文字数 3,208文字

初夏、若々しい緑が窓の外を過ぎ去っていく。山の隙間から空が見え、また木々に溶け込むように消える。
風が吹く。私たちは電車に乗っている。
他に人影は見当たらない。真正面の四角の向こうを景色は過ぎる。
ぱ、と視界が闇に変わる。トンネルの中に入ったらしい。反響した音がごうごうと鳴っている。途中、がん、と何かがぶつかったように、窓の奥で影が流れた。こうもりか何かだろうか。
トンネルを抜けた。急な光に目が眩んだ。
「見て、海だよ!」
隣にいた同じ顔の人間が、こちらを向いて無邪気に笑う。その笑顔に、ほんの少しの違和感が胸に浮かぶ。
視界いっぱいに青が広がった。あってないようなガラス越しに、どこまでも続く青がいた。
瞳を刺す白い光に、刹那目を奪われ、何故だか耐えきれなくなって、俯いた。
ふと、やけに小さな己のてのひらが視界に入る。
そうして私はようやく、夢を見ていることに気がついた。
海は綺麗だった。潮っ気のある風がぱちぱちと肌に当たって、傷をつけては去っていく。
素足を波が攫った。窓枠はなく、眼前には広くて深い青色と、どこまでも続く水平線だけがあった。
電車は見当たらなかった。降りた覚えもなかった。
ざざん、と波が鳴いている。寄せては返し、私の体温を盗んで、空との境の向こうへと帰っていく。
美しい風景だった。ただ脳はそう認識した。けれど心は、何処かに置いていかれているような感覚がした。
あ、と隣に立つ他人が声を上げた。視線の先には、青の隙間に見え隠れする靴があった。名残惜しそうに幼い彼は手を伸ばす。私は何も履いていない自身の足を見下ろし、彼に言った。
「あってないようなものだろう」
「だけど、だいじなものだよ」
彼は聞く耳を持たず、またこちらを一瞥もしなかった。私と同じ空色の瞳が、何処か遠くを見ている。彼が見ているものを、きっと私が知ることはない。
「傷つかないために必要だ」
彼はそう言って海の方へ歩き出した。水面は穏やかに凪いでいて、いくら踏まれても素知らぬ顔で波紋も浮かべず、ただきらきらと輝いていた。
慌てて私は後に続いた。一歩進むたび、何も履かない踵に棘のような感覚が伝った。彼はずっと先にいた。私の足では到底追いつかなかった。
やり切れない気持ちになって、私は声の限りに叫んだ。
「どうして先を行くんだ、初めは同じ場所に立っていただろう!」
小さな彼は海に空いた穴に飛び込んだ。音もなかった。とうに背は見えなくなっていた。やっとそこに辿り着いた私は、手を伸ばして、彼を追うように真っ暗闇の穴へと脚を踏み出した。
宙を掻いていた指先が、白いシャツの数センチ前を泳いだ。どこかに立っていた。目の前にはひとつ、無愛想な机と、それに向かって何かを書きつける同じ背中があった。
「創作というのは、ものをつくることだろう?」
いつの間にか大きくなった背はそう語る。寸分違わず同じ喉から発せられるはずなのに、どうしてか、彼の声はいつだって優しげな色を含んでいた。
「それ以上の意味があると思うんだ。どんなものだって、何もないところからは生まれない。心のどこかに巣食った何かが生み出すんだよ」
そうだ。
他人の想いを、自身の想いを形作ること。
彼はそれを、『想作』と呼んでいた。
私にとっては苦痛でしかなかった。命を削るものだった。何かを生み出そうと足掻いて足掻いて、その度に私の身体からは何かが剥がれ、ぼろぼろとそれが落ちていく痛みに耐えながら筆を持ち、綴り、書きつける。ようやく出来たそれを見れば、目を当てられないほどに歪な形をしている。違う、違うと、心に描いていたのはこんなものじゃないと、そう吠えてはすべてを壊す。私にとってはそういうものだった。
「そうじゃないよ。きっと、真実きれいな創作物なんてこの世には存在しない。必ずどこかに隠したい歪みがあるものだ」
黒髪を揺らし、同じ顔の彼は振り向いた。
「お前から生まれるものすべてが、『想作』なんだよ」
同じ顔の彼は言った。私と同じ声で言った。同じ背格好で言った。同じ瞳で言った。
それなのにどうして、その表情だけが違うのか。
途端に、己がいやに惨めに感じられた。
「どうして、どうしてそう思える。そんな顔で笑える!俺とお前は同じだろう、同じ場所で生まれ同じ脳を持つんだろうが。それならなれるはずだろう、俺だって、お前のように、お前に!なのにどうして、こんなにも、見ているものが違うんだ」
脚から力が抜けて、しゃがみこむ。顔を上げられず俯く。けれど彼が、どんな顔で話しているのか、こちらを見つめているのか分かった。
彼は静かに、私の言葉に応えた。
「俺たちは同じじゃない、違う人間だ。生まれた場所が一緒でも、生きていく道は違うんだ」
諭すように、語るように、淡々と。
「ここから先は、ひとりで行くんだよ」
彼の声が蜃気楼のように揺らいだ。ハッとしたように顔を上げる。彼の姿はもう、なかった。
突然、これは夢なんだと思い出した。そうだろう、私が彼に、胸の内に隠した泥のような塊を、ああして叫んだことなどなかったし、彼がその溶けた思いに、ああして返してくれたこともなかった。
夢は深層心理だという。ならばこれは私の中から生まれたものなのか。彼の言葉がずっと脳裏に反響している。俺たちは同じじゃない。生きていく道は違う。ひとりで行かなければならない。真実きれいな創作物なんてない。必ずどこかに歪みがあるもの。あれらは、私から生まれたものなのか。
だとすれば、私は最初から知っていたのだ。
彼の代わりのように、目の前には扉があった。簡素な扉だった。それはとてつもなく恐ろしいものに思えた。視線を向けるだけで心臓がひどく鳴った。この先へ行くなんて無理だと思った。
彼の姿がないことは、こんなにも恐ろしかったのか。
永遠にここにいたい。ここで止まっていたい。ここで何もかも知らないふりをして生きていたい。
だらりと首を下げて、地についた、節くれだった手を見下ろす。この手で掴んだものなどひとつもなかったのだと空虚な声が告げる。それは辺りに響いて余韻を残す。その通りだ、だからそれでいいじゃないか。ここまで来れたのだから。一体、どこへ行こうと言うのか。ここでずっと、てのひらに残った中身のない殻にしがみついていればいいじゃないか。花の育った後の抜け殻。漂う虫は虚構の蕾に寄せられて、鱗粉すらも残さない。
ひらり、と。
視界の端で蝶が舞った。すぐにそちらに顔をやったが、しかしどこにも見つからなかった。
見間違いかもしれなかった。そんなものは初めからいないのかもしれなかった。それでも私は信じることにした。あの美しい、黄金色の蝶の存在を。
私は彼になれなかったのだから。
ドアノブに手をかける。軽く沈む。そのまま向こう側へと押す。
きちんと前を見据える。今度こそ、眩むことのないように。
扉が開いた。私は先へ進みだした。
ふわり、重力が一瞬だけ消えた。わずかに浮いたつま先は、音もなく地についた。
それは果たして、地といっていいものか。
透明だった。何もかもが透き通っていた。空も地も果てはない。ただ視界いっぱいに美しい青空と、それを映す鏡のような地面があった。それは、ひどく幻想的な光景だった。
少し離れた場所に、白い椅子が置かれていた。何かに引かれるように私はそちらへ歩いていった。
歩くたびに、透明なそこに波紋が浮かぶ。生まれて、揺れて、広がって、重なって、ずっと遠くへ。私の軌跡が残っている。
椅子の上には本があった。白く塗られた木に溶け込むような、真っ白な本。表紙には何も書いていない。何もない。けれどそれが何か分かった。私には分かった。
風が吹いた。髪に刻まれた空色が束の間、目を覆った。ページがはためいていた。恐る恐る指先を伸ばす。喉が張り付いている。風は止まない。心臓が鳴っている。ようやく手が触れる。視界がぐっと広がって、世界が美しく光を纏い始める。きらきらと輝く。その光景に、私は
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