その赤の意味は

文字数 10,516文字

人生初のデートをする。
相手は自分が勤めている図書館の同僚。
お互いそれ以上の関わりはない。
向こうはデートとすら思っていないかもしれない。
でも、自慢させてほしい。
人生で初めての、デートをする。

平日の真っ昼間、閑散とした市立図書館に届いた新しい本を書庫へ運ぶ男性がいる。名前は兎木(うさぎ)祐一(ゆういち)。司書をしている。二つ重ねたダンボールを抱え、広い図書館の廊下を歩いていた祐一は、掲示板の前で足を止めた。貼ってあるポスターのひとつ、『気持ち悪くてぷにぷにしてる生き物展』。真ん中に大きく、見たことの無い生き物がデフォルメで描かれている。
──ちょっと気になる。嘘言った。結構気になる。
特に、自分で気持ち悪いって言い切ってるところが。
場所と開催期間を探していると、後ろから軽い足音が聞こえてきた。
振り返れば、空のダンボール箱をひとつ、両手で抱え、小走りでこちらに向かってくる女性がいる。
斗祇未明未(とぎみあみ)、祐一の同僚である。祐一よりも年下で、背も頭ひとつ分低い。
目を輝かせながら、未明未は祐一の隣に立ち、ポスターを食い入るように見つめる。面白そう!楽しそう!行きたい!─という想いが伝わってくる。懸命に背伸びをしポスターを見る姿はさながら小動物。
──連れてこ。
ちょっとだけ一息ついて、祐一は口を開く。
「もしよろしければ今度の休館日、行きませんか、コレ」
未明未はぱっと振り向き、一層目を輝かせる。声の細い後輩は、それでも弾ませながら言った。
「ほ、本当ですかっ?…わ、私なんかでいいんですか…?」
思った以上の反応の良さに少し動揺しながら祐一は答える。
「…ええ。興味のある方と一緒に見たほうが楽しいかなと。…あ、斗祇さん、LINEやってますか」
「LINEですか?やってます、けど」
祐一は携帯を取り出す。
「予定決めるために交換しませんか。…あっ、ショートメールとかでもいいんですけど…」
未明未もそれに倣うように携帯を持つ。
「LINEで、大丈夫です。…この画面でいいですか?」
祐一が覗き込むと、そこには『斗祇』という名前と、縦に伸びている無防備に腹を見せる白い猫の写真。
「あっニャンコ可愛い」
「可愛いですよね、良く家の前にいるんです。日向ぼっこしてる時の写真です」
「いいなぁ綺麗な猫…逃げないんですねぇ…」
「はい、人に馴れてるみたいで、たまに撫でさせてくれます」
へぇ、と祐一は嘆息する。
「あっ、すみません、じろじろと」
「ああ、大丈夫ですよ」
キモい生き物だけじゃなくて猫も好きなんだなぁ、と思いつつ、祐一は続く言葉を探す。
「…ええと、また連絡します。夜にでも」
未明未はそれを聞いて心底嬉しそうな顔をする。
「はい!ご連絡待ってます」
向けられた表情に少し顔を固くし、祐一は口元を手で抑えつつ、軽く会釈をしてダンボールを抱え去った。
可愛くて気になってる後輩。別に、同僚として仲良く出来ればそれでいい。とても付き合えるだなんて思ってない。今回のことも、ラッキーだとは思うけど、これを機に距離を詰めようなんてことも考えていない。
でもやっぱり嬉しいので、夜8時にアラームをセットした。

『こんばんは』
変な絵文字と共に、未明未の携帯にメッセージが届いたのは夜の10時。丁度風呂から上がったところ。髪を拭っていたタオルを首にかけ携帯を覗く。
送り主が祐一と知り、未明未は思わずソファの上で姿勢を正す。
──これは何の絵文字なんだろう。
『遅い時間になってしまってすみません』
『起きていたので大丈夫です』
すぐに既読が付き、次早に通知音が鳴る。
『良かった』
『例の、開館は10時だそうですね。その時間に入れるようにしましょうか』
『わかりました。そこ、混むでしょうか。早めに行った方がいいでしょうか。どこで待ち合わせましょうか』
切りどころを見失い質問攻めになってしまったことを少し後悔する。しかしそれも杞憂だった。
『絶対に人気がある。早めに行って並んだ方がいいと思います』
『少し距離はありますが、向こうの駅で待ち合わせて、歩いていくのはどうですか。現地で会えなかったら悲惨ですし』
なるほど、内容ごとに区切って送るのか…と未明未。
『わかりました』
『お昼はどうしますか?』
こうか!と反応を伺う。
『うーん』
『何食べたいです?』
その返答に思わず携帯を手から落としそうになる。
間一髪で受け止め、焦りながら返す。
『一緒に食べてもいいんですか』
少し呼吸を置き、冷静になる。
『先輩の食べたいものでいいです』
『良かった』
『洋食、好きですか』
『好きです』
この流れは二人でご飯を食べられる、と未明未が携帯を両手で抱えてにやついている時、祐一は送られてきた『好きです』の四文字を真剣な表情で見つめ、そっとスクショした。
『ではおすすめの店があるので、そこで』
『わかりました、お任せします』
そこで未明未は少し考えて、ゆっくり文字を打った。
『楽しみです』
送信完了の文字を見て、余計だったかな、と後悔した。すぐに既読が付いたが、返事はなかった。
「なに笑ってんの…きもちわる」
ソファに寝転がり携帯を顔に乗せ、ふふふ…とその隙間から声を漏らす兄を見て、弟の浩二(こうじ)は冷たい視線を送った。

月日と言うのは肌で感じるより早いもので、カレンダーの赤印は、もう既に今日のもの。
普段は着ない服を出して、髪を丁寧に結い、少し迷って眼鏡を外し、鞄に入れて家を出た。
学生時代に良く使ったバスを久しぶりに乗り継ぎ、ボタンを押して降り、そこから待ち合わせの駅まで歩く。
少し早く着いてしまったようで、まだ相手は来ていない。
未明未は柱に背を預け、ちらりと腕時計を見てから、鞄に入れた文庫本を取り出す。
本の世界にのめり込んでいた時、ふと視界に影が落ちた。
「待ちましたか?」
「あっ、いえ…」
──私服だ。可愛い。
見慣れない未明未の格好に、祐一は目をぱちぱちさせて見る。眼鏡外してる。ドキドキと胸が鳴るのを感じた。
「や、やっぱり変ですねっ!」
凝視されてるのに気づいた未明未は気合いの入った様相が恥ずかしくなり、本と入れ替えに眼鏡を取り出し素早く掛けた。
「えっ、あ、ジロジロ見てしまって、不躾でしたよね、すみません...…どちらもお似合いだと、思いますよ?」
未明未は顔を赤くして俯き、眼鏡の弦に指を掛けながら言った。
「……外した方が、いいですか」
「う………あの、雰囲気が違うからか、緊張してしまって…しばらく掛けていて、もらえませんか」
祐一は口元を手で抑え、頬の上気を隠した気になっている。
「あっ、はい」
一瞬の空白。
「……行きましょうか」
「…はい」
二人の距離はぎこちない。

早めに着こうとは言ったものの、考えてみれば平日なのだから、人気があろうと無かろうとあまり混んでいる訳が無いのである。
その事実に遅ばせながら気づき、顔を見合わせ苦笑しながら入場開始時刻を待つ。
列から脱走した、暴れる園児ふたりを、小脇に抱えて静かにするよう叱るエプロン姿の男性。垂れた肌の奥の瞳に優しい光を湛え、言葉を交わす老夫婦。そんな中にいるふたりを同僚だと思う人はいない。
途切れがちに会話を投げながら入った展示室は、思っていたよりも薄暗く、静かだった。青い照明の中、機械的な女性の声と水の音だけが響く。少ない足音を聞きながら、ふたりはゆっくり、ひとつひとつの展示を丁寧に見て行く。
「きもぷにだ…」
「きもぷにだ…」
奇怪に蠢く水中生物を見ながら言葉を交わす。
「うわぁ…ぷにぷにしてそう」
「ですね。うわっなんか出た」
気づけば時間も過ぎ、展示室の中も増えた人で騒がしくなる。
30cmほどのガラスの正方形の前に並んでしゃがむ。未明未は同じ調子で話しかけるが、声は掻き消されて祐一に届かなかった。それに気づいて、少し傷ついたように唇を結び、俯いて黙ってしまった。
「どうしたんですか」
小さな異変を見つけた祐一が声をかける。
「いえ、なんでも、無いんです…」
それに答えず、未明未に耳を近づける。どうぞ、と先を促すような仕草が、堪らなく嬉しかった。
「楽しいなぁ、って」
「そうですね。こういう展示会、よく行かれるんですか」
「行きたいと思うのはあるのですが、その、ひとりで行く勇気が中々無くて…」
「あ、奇遇ですね、俺もです。だから今日はラッキーでした」
気分が高まって親指を立てる祐一。それに、まだ固さがあるものの、気を許した表情で親指を立て応える未明未。
「はい、ラッキーでした」
──思いのほか話が弾む、というか。気が合うかもしれない。
内心喜ぶ祐一。
「外に、触れるところがあるみたいです」
順路通りに進んでいれば、いつの間にか室内展示は終わっていた。
『きもぷにと触れ合おう!』
何やらうねうねしている気味の悪い生き物が、広く浅い水槽でのんびりとくつろいでいる。体験型の展示ということもあり、室内より子どもの姿が多い。入場前にいた保育園児はエプロンの男性と追いかけっこをしている。
水槽の前でしゃがんで見ていると、どこからかやってきた鳥が水生生物をついばむ。驚いたのか、その生き物はぴしゃりと跳ね、ついばんだ鳥は羽ばたき消えていく。
わ、と声を上げ、見ると未明未のかけていた眼鏡が濡れている。外して、丁寧な仕草で水滴を拭う。その時、走り回っていた園児が、これでもかという勢いで未明未にぶつかった。思わず手から離れた眼鏡は、後に続いたもうひとりの園児に踏み潰されてしまう。
急いで拾うがもう遅い。銀色のフレームはひしゃげ、折れ、とてもかけられそうにない。唯一の救いはレンズが無事だったこと。
「…壊れちゃいました」
「あー…怪我してません?」
割れた眼鏡を同時に拾おうとし、祐一に柔らかな髪の匂いが香る。思わず顔を引くと、鼻先が目の前にあった。
「つ、付けられなくなっちゃいましたね…眼鏡、無くて不自由じゃないですか?」
「あんまり目が悪い訳では無いので…大丈夫、です」
そういう未明未だが、割れた眼鏡を拾う手がしきりに空を切っている。
祐一は代わりに拾い上げ、未明未の前に出す。
「眼鏡、折れた先とか気をつけてください」
「あ、ありがとうございます…」
受け取る手は眼鏡を過ぎ、祐一の胸に当たる。
あれ?と不思議な顔をする未明未。
「…見えてないでしょう」
「えっいえ見えてますほんとです」
見え見えの嘘に訝しげに目を細めて、祐一は鞄からハンカチを出し、眼鏡を包んで、自分の鞄に仕舞った。
「眼鏡屋、行きましょう。それじゃ危ないですよ」
「だ、大丈夫です、そんなに付き合わせるわけには…」
「いいですから、行きましょう」
宥めるように言う祐一に、未明未は言葉を閉ざす。
水族館を出ると、都会然とした景色が広がる。人の間を縫うように進む祐一の後ろを、少し離れて未明未がふらふらと歩く。
ぼふっと顔をぶつけた未明未が見上げると、仕方の無いような表情の祐一。
「ふらふらじゃないですか。腕、どうぞ」
祐一は腕を少し広げ、掴まるように視線を送る。
「大丈夫ですからっ!ほんとに…」
「駄目ですよ」
ほら、と祐一。未明未は渋々それに自分の腕を絡める。密着して恥ずかしい。顔が赤くなっているのが分かる。それでも、隣の表情を見上げる覚悟は無いのだけれど。

着いたのは眼鏡のチェーン店。組んでいた腕を解いて、中に入る。
未明未が祐一から受け取った、眼鏡だったガラクタを持って先に行き、店員に話しかける。
「あの、フレームだけ欲しくて、レンズだけ割れてしまって、今すぐかけたいんですけど…」
何度も聞き返される様子を見て、大変そうだなぁ…と遠巻きに思う祐一。
そこに手ぶらの未明未が小走りで近づいてくる。
「フレーム選んだら、その場でレンズを入れてくれるそうです」
「ああ、良かったですね」
「それにしても、ここ、沢山あって迷います…」
この声の大きさに慣れ、完璧に聞き取れるようになったことを心の中で少し得意に思いつつ、目の前にあった赤縁の眼鏡を指さす。
「これとか」
かけたら、可愛いと思いますけど。という後半は言わないでおいた。
「あっ…可愛いですね」
シンプルに見えて、細かいところまで丁寧に装飾がされている。
これにします、と未明未が言うより早く、祐一はそれを取って持っていき、会計を済ませてしまう。焦った未明未は財布を取り出しながら言う。
「い、いくらでしたか」
「いいですよ」
店員がレンズを嵌め、タイミング良く祐一に手渡した。それを未明未に差し出す。
「我々のきもぷに記念に贈呈。どうぞ」
「え…いいんですか?眼鏡、結構高いのに…」
「先輩ぶりたいんですよ、ほっといてください」
「ほ、ほっとかないです、嬉しいです、ありがとうございます…その、怒っちゃいましたか?」
「怒らないですよ、優しそうでしょ?」
おちゃらけて言う祐一に、少しきょとんと目を丸め、未明未は薄く笑う。
「はい、優しいです」
心底驚いたように祐一は目を見開く。
「…冗談だったのに」
「先輩は、優しいですよ」
直視できないという風に目を逸らす。
「…そう見えてるなら、嬉しいです」
照れた横顔に、にっこりと未明未は笑った。

「そろそろお昼にしましょうか」
「はい。丁度おなかすいちゃってたところです」
「そのお店のオムライス滅茶苦茶美味しいので、楽しみにしててください」
その言葉に未明未は目を輝かせる。
「オムライス大好きです!」
先導する祐一の後ろをぴょこぴょこと、小動物さながらについてくる。
「ここです」
祐一は一度も地図を見ずにその店までたどり着いた。
すごいなぁと未明未は思ったが、その実、昨日ずっと地図を相手ににらめっこをして、脳内シュミレーションをしていただけである。
ふたりで向かい合って座席に着き、店員に差し出されたメニューを眺める。互いに対して縦に置いてあったメニューを、先に決めたのか、未明未は祐一の方に向ける。
しばらく時間が経ち、側にいた店員に祐一が声をかける。頼んだのは店の名物であるデミグラスオムライス。未明未は店員に注文を振られビクリと肩を震わせてから、自分の欲しい一品の名前を音読する…が聞こえておらず、聞き返される。少し頬を引きつらせながらもう一度言おうとする─それを遮り、祐一が代わりに言う。驚いて祐一の顔を見る未明未。祐一は、見つめられ僅かに照れたように口元を緩める。店員が注文を繰り返し席を離れる。
「あ、ありがとうございます」
「いえ」
会話が途切れる。沈黙が落ちる。いたたまれなくなった未明未が口火を切る。
「せ、先輩はどんな本がお好きですか?」
「あ…そうですね。なんでも読みますけど…最近は専らミステリーですね、好きな著者さんがいて」
「ミステリーですか、私も大好きです。あの、SFとか、大丈夫ですか?とても気に入ってる本があって、是非読んでほしいのですが…」
「SF…」
祐一の脳裏に良く巻き込まれる謎の現象が嫌に浮かぶ。
「あー…好きですよ。読んでみたいです。良かったら今度好きな本持ち寄って語らいましょうよ」
「是非!楽しそうです。…あ、その本、ちょっとグロテスクなんですが、大丈夫ですか?」
「俺は大丈夫ですけど、斗祇さんは結構そういうのいけちゃうクチなんですね?」
「はい、本ならむしろ積極的に読むんですが、映像になるとダメでして…」
「あー、なるほど。分かりますそういうの。スプラッタ映画とかダメな感じで。…あ、そう言えば今度映画化するあの、題名忘れました、あれも確かSFでしたね」
「あ、分かりますその本。えっと…私も忘れちゃいました」
「今度調べておきます」
丁度その時、祐一の頼んだ料理が運ばれてきた。
「あ、すみません、お先いただきます」
「あ、はい、どうぞ」
祐一が食べるのを、どこを見れば良いのか分からない様子で、きょろきょろと視線を動かす未明未。
すると、野菜のたくさん乗った皿が運ばれてきた。その隙間から僅かにオムライスと思わしき黄色が見える。
未明未はざくざくと宝探しよろしく野菜の山を切り崩していく。
「先輩の、美味しそうです」
もそもそと口を動かす未明未が言う。
「超美味しいです。食べますか?」
祐一は手を止め言う。
「いっ、いいんですか?」
「ええ、はい。どうぞ」
さっきまで口に運んでいたスプーンたっぷりにオムライスを乗せ、未明未へ向ける。
この時の祐一は何も考えていなかった。そう、何も。感覚は弟にするそれ。当然のように未明未に差し出した自身の行動の意味を理解するのは、5秒後…。
「…美味しいです、…その、ありがとうございます…」
しかし時遅し、未明未はぱくんとその一口を食べ、飲み込んでいた。
「……お、美味しいでしょう?」
無意識下といえ自分自身の行動に顔を真っ赤にする祐一。
ふたりはそそくさと、何事もなかったかのように食事を再開し、弾んでいた会話はぷつりと切れた。
空になった皿が、テーブルの上にふたつ。未明未はメニューの裏面を見ながら何やら神妙な顔。どうやらデザートを食べたいらしい。
──でも食べきれなかったらなぁ…。
その様子に気づいた祐一が声をかける。
「斗祇さんデザート食べます?じゃあ、俺も食べようかな」
「あ、はい。先輩はどれにするんですか?」
未明未がメニューを向ける。
「第一印象で決めてました。抹茶白玉ぜんざい」
抹茶の中に浸る数個の白玉が映る写真。添えられたいちごがアクセントとなってとても美味しそう。
「美味しそうですね…うーん………私はティラミスに……でもぜんざいも美味しそう…あ、すみません、優柔不断で」
「あっティラミスも食べたい。ひとつずつ頼んで分けっこしません?」
「いいですか…?ありがとうございます」
声をかけてぜんざいとティラミスを注文する。運ばれてきた二皿は予想よりも少し大きい。
各々スプーンを手に持ち、ひとすくい自分の口に運ぶ。ほどよい甘さ。
黙々と食べ続け、半分程が消えた時。
「あ、ひとくちどうぞ」
未明未がスプーンを皿に置き、祐一に差し出す。
「じゃあ俺のも」
祐一はスプーンを手に持ち、皿だけを差し出す。
「あ、その、味まざっちゃうと…と思いまして…」
変な気遣いだった、しない方がよかった…と萎縮する未明未。あー…と遅ばせながら理解した祐一。
「えーっと…気に、ならなければ、その、甘えちゃいますか」
すみません…と未明未は項垂れる。祐一が自分の使っていたスプーンで食べるのを見て、あ、これ間接キスだ、とワンテンポ遅れて頬を赤くした。一方祐一は、動揺が顔に出ないようにテーブルの下で自身の太股をギリギリとつねっていた。
また、会話が切れる。

楽しいお昼ご飯も終わり店の外に出る。
「その、どうしましょうか…」
祐一は頭の中に地図を広げる。
「そうですね、映画とかどうです?」
「あっじゃあそれで…」
人通りの少ない細い道をふたりで並んで歩いていく。辿り着いた映画館はこぢんまりとして古く、しかし綺麗で、それが馴染みやすい雰囲気を醸し出している。
中に入ると、少し広い臙脂色のホールがあり、壁にたくさんの広告が飾ってある。不器用な男子高校生と女子大生の微笑ましいラブストーリーや、有名漫画家の作品を映画化したものなどが並ぶ。順番に見ていた祐一が足を止めたのは、B級ゾンビ映画の広告前。チープな様子で内臓を飛び出させる無数のゾンビが襲いかかる中、マシンガンを持った美女が毅然として立っている。未明未が声をかける。
「先輩が見たいものでいいですよ」
「じゃあこれがいいですね。ゾンビ映画。結構B級映画好きなんですよ」
──…ホラーか…。しかし、好きなものでいいと言った手前、仕方がない…、と腹を括る未明未。
二人分のチケットを取り、飲み物をそれぞれ買う。
「なんか、映画館で見るのなんて久しぶりで、楽しみです」
「私も久しぶりです、中々ひとりで行く気になれなくて」
「そうですよね。俺なんて休みの日は家に篭ってうだうだしてばっかりです。たまには外出歩くのも良いものですね」
「家は居心地良いですもんね」
館内アナウンスに急かされて、小走りで上映シアターへ向かった。

…ノリノリで楽しむ祐一はその横で、未明未が耳を塞ぎながら冷や汗を流していたことを知らない…

映画館を出て、青い顔をした未明未に祐一が声をかける。
「あー…すみません。バッドチョイスでしたか」
未明未は額に手を当てて、ふぅー…と息をつく。
「いえ、大丈夫です。ただ、その、動悸が止まらない…」
「ああほんとすみません、ひとりで楽しんでしまって…どこかで休みましょうか?」
「…すみません、お願いします…」
なら一度外に出ましょう、とふたりは映画館を後にした。

陰ったビルの間の道を、昼頃の何倍もの人が往路を行き交っている。
「人、多くなりましたね」
「そうですね…もう五時ですか」
「とりあえず駅の方に向かいましょう」
「はい、わかりました」
道を知る祐一を前に、未明未が後ろを着いていく。学校や仕事終わりなのか、たくさんの年齢層が道を行く。小さな身長で懸命に首を伸ばしながら進む。
「やっぱり人多いですね。週末近いからでしょうか」
大通り、横断歩道、信号の前で祐一がそう言って振り返るが、語りかけた相手の姿は無い。
「斗祇さん?」
慌てて周りを見るが、いない。
わっ、と青信号で流れ出す人の中を泳ぎながら端に寄る。急いで携帯を取り出すと、未明未からの連絡が入っている。すぐさま電話をかける。直ぐに応答があったが、声に掻き消されて聞こえない。切って、LIVEに文字を打つ。
『今どこにいますか』
返事は早い。
『徳冨園芸店ってお店の前にいます』
祐一は辺りを見回す。すると、長い信号の向こうに看板と、その下で不安げに携帯を見つめる未明未がいた。
『見つけました。今行くので、待っていて下さい』
タイミング悪く、信号は赤くなる。
道路を挟んだ向こうで、安心したように肩を下ろす未明未。
そこに、大学生ほどの男性がひとり寄ってきた。未明未に立ち塞がるような位置で、声をかける。交差点の信号は中々変わらない。困ったように俯く未明未の腕を、男は無理やり掴み、そのまま引いて何処かへ連れていこうとする。
祐一は、うなじを走る気持ち悪い何かに耐えきれず、弾かれたように一歩踏み出す。
近くに迫る、大型トラックには気づかないまま。

「は、離して下さい…」
恐怖でいつもより掠れる声は、当然前を歩く男には届かない。ただでさえ弱いこの腕では、当然異性の力には敵わない。
昔の私だったら、こんなことで泣きそうになったりしないだろう。手を振り切っていただろう。声を上げて助けを呼んだだろう。
勝手に自分で比較して、落差を感じて落ち込むようなことも無いだろう。
引きずられるように未明未は着いていく。

眼前を猛スピードのトラックが掠めていく。耳鳴りに似た音が通り過ぎる。
呆然とする祐一に、隣にいた男性が言う。
「なあ、大丈夫か?ダメでしょ、赤信号なんですから」
引っ張られた右腕がじんじんと痛む。
「あ…すみません」
カメラを首から下げた男性は、にかっと明るい笑顔を見せる。
「いいってことよー、気をつけてくださいね」
信号が青に変わる。ぺこり、と頭を軽く下げて、祐一は人波の中を行く。

嫌なことを思い出した。
昔もこういうことがあった。
暑い日だった。友人を待っていた。突然現れた誰かに腕を引かれ、その後は─どうなったのだっけ。
目の前の男性が何か言っている。ダメだね、頭に何も入ってこないや。気が遠くなってきた。全く、弱いなぁ…。
「…先輩?」
視界を、大きな背中が塞ぐ。
「…すみません、連れなので」
不機嫌そうな声。ぺこりと小さく頭を下げ、呆ける未明未の手を引いて、祐一は足早にその場を後にする。
なんだか無性に腹が立つ。歩調も自然速くなる。未明未が知らない男に手を引かれていたあの場面、思い出すだけで祐一は、黒い靄がじりじり心を焼くのを感じる。どうして──どうして?
ピタリ、と足を止める。
「…あの…」
不安げにこちらを見上げる未明未の顔。細い手首を握っているのは自分。
「あの、その、先輩、すみません」
「…?…何がです?」
「その、て、手間取らせてしまって…」
すっかり萎縮したその様子を見て、祐一は初めて、自分が険しい顔をしていたことに気づいた。
反射的に両手を挙げる。
「あぁ…えーっと、困りますよねこの季節は。ああいう輩が湧いちゃって」
祐一は取り繕うように早口で言う。
「そ、そうですね。でも、一体、何がしたかったんでしょう…私なんか、見栄えるような容姿でもないのに」
「いや、斗祇さんは可愛らしいですよ」
大きな目をぱちくりと瞬かせ、ぶわっと顔を赤らめる未明未。
祐一の頭に、先程の問が巡る。
──どうして?
──斗祇さんが、好きだから?
じんわりと、顔の表面温度が上がっていくのを感じる。
自覚して、しまった。
「すっ、すいません、忘れてください、あ、でもほんとのことですから、あっなんでもないです」
わたわたと釣られて顔を赤くしながら、一生懸命に弁明する祐一。
くすり、と未明未は僅かに頬を緩める。
「…その、ありがとうございます」
その笑顔に、祐一は言葉も息も詰まらせる。
固まってしまった祐一に、誰かが、邪魔だと言うように乱暴にぶつかり、舌打ちをひとつ落として去った。
未明未は視線を落として、流れる髪で顔を隠し、祐一の手を握り、足取り軽く、言った。
「次はどこに行きますか?」
緩んだ情けない顔なんか、絶対見せてやるもんか!
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