ココア

文字数 2,191文字

書類を届けに行く、と言ったきり帰ってきていなかった。郵便の宛は隣の棟の三階の教授で、あの人は時間の浪費を嫌うから、無駄話などなくすぐに戻ってくるはずだった。何か途中で寄り道をしているのだろうか。この前は突然、ゼミ生への手土産といってお菓子をたくさん買ってきたので、その可能性も少しだけ考えるが、今日は生徒が来る予定がない。それとは別に、売店に寄っているのだとしても、もう一時間も経っている。悩むにしても、時間がかかりすぎだ。
ちら、と机に置いた携帯を見る。普段は伏せてあるが、連絡が来たらすぐ気づくようにひっくり返した。しかし、それは依然として沈黙を貫いている。
別に心配するようなことでもないのだ。相手は小さな子どもでもあるまいし、ましてや年上の男性なのだし。
そうは思っても、やはり不信感が残る。──そういう人ではないから。
席を立ち、壁際の内線に手を伸ばす。受話器を耳に当てながらメモ帳を後ろからめくって、目的の番号を探す。手にメモ帳を握って、人差し指で番号を押す。ワンコール目で嗄れた声が「はい」と答えた。
「赤鷺です。古瀬教授はそちらにいらっしゃいますか」
「いや。とうに帰ったよ」
「承知しました。ありがとうございます」
言い切らないうちに、ガチャンと乱暴な切断音が聞こえた。せっかちは歳をとっても治らないものらしい。
老獪を心の内で揶揄しても始まらない。少し迷って、携帯を手に取る。古瀬先生の連絡を選んで、電話をかけた。着信音が鳴っている。プツッと音がして、応答したことが分かった。
「先生、今どこにいらっしゃいますか」
「……」
返事がなかった。息遣いがわずかに聞こえて、電話が途絶えた。ツー、ツー、と無情な音が耳元で響いた。
電話には出ていた。出た上で、切った。そんなことをする人じゃない、何かが──あったのだと。頭の中を、不安や可能性が巡る。携帯は手にしたまま、早足で研究室を出た。
私たちの部屋はこの棟の四階の、長い廊下と数々の部屋を通り過ぎた一番奥にある。この階は研究用で、階段を上がってすぐの給湯室や談話スペースは誰でも使えるが、その先へは認証付きのガラス戸を超えなければ入れない。だが出るぶんには何も問題がないので、開いた自動ドアの隙間に身体をねじこむように滑り出た。エレベーターを待つのももどかしく、階段の方へ足を向ける。まっすぐあの老教授の元へ向かったのなら、廊下を通ってドアを通って、エレベーターか階段を使って下に行っただろう。一歩、踏み出して、視界の左端に、誰かがいたような気がした。エレベーターが壁から飛び出すように設置されているので、その横にある階段側から見ると、エレベーターの向こう側にあるくぼみがちょうど死角になってしまうのだ。くぼみと言っても、広くもなく、ベンチを置くには隙間がなく、ごみ箱は給湯室にあるので、文字通りのデッドスペースだ。おまけに、配線がいかれてしまっているのか、長いこと電灯が点かず、光も届かない。
数歩、そちらへ近づいてみると、予感は確信に変わった。回り込んで、声をかける。
「……大丈夫ですか」
返事はない。頭を抱えるようにして座り込んでいる古瀬先生は、うつむいたまま動かなかった。もしかしたら気づいていないのかもしれない。正面にしゃがんで、顔を覗き込んだ。驚くほどに白かった。開いた口からは足掻くような息が繰り返し溢れ出していた。──過呼吸だった。
背を撫でようと手を伸ばしたときに、こちらの存在に気づいたらしい。一瞬、私の顔をちらりと見て、歯を食いしばるように呼吸を壁にてのひらをついて立ち上がろうとする。が、力が入っていないのだろう、そのまま膝から崩れ落ちた。
とっさに正面に回って抱きとめる。さすがに、頭ひとつ違う体躯の男性を完璧に止められず、床に膝をつく形でどうにか支えた。先生は力なくされるがままになっている。
その様子に心当たりがある。正確には、その苦しさに。手足に力が入らなくて、いくら息を吸っても酸素が肺に送り込まれないような気がするのだ。苦しくてたまらない。正しく呼吸をしなければと思うほどに焦ってしまって、上手く息ができなくなる。
六子(りっこ)という、唯一無二の親友を喪ってから、私は頻繁に過呼吸を起こしていた。それは彼女の夢を見たからであったり、もらった物を目にしたからであったり、ただ歩いているときに思い出したからであったりした。その度に、私は助けてもらっていた。
「……そのままで構いません。私の心音は聞こえますか。すぐに体温がそちらに伝わります。触れている場所の感覚はありますか。そこを伝っていきます。背中から身体を通って、心臓を経由して足先まで。地面の感触が戻ってきますから」
私は中学生の頃を思い出していた。主治医の先生が言っていたことを、なぞるように口にする。あのとき感じた心音の響きを思い浮かべながら、自分の、跳ねてやまない不整な脈を思った。
「大丈夫です。先生はここにいます」
ここにいます、祈るように数度繰り返した。耳元で逸るように吐き出されていた呼吸が、次第に落ち着いていった。強張っていた身体から、緊張が抜けていくのをてのひらで感じた。
「……もう、大丈夫だよ」
少し掠れた声で先生はそう言うと、身体を引いた。両手で私の腕を軽く握って、挙げたまま所在のないそれをゆっくりと下げた。まだ顔色は悪いが、先ほどよりは血の気が戻っていた。
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