第1話 ロックアウト

文字数 2,044文字

 顔も見たことがない相手を心から好きになるなんて、本当に起こり得ることなんだろうか?
 僕は愛に出会うまで、少なくとも自分はそんなお伽話のような恋物語とは無縁な人間だと思っていた。

 僕の名は杉本悠。大学院生だ。専門はロボット工学で、研究室では宇宙や海底で微細なサンプルを採取するロボットアームの開発を進めている。

 間もなく夏期休暇を迎える夏、研究も最後の追い込みというタイミングで首都圏全域に非常事態が宣言された。新種のウイルスが急速に拡大していると言うが、困ったことに研究助手の坂本慎一郎さんがその新型ウイルスに感染してしまったらしい。坂本さんは口数も少なく一見すると目立たない人だが、ずっと演劇をやっていて僕たちの研究室にも見に行った人が何人かいる。実はその小劇場でちょっとしたクラスターが発生し、検査の結果坂本さんの「陽性」が判明した。こんな時、目に見えないウイルスを前に人間はまだまだ無力なのだと思い知らされる。
 僕を含む濃厚接触者の七人は指定の病院で検査を受けた。結果は二十四時間経たないとわからないが、検査の結果に関わらず七人全員は二週間の自宅待機。研究室は最低十日間ロックアウトになってしまった。
 実験の解析結果を楽しみにしていただけに、階段を上って最後の一段で躓いた感じだ。この分だと夏休み返上で出てくることになりそうだけれど、もし新たな感染者が確認されたらさらにロックアウトは長引く。

 病院で検査を受けた夜、二年上の三浦先輩が坂本さんの症状を電話で知らせてくれた。
「今のところ微熱と頭痛だけみたいだけど、自宅で待機してる。血中酸素濃度のモニターは病院に繋がっていて、何かあったらすぐに駆けつけられるらしいよ。僕たちの検査結果はまだこれからだけど、もし陰性だったとしても油断はしないほうがいいみたいだね」
「わかりました。でもこんなことがあるとなかなか研究が進まないですね。二週間後に再開しても、途中で実家に帰る人や離脱する人も出てきそうだし」と僕は愚痴を漏らした。
「今度のウィルスがどのくらいの脅威になるかわからないけど、五年前のコロナの時はこんなもんじゃなかったよ。春にはキャンパスに人っ子一人いない状態になったからね」それは励ましよりむしろ慰めに近かったが、きっと三浦先輩は自分に向けて言っていたのだろう。「応用化学や生命理工学と違って、僕らのデータは時間が経ったからって変異するものじゃないからね。このところずっと遅くまで頑張ってたから、休暇を貰ったと思って数日間は身体を休める事に専念しよう」

 三浦先輩の言う五年前、感染症が拡がる真っ只中で僕は大学に入学した。
 入学と言っても、寝たきりだった僕の代わりに両親が書類を送って手続きをしてくれた。もしそれが一年前でも一年後でも入学は取り消しになっていただろうから、僕はつくづくラッキーだったと思う。
 あの年、日本中、いや世界中で感染症が大流行し始めたとき、僕は病院のベッドにいた。と言っても感染したわけじゃない。大学入試の合格発表の日、両親に面と向かって歓びや感謝を伝えたくて、お気に入りの愛車SR400に跨がって浜松へ向かった。ところが出発して間もなく交通事故に遇い、僕は都内の病院に救急搬送されてしまった。何しろ僕には事故の記憶が全くなかったから、それもすべて後から聞かされたことだったけれど、その日以来ずっと昏睡状態が続き、突然意識が戻ったのは事故から三か月も経った頃だった。残念ながら愛車はスクラップになったと知らされたが、それほど大きな事故だったと言うことだろう。

 ずっと寝たきりでもう二度と目を開くことはない、と諦めかけていた僕の家族は涙を流して喜んだと言うが、目を覚ましたばかりの僕は、ベッドの周りに集まった人たちがいったい誰なのかさえ判らなかった。不謹慎かもしれないが、この人たちはなんで泣いているんだろう? と可笑しくさえ思えたくらいだ。
 覚醒した僕は、幸運なことに脳にも身体にもダメージが認められなかった。とは言え、記憶や体力がすぐに回復したわけでもなく、三か月近くリハビリを重ねることになる。幸い大学はオンライン授業が続いていたため、第一クォーターの補講に滑り込み、第二クォーターは病室で受講することができた。あの時、感染症の対応で大変だった中に、僕の治療を続けてくれた医師や看護師、その後リハビリを担当してくれた病院スタッフや、時々僕の勉強をサポートしてくれた研修医の二人にはほんとうに感謝の言葉もない。
 その後も若干の記憶障害は残ったが、体力をすっかり取り戻して社会復帰が可能になったとき、季節はもう秋になっていた。大学はその後もオンラインをメインにして、キャンパスでの活動は段階的に再開したため、僕は他の学生たちに取り残されることなくキャンパスライフをスタートさせることが出来たわけだ。

 はたして今度のウィルスはすぐに収束するのだろうか? それとも? いやいや余計なことを考えるのは止めよう。
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登場人物紹介

Yu=杉本悠

東京工業大学の大学院博士課程でロボット工学を専攻する院生

趣味はギター。彼女いない歴一年のつもりだったが、もしかしたらずっといなかったのか?

Ai=森谷愛

英語と日本語を完璧にこなすバリンガル

九州大学共創学部2年に在学中で、父親はロボット工学の森谷幸弘、母親はイギリス人と言うが真相は?

森谷優

愛の兄で、悠と同い年という

AIを駆使し、高度な技術を持つミステリアスな存在


森谷幸弘

愛と悠の父親で、イギリス在住のロボット工学の権威

アンドロイドやヒューマノイドを超え、人と見分けがつかないヒューマノドロイドを開発していると言われる

坂井刑事

警視庁目黒警察署に勤務する刑事

城山刑事

警視庁目黒警察署の新人刑事

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