第8話 Help!

文字数 2,862文字

 夕方になって、電源を切っている間に研究室から大事な電話が入っていたかもしれないと心配になった僕は、引出からスマートフォンを取り出して電源をONにした。
 留守電にもショートメールにも履歴はない。GPSをオフにし、モバイル通信機能もオフにしようとしたとき、一通のメールに気づいた。送信元のアドレスは、アルファベットと数字を組み合わせた記憶にも記録にもないユーザーIDだったが、「Help!」と書かれた標題に予感がして、急いでメールを開いた。

「週末から兄に監禁されてる。彼は父が作ったヒューマノドロイド。でも『2001年宇宙の旅』のHALみたいに暴走してる。嫉妬が暴走の原因だから、あなたのことが心配。本当に気をつけて。でも、もし可能なら早くここから連れ出して欲しい。
 森谷 愛 目黒区三田2丁目……」

 メールには小さな画像が添付されていた。画質は粗かったが、そこに写っていたのは、昨日消された画像の美少女がそのまま成長した姿に相違なかった。
 僕は急いでMacを立ち上げると、滅多に使わない予備のアドレスから短いメールを送信した。

「これからそっちに向かう。必ず助け出すからね。 悠」

 幸い住所は同じ目黒区だ。タクシーを拾って、マンションまで行ってみたが、セキュリティーが厳重で中には入れない。僕は管理人室に声を掛けた。
「すみません。私の知り合いがこちらのマンションの9階に監禁されているようなんです。ちょっと確かめていただくことはできませんか?」
「9階って森谷さんだね? あんた娘さんにつきまとってるストーカーでしょ。警察に電話するよ」
 僕は慌ててマンションを後にした。

 こうなったらもう警察に頼むしか手立てがない。もしストーカーとして手配されていたら逆に疑われるかもしれないが、目黒警察は目と鼻の先だった。

「夜分にすみません。こちらに猪俣和雄さんって刑事さんがいらっしゃると思いますが、実は私の知人から、この近くのマンションに監禁されてるってメールがあったんです」
「ちょっと待っててくださいね」と当直の警察官が重い腰を上げた。電話で何か話しているが、その悠長なやりとりが僕をイライラさせる。
「猪俣和雄だって」と警官が話す声が耳に入った。
 受話器を置いた警官に向かって僕は大きな声で叫んだ。
「未成年の少女が拉致監禁されてるんですよ」
 しばらくすると、私服警官がエレベーターから降りてきた。
「こちらで話を聞きましょう」と取調室のような部屋に案内される。
「猪俣和雄と知り合いですか?」
「兄の同級生なんです」
「そうか、残念だったね」と言われた。
「はい」と判ったようなふりをする。言葉の意味は理解できなかったが、墓穴を掘らないために余計なことは聞かないことにした。
 身分証明書を提示するように要求されたが、彼は面倒くさそうにその内容を調書に書き込んでいた。
「それで、メールか何かで助けてくれって言われたんですね?」
「はい」
「そのメールを見せてくれますか?」
 僕は躊躇した。ヒューマノドロイドが暴走してるって、そんな話をこの警察官が信用するだろうか?
「メールはないの?」
 僕は仕方なくスマートフォンの画面を見せた。彼はメールの文面を読むと吹き出しそうになるのを堪えていた。
「これ何かのテレビ番組の取材? マンションの前で、実はなんとかテレビですって待ち受けてるとか」
「いや、ほんとにこのマンションに監禁されてるんです」
「東工大の大学院っていったらずいぶん優秀なんでしょう? 勉強しすぎかな? なんとかと天才は紙一重って言うからね」
 彼は真顔で言った。
「君は来るところを間違えてる。明日、精神科か心療内科のある病院に行くといいと思いますよ」

 途方に暮れながら警察を出た僕は、すぐ近くのマンションにいるはずの愛にメールした。

「ごめん。手を尽くしてるけど、今は糸口が見つからない」

 無力感に支配され、肩を落としながら目黒線に乗り、大岡山の駅を降りて自分の部屋に向かう途中で電話が鳴った。

「警視庁目黒警察署刑事課の猪俣です」と電話の主は言った。
「猪俣さん!」と僕は声を上げた。「よかった。さっき、目黒警察に行ってきたばかりなんです」
「聞きましたよ。ご苦労様でした。担当官は私のこと何か言ってましたか?」
「なにか、残念だったとか。どういう意味かよくわからなかったんですけど」
「実は10月から他の署に転属になるんですよ。ま、それはともかく、今少し話せます?」
「これから警察に戻りましょうか?」
「もう遅いから電話でどうですか」
「もちろんです」
「署で話されたことと重複するかもしれませんが、詳しく聞かせて貰えますか?」
 僕は聞かれるままに質問に答え、判る限りの説明をした。
「担当官が失礼なことを言って申し訳なかったね。普通の警察官は君のような話は理解できないから。これから早速そのマンションに行ってみますよ」

 地獄で仏とは当にこのこと——と僕はほっと胸を撫で下ろし、部屋に戻って電話を待った。最初の電話を切って1時間も待たないうちに連絡があった。

「悠君、待たせたね。マンションに行ってみたけれど、部屋には誰もいなかった」
「そんな……。それじゃ、お兄さんの優は?」
「人っ子一人、犬ネコ一匹いない。もぬけの殻だったよ」
「それじゃ、あのメールは?」
「君に一つ確かめたいことがあるんだ」
「なんでしょう?」
「その愛って子に会ったことは?」
「会ったこと。もしその……彼女が本当にお兄さんの言うとおりのAIなら、会ったというか、直接話したことはありますが」
「生身の愛さんには会ったことがないんだね?」
「はい。そうなります」
「例えば……その、お兄さんだという優さんにからかわれているとか、或いは愛さんという女性は実在してもある種の狂言とか。今までに恨みを買うような、或いはいたずらされるような原因。例えば研究や特許権のライバル関係とか……心当たりは?」
「僕は……私は、研究と言ってもロボットアームのような地味なものが対象ですし、院生になったばかりで人に恨まれたり妬まれたりするような成果もまだ挙げられてないんです」
「なるほど。ま、何か思い出したら教えてください。とにかく、今日はもう遅いから、明日私から九州大学の方に連絡してみましょう。一般の人には個人情報保護法の壁がありますからね」
「ありがとうございます。助かります」
「浜松にはあまり帰ってないみたいだけれど、お兄さんとはずいぶん会ってないんでしょう?」
「そうですね」
「それじゃ、私の方が先に会うかな? 9月の終わりに一度浜松に帰る予定だから」
「多分、僕は正月も帰れないかもしれないので」
「お兄さんに会ったら弟は元気してたって伝えておくよ」
「ありがとうございます」

 僕は自分の部屋に戻ってMacを立ち上げる。ハッキングされるリスクよりも、情報を得られない不利益のほうが今は大きい。
 残念ながら、愛からのメールは来ていなかったが、研究室から「検査の結果は『陰性』だったため明日は通常どおり」という旨のメールが入っていた。

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登場人物紹介

Yu=杉本悠

東京工業大学の大学院博士課程でロボット工学を専攻する院生

趣味はギター。彼女いない歴一年のつもりだったが、もしかしたらずっといなかったのか?

Ai=森谷愛

英語と日本語を完璧にこなすバリンガル

九州大学共創学部2年に在学中で、父親はロボット工学の森谷幸弘、母親はイギリス人と言うが真相は?

森谷優

愛の兄で、悠と同い年という

AIを駆使し、高度な技術を持つミステリアスな存在


森谷幸弘

愛と悠の父親で、イギリス在住のロボット工学の権威

アンドロイドやヒューマノイドを超え、人と見分けがつかないヒューマノドロイドを開発していると言われる

坂井刑事

警視庁目黒警察署に勤務する刑事

城山刑事

警視庁目黒警察署の新人刑事

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