第6話 不気味の谷の向こう側

文字数 2,698文字

 朝起きると、真っ先に研究室に電話を入れた。
「頭が痛い、気分がすぐれない」と言えば、必ず「休め」と言われる。「休んだほうがいい」は「来ないでほしい」という意味だ。
 大学入学以来、自分の体調不良で休むのは初めてのことだった。高校時代はどうだったろう? 思い出せそうで、なぜかはっきりと思い出せない。愛にしか話したことはないが、あの事故以来、僕は昔の記憶に一枚ベールがかかったように感じているのだ。

 タイマーと連動したコーヒーメーカーが温かいコーヒーを用意してくれていたが、僕はそれを口にすることもなく、やっとカップ1杯の牛乳とトーストを1枚だけ口に入れた。

 優の言葉を信じて良いのか? 優の言うとおり愛はAIなのか?
 見せてもらったプログラムは完璧だったし、僕は本当にそれが愛だと信じた。しかし、1週間続いた愛とのメールやチャットのやりとりはあまりに自然で、とても人工的なものとは思えなかった。
 素人はAIもロボットもアンドロイドも同じ括りと思うかも知れないが、深海や宇宙空間で人に代わって作業を行うロボットアームの研究をする自分とはまるで世界が違う。AIのことは勿論多少知っているつもりだが、あんなレベルの物を見せられたのは初めてだ。
 しかし、昨日のチャットはぼくが知っている「ほんものの愛」とは何かが違う……そう自分の心が感じ取っていた。信じたくない自分の気持ちがそのように錯覚させているのだろうか? 例えば——僕の『ジャンゴ』はまだ論外としても——極めて分解能の高いシーケンサーで演奏させた自動ピアノの生演奏を聴いたときのように、どこかに不自然さを感じる。ただ、それを論理的に証明する手立てがないのがもどかしい。

 九州大学に確認すれば判るじゃないか——そう思った僕はすぐに連絡先を調べて電話した。ところが、夏休みが始まっていたせいで殆どの職員は不在。電話に出た警備員に話してもなかなか要領を得ない。
 長い時間待って、やっと窓口に出た担当者は「個人情報保護法」を盾に僕の頼みを拒否した。一人の学生がそこに在籍しているか教えて貰うだけのことが、こんなに困難なものなのか?
 とは言え、大学のサーバーに不正サクセスするなんてことは、今まで法を犯さずに生きてきた僕の信条に反する。

 それにしても、こちらを蔑むような優の微笑みはなんだろう? もし自分が優の立場だったら、研究に無理矢理巻き込んだ被験者にあんな態度はとらない。
 いや、とれない。よほど相手を憎んでいない限り。

 「不気味の谷」という言葉が頭に浮かんだ。
 例えば、ロボットやアンドロイドは、外見や行動が人のそれに近づくにしたがってどんどん好感度を増していくが、ある点で突然嫌悪感を抱かせるようになる。それを「不気味の谷」と呼ぶ。

 僕は森谷博士の講演を思い出していた。あのとき愛は博士の講演を袖で見ていたはずだ。僕はそう信じたかった。
 博士が壇上で指笛を鳴らして「ヒューイ!」と愛犬の名を呼ぶと、一匹のラブラドール・レトリバーが勢いよく博士に跳びついてその顔を舐め回した。すると、その後ろからヨロヨロと一匹、いや一台のロボット犬が現れた。
「私たち家族の仲間に、ヒューイとデューイというラブラドールの兄弟がいました。ところがある日、交通事故で一匹は命を落としてしまった。そこで、私は独りぼっちになった愛犬のために兄弟を作ることにしたのです。どうやら最初は上手くいかなかったようですが」と悲しそうにロボット犬を眺めながら博士は言った。「その後、改良に改良を重ね、私は失われた兄弟を創り出すことに成功しました」
 博士は再び指笛を吹くと「デューイ!」と名前を呼ぶ。そして、最初に現れたヒューイとよく似たラブラドールがゆっくりと壇上に現れた。
「あらためてご紹介しましょう」と、博士は二匹のラブラドールを自身の両サイドに並ばせ、ロボット犬もヒューイに従ってその隣に同じように座った。「私の家族、ヒューイとデューイです!」
 七十周年記念講堂に、感動の拍手が鳴り響いた。歓声こそ上げられないが、オンラインで視聴する学生たちはきっと画面の向こうで驚きの声を上げていたに違いない。ヒューイとデューイはどちらが人工のものか殆ど見分けが付かなかったが、僕は最初の動きでヒューイこそが本物に間違いないと確信した。
「さて皆さん、どちらが本物のラブラドールか判りましたか?」と森谷博士は僕たちに問いかける。
「最初のヒューイだと思う方は手を挙げてください。はい。殆どの方が挙手されましたね」と言うと博士は微笑んだ。
「二匹目に現れたヒューイだと思う方は?」とロボット犬を指さし、会場にはマスク越しに笑い声が漏れる。
「一人もいないか。残念だな。君はラブラドールには見えないそうだ」と言う博士の言葉に反応して、ロボット犬は悲しそうに首をうなだれた。
「では、最後に登場したデューイだと思う方は? うーん、三人、あ、もう一人。四人? あれ、手を下ろしてしまいましたね。あれ、最初に挙げてた人も……。それじゃ二人だけ?」と言ってデューイを悲しそうに眺めた。
「デューイ、君を信じてくれた人はこの会場で二人だけだったよ。君だけが血統書付きのラブラドール・レトリバーだというのにね」という森谷博士の言葉に会場は静まりかえった。
「不気味の谷を越えた先は、もうそれがロボットであるのか生き物であるのかさえ見分けがつかなくなる。私は最初に不気味の谷を超えたヒューイをAnimal o'droid(アニマロドロイド)と呼ぶことにしました。そしてヒューイのように人と見分けが付かないアンドロイドを、従来のヒューマノイドという言葉とは区別して、Human o'droid(ヒューマノドロイド)と定義したいと思います。実はこの日本で、私はその実証実験をスタートしています。ですから、その姿を皆さんが目にする日はそれほど遠くはないと思います。もしかすると、皆さんの仲間の中にもドロイドがすでに生活しているかもしれませんよ?」と言いながら博士は笑った。
「まぁ、それはいずれ判ることです。しかしながら、人間と見分けが付かないヒューマノドロイドの未来には様々な障害が立ちはだかっています。所有や責任の問題。寿命や廃棄の問題。様々な法律的問題は考えるだけで気が遠くなりそうです。私はこれから、彼らドロイドたちが私たちと共存し助けあえる世界を作り上げていくことを願っています。その時が来たら、ここにいらっしゃる皆さんには未来のサイエンティストとして、エンジニアとして、是非手を貸していただきたいのです」
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登場人物紹介

Yu=杉本悠

東京工業大学の大学院博士課程でロボット工学を専攻する院生

趣味はギター。彼女いない歴一年のつもりだったが、もしかしたらずっといなかったのか?

Ai=森谷愛

英語と日本語を完璧にこなすバリンガル

九州大学共創学部2年に在学中で、父親はロボット工学の森谷幸弘、母親はイギリス人と言うが真相は?

森谷優

愛の兄で、悠と同い年という

AIを駆使し、高度な技術を持つミステリアスな存在


森谷幸弘

愛と悠の父親で、イギリス在住のロボット工学の権威

アンドロイドやヒューマノイドを超え、人と見分けがつかないヒューマノドロイドを開発していると言われる

坂井刑事

警視庁目黒警察署に勤務する刑事

城山刑事

警視庁目黒警察署の新人刑事

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