頭が酷く傷んで、心臓が苦しく締め上がった。
何かを持って今この場所にいる。
何かを想って今この場所にいる。
誰かを探している。
悲しい気持ちとは一度おさらばだ、しばらく底で眠っていてもらおう。
ぼろぼろに汚れた赤いセーラー服の裾をはたき、流れる涙を乱暴に拭って森の中から一歩を踏み出す。
いつか会えるさ、それまで、気長に待っていよう。
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