第9話 レプリカント
文字数 2,702文字
研究室には、今日も午前中は行けないと連絡を入れた。
10時きっかりに電話が鳴る。思った通り猪俣刑事からだった。簡単な挨拶の後すぐ本題に入る。
「九州大、調べましたよ。共創学部の在籍名簿には森谷愛という名前はありませんでした。念のため他の学部も調べてもらいましたが、教育学部の3年に熊本出身で21歳の森田愛という人がいただけです」
もし偽名を使う必要があるなら、そんなによく似た名前を選ぶだろうか?
「わかりました。九州大に在籍してないことは確かなんですね」
「悠くん、君だから言うけどね。詐欺のような悪質なものでなくても、インターネットで知り合った人に偽名や嘘の身分を言う人は沢山いるから、あまり簡単に人の言うことを信用しない方がいいよ」
「はい、ありがとうございます」
また振り出しに戻ってしまった。でも、昨日のメールが狂言だとはとても思えない。愛からのメールには切迫した緊張感があった。文字や文章の向こうに愛の息づかいが感じられると言ったら良いだろうか?
少し多めのブランチで午後から活動するための栄養を採り、昼過ぎから研究室に顔を出した。しかし、ずっと愛のことが気になって身が入らない。数値の入力ミスが多く、教授を心配させてしまった。
「無理しないほうが良いよ。今日はもう帰ったら?」
「そうします。役立たずですみません」と頭を下げるのは情けなかったが、自分がいても周りの足を引っ張るだけだったから仕方ない。研究室の全員がそう思っていたはずだ。
「悠くんらしくないね。何かあったの?」と、同期で紅一点の「親友」河野雅美が声をかけてくれた。でも、真実を話したところで呆れられるのが関の山だし、彼氏との会話のネタにされるのも悔しい。
研究室から僕のマンションまでは徒歩で10分もかからないが、ちょうど歩き出したときに猪俣刑事から電話があった。
「今日、驚くべき事実が判明したよ」と猪俣さんは言う。
「愛が見つかったんですか?」と僕は歩調を弛める。
「いや。君のことだ」
「僕のこと……ですか?」
「君はいったい誰だ?」と言われて、僕はその場に立ち竦 んだ。
「大 に連絡したら、君は5年前に亡くなったって言うじゃないか?」
「5年前なら交通事故で入院していましたけど」
「その事故で亡くなったそうだよ」
「いやいや、僕は意識を取り戻して……。だって2年前の正月も実家に帰りましたよ?」
「その2年前、ご両親は本物の君だってずっと疑わずに喜んでいたようだね。でも大……君の兄貴はずっと不審に思っていたそうだ。『あいつはやっぱり人間じゃない。アンドロイドだと思った』と彼は私に話してくれたよ」
「え? 兄がそんな……」と僕は漏らした。実家で会っても兄とは殆ど口をきいていない。
「君はロボット工学の研究室にいるって言ってたね? 本当は悠君の記憶を植え付けられたアンドロイドじゃないか?」
「そもそも事故に遭ったのは、まだ研究とはほど遠い大学入学前ですし、それに……ちゃんと戸籍抄本も住民票も取りましたよ。運転免許証だってあるし、マイナンバーカードだって」
「君が昏睡状態に陥ってる間に、その身体を人工の物に入れ替えたということはあり得ないかな? 病院の記録を調べたら不審な点がいくつも見つかった。そもそも脳死状態だった人間が意識を取り戻すことなんて有り得ないんだ。ヒューマノドロイドっていう人間そっくりのアンドロイドのことを私も本で読んだことがある。実際、君はこの5年間風邪ひとつひいたことがないそうだね……」
他人 は荒唐無稽に思うかもしれないが、猪俣刑事が語る言葉のひと言ひと言に僕はリアリティを感じていた。確かに僕は事故後しばらく記憶を失っていたし、事故に遭う前の少年時代の記憶は今もおぼろげでピントが合っていない。この5年間で実家にはたった2回しか帰ってないし、高3の進級時に都内の高校に編入したせいもあって、地元の同級生とは何年も会っていない。
優ではなく、実は僕がアンドロイドなのか?
認めたくない気持ちの片隅に、それこそが最も検証しやすい三つ目の仮説だと自分に囁 く声が聞こえる。
そんな仮説、一週間前だったら僕は笑い飛ばしていただろう。でも、もし猪俣刑事の話が正しければ、今まで自身の中で積み重なってきた小さな疑問への最適解であるようにも思える。
僕は衝撃に打ちのめされた。途中、無意識にクルマの前に飛び出しそうになり、激しくクラクションを鳴らされたことだけは覚えているが、どこをどうやって自分の部屋まで帰ったかさえ思い出せない。
玄関まで辿り着いてやっと我に返った。気持ちを落ち着けて部屋に入り、Macを立ち上げて、一か八かで優にメールした。昨日受信したメールへの返信ではなく、あの日別れ際に彼が置いていった名刺にあったアドレスに宛てて。
「……警察で捜査して貰ったら、僕がアンドロイドだって言われた。君は何か知ってる?」
もちろん愛からのメールのことには触れなかったが、彼が気づいていないはずはない。
すぐに優から返信があった。送信元のアドレスは違うがフォーマットは同じだった。
「悠さま
警官にアンドロイドだって言われた時のあなたの顔が目に浮かびます。
私に会ったときと同じように真っ青な顔で立ち竦んでいたのではないかな?
実は私はあなたを見たときに何かが違うって気づいていました。愛の仲間に違いないってインスピレーションがあったのです。でも私のその第六感はどうやら間違いではなかったようですね。
それにしても警察に行くなんてあなたはどうかしてます。私がちゃんと真実を教えてあげたのに。
アンドロイドがAIに恋をしたっていうのはなかなかシュールな恋物語ですね。
⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿ 森谷優 」
やっぱり、あいつは人間じゃない……と心の奥底で感じる。僕が「感じる」その感覚がプログラムやシステムではなく本当に人の心であれば良いのだが。
SF小説のタイトルが頭に浮かんだ。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
フィリップ・K・ディックが書いたその小説は、映画『ブレードランナー』の原作と言われるが、アンドロイドは映画の中ではレプリカントと呼ばれていた。
僕はよく夢を見る。もし僕がレプリカントなら、夢も人工的に創り出されたものなのだろうか?
その夜の夢で、僕は硬いベッドに縛られて身体を分解されていた。腹部にメスが入れられても血は一滴も流れず、体内には内蔵の代わりに人工物が詰まっている。白衣の研究員たちがそれを取り出して引き千切ろうとするが、僕はまったく痛みを感じない。「やめてくれ!」と叫ぼうとしても、それは声にならなかった。
10時きっかりに電話が鳴る。思った通り猪俣刑事からだった。簡単な挨拶の後すぐ本題に入る。
「九州大、調べましたよ。共創学部の在籍名簿には森谷愛という名前はありませんでした。念のため他の学部も調べてもらいましたが、教育学部の3年に熊本出身で21歳の森田愛という人がいただけです」
もし偽名を使う必要があるなら、そんなによく似た名前を選ぶだろうか?
「わかりました。九州大に在籍してないことは確かなんですね」
「悠くん、君だから言うけどね。詐欺のような悪質なものでなくても、インターネットで知り合った人に偽名や嘘の身分を言う人は沢山いるから、あまり簡単に人の言うことを信用しない方がいいよ」
「はい、ありがとうございます」
また振り出しに戻ってしまった。でも、昨日のメールが狂言だとはとても思えない。愛からのメールには切迫した緊張感があった。文字や文章の向こうに愛の息づかいが感じられると言ったら良いだろうか?
少し多めのブランチで午後から活動するための栄養を採り、昼過ぎから研究室に顔を出した。しかし、ずっと愛のことが気になって身が入らない。数値の入力ミスが多く、教授を心配させてしまった。
「無理しないほうが良いよ。今日はもう帰ったら?」
「そうします。役立たずですみません」と頭を下げるのは情けなかったが、自分がいても周りの足を引っ張るだけだったから仕方ない。研究室の全員がそう思っていたはずだ。
「悠くんらしくないね。何かあったの?」と、同期で紅一点の「親友」河野雅美が声をかけてくれた。でも、真実を話したところで呆れられるのが関の山だし、彼氏との会話のネタにされるのも悔しい。
研究室から僕のマンションまでは徒歩で10分もかからないが、ちょうど歩き出したときに猪俣刑事から電話があった。
「今日、驚くべき事実が判明したよ」と猪俣さんは言う。
「愛が見つかったんですか?」と僕は歩調を弛める。
「いや。君のことだ」
「僕のこと……ですか?」
「君はいったい誰だ?」と言われて、僕はその場に立ち
「
「5年前なら交通事故で入院していましたけど」
「その事故で亡くなったそうだよ」
「いやいや、僕は意識を取り戻して……。だって2年前の正月も実家に帰りましたよ?」
「その2年前、ご両親は本物の君だってずっと疑わずに喜んでいたようだね。でも大……君の兄貴はずっと不審に思っていたそうだ。『あいつはやっぱり人間じゃない。アンドロイドだと思った』と彼は私に話してくれたよ」
「え? 兄がそんな……」と僕は漏らした。実家で会っても兄とは殆ど口をきいていない。
「君はロボット工学の研究室にいるって言ってたね? 本当は悠君の記憶を植え付けられたアンドロイドじゃないか?」
「そもそも事故に遭ったのは、まだ研究とはほど遠い大学入学前ですし、それに……ちゃんと戸籍抄本も住民票も取りましたよ。運転免許証だってあるし、マイナンバーカードだって」
「君が昏睡状態に陥ってる間に、その身体を人工の物に入れ替えたということはあり得ないかな? 病院の記録を調べたら不審な点がいくつも見つかった。そもそも脳死状態だった人間が意識を取り戻すことなんて有り得ないんだ。ヒューマノドロイドっていう人間そっくりのアンドロイドのことを私も本で読んだことがある。実際、君はこの5年間風邪ひとつひいたことがないそうだね……」
優ではなく、実は僕がアンドロイドなのか?
認めたくない気持ちの片隅に、それこそが最も検証しやすい三つ目の仮説だと自分に
そんな仮説、一週間前だったら僕は笑い飛ばしていただろう。でも、もし猪俣刑事の話が正しければ、今まで自身の中で積み重なってきた小さな疑問への最適解であるようにも思える。
僕は衝撃に打ちのめされた。途中、無意識にクルマの前に飛び出しそうになり、激しくクラクションを鳴らされたことだけは覚えているが、どこをどうやって自分の部屋まで帰ったかさえ思い出せない。
玄関まで辿り着いてやっと我に返った。気持ちを落ち着けて部屋に入り、Macを立ち上げて、一か八かで優にメールした。昨日受信したメールへの返信ではなく、あの日別れ際に彼が置いていった名刺にあったアドレスに宛てて。
「……警察で捜査して貰ったら、僕がアンドロイドだって言われた。君は何か知ってる?」
もちろん愛からのメールのことには触れなかったが、彼が気づいていないはずはない。
すぐに優から返信があった。送信元のアドレスは違うがフォーマットは同じだった。
「悠さま
警官にアンドロイドだって言われた時のあなたの顔が目に浮かびます。
私に会ったときと同じように真っ青な顔で立ち竦んでいたのではないかな?
実は私はあなたを見たときに何かが違うって気づいていました。愛の仲間に違いないってインスピレーションがあったのです。でも私のその第六感はどうやら間違いではなかったようですね。
それにしても警察に行くなんてあなたはどうかしてます。私がちゃんと真実を教えてあげたのに。
アンドロイドがAIに恋をしたっていうのはなかなかシュールな恋物語ですね。
⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿⊿ 森谷優 」
やっぱり、あいつは人間じゃない……と心の奥底で感じる。僕が「感じる」その感覚がプログラムやシステムではなく本当に人の心であれば良いのだが。
SF小説のタイトルが頭に浮かんだ。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
フィリップ・K・ディックが書いたその小説は、映画『ブレードランナー』の原作と言われるが、アンドロイドは映画の中ではレプリカントと呼ばれていた。
僕はよく夢を見る。もし僕がレプリカントなら、夢も人工的に創り出されたものなのだろうか?
その夜の夢で、僕は硬いベッドに縛られて身体を分解されていた。腹部にメスが入れられても血は一滴も流れず、体内には内蔵の代わりに人工物が詰まっている。白衣の研究員たちがそれを取り出して引き千切ろうとするが、僕はまったく痛みを感じない。「やめてくれ!」と叫ぼうとしても、それは声にならなかった。