第10話 記憶のベール
文字数 2,837文字
朝、目覚めると脂汗をかいていた。
汗をかくってことは? 自問自答した。これは夢じゃないよな? ベッドの上で頬をつねってみた。痛いとちゃんと感じる。
僕は研究室に、今日も休むと連絡を入れた。
冷静に考えてみれば、昨日の猪俣刑事の話は矛盾している。
3年前、森谷博士は『いつかそれほど遠くない未来』と語った。もしあの講演の2年前に人と見分けがつかないほどのヒューマノドロイド——それは僕自身のことだが——が完成していたら、それがたとえ森谷博士のものでなかったにしても、そんな予言的発言をするはずはない。まして、それがアンドロイド自身を5年間も欺し通せるほど高度なレベルのものであればなおさらのこと。
確かに僕は風邪ひとつひかない。しかし、大気を呼吸し、時々欠伸もする。腹も減るし、肩も凝る。食物や飲料から養分や水分を摂り、排泄して汗もかく。それは新陳代謝の証しだ。髪も伸びれば髭も爪も伸びる。そうして毎日数千億個もの細胞が死に、新たな細胞と入れ替わる。酒を飲めば酔っ払うし、運動すれば身体は疲れる。それに……書くのは止めておこう。要するに同世代の男子なら誰でもあることだ。
実際、これほど無駄が多ければ相当のエネルギーロスになっているはずだ。そのうえ、最近の僕はよく落ち込む。この落ち込むという状態をAIやアンドロイドで作り出すのはなかなか難しいのではないか?
洗面で顔を洗い、歯を磨き、髭を剃り、そのカミソリで小指の先を少し切ってみた。夕べの夢の中とは違って真っ赤な血液が流れ「痛っ」と声が出た。
その痛みをきっかけに突然子供の頃の記憶が蘇る。
小4の夏休みに、友だちと工場の跡地で遊んでいたときのこと。僕は3メートルくらいの高さの屋根から、並べてあった廃材の鉄骨の上に落ち、骨折は免れたものの左の肩を4針縫った。その晩は38℃まで熱が上がり、激しい痛みで朝までうなされた。
左肩を鏡に映すと、少し盛り上がった傷跡が今も残っている。
次の瞬間、硬く結ばれていた紐を解くように記憶のベールが剥がされ、自分の過去に目映いほどの光が差し込んだ。
なぜ兄と疎遠になったのか、今まで自分でもよく理解できなかったその理由もはっきりと思い出した。
地元の高校を中退してなかなか定職に就かなかった兄は、僕とは何から何まで正反対だった。「俺はおまえのおかげでこんな風になった」それが兄の口癖だった。
兄は僕のことを羨 み、嫉 み、そして恨 んだ。僕に言わせればそれは逆恨みだ。
兄は幼い頃に母親を失って辛い思いをした。しかし、僕の母は自分の子供ではない兄を気遣っていつも優しく接していたし、父は兄の反抗的な態度に心底困り果てていた。僕はそんな両親を哀れに思った一方で、兄に同情したことは一度もない。正直なところ親の気持ちを理解しようともしない兄を最低の人間だと軽蔑した。兄は、僕の学生生活を、勉強を、恋愛をことあるごとに妨害した。このままでは受験もおぼつかないと思った僕は、両親と相談して高3に上がる年に東京へ避難した。
僕が事故で入院した後、兄は意識が戻らない僕に付き添い、「俺のせいだ。すまなかった」と泣きながら看病していたと両親から聞かされた。僕が退院すると、兄は人が変わったように真面目に働き、結婚して家庭を築いた。それでも僕は兄を避け続けた。記憶がベールに包まれていても、嫌悪感だけは心の奥底に根付いていたのだろう。
そんな兄に自分から電話するのは未だ抵抗があったが、勇気を振り絞って番号をプッシュした。
「悠が俺に電話してくるなんて珍しいな。こんな朝早くからどうした?」と言う兄は、なんだか少し嬉しそうだった。
挨拶もそこそこに、僕は猪俣刑事の話を伝えた。
「猪俣? あいつなら去年殉職したよ」
兄の言葉で全てが繋がった。あの電話は優だ。
「ありがとう! やっぱり頼りになるのは家族だね」
「何だ? 変なやつだな。今度の正月は帰るのか?」
「あぁ。考えておくよ」
「元気でな」
「兄貴も身体大事にね」
「おぅ」
兄と言葉を交わしたのは何年ぶりだろう?
どうして気づかなかったんだろう? アンドロイドだったら声はいくらでも合成できるってことに。
愛は間違いなくあのマンションにいる。
監禁はすぐに信じて貰えなくても、詐欺であれば捜査の対象にして貰えるかもしれない。
「目黒署の猪俣刑事を名乗る詐欺に遭ったみたいなんです」と電話で伝えると、僕はすぐに目黒警察に向かった。
窓口で、電話したことを伝える。受話器を手で押さえて小声で話していたが、話は漏れ聞こえた。
「坂井さん、猪俣から詐欺の電話受けたって人が来てるんだけどどうします?」
一昨日の担当者とは打って変わった紳士的な態度で、猪俣刑事の同僚だったという刑事が話を聞いてくれた。
「刑事課の坂井です。猪俣とはよく一緒に仕事をしていました。若いけど良い相棒だったんですよ」と名刺を渡してくれた。
面接室で、僕は猪俣刑事からの電話の内容を少し伝えた。勿論、アンドロイドのことは話さなかったが。
「実は、最近猪俣の幽霊が出たって話がありましてね。それで、あなたはその猪俣に会ったんですか?」
「電話だけです」
「電話だけで猪俣だと信じてしまった訳ですね。それで、被害は?」
「私ではなく、知り合いが監禁されているんです」
「監禁?」と坂井刑事が色めき立つ。
「そのニセの猪俣刑事が、電話で九州大に確かめたと言っていた愛さんです」
「すぐに九州大学に確認しましょう。電話番号とか学部とか、フルネーム。判ることをここに書いてください」
坂井刑事は、メモを持って部屋を出て行ったが、10分ほど待っていたら戻ってきた。
「確かに、あなたの言うとおり、森谷愛さんは共創学部の2年に在籍していますよ」
「それじゃ、彼女が監禁されているマンションに一緒に行って頂けますか?」
「目黒区内なんですね?」
「はい!」
坂井刑事はその場でマンションに電話をした。
「ストーカー被害ですか? ちょっと調べてみますので、あとでまたかけ直しますが、よろしいですか」
「管理人が、2日前の夜に若い男が訪ねてきたって言うんですが」
「それは私です。確かに管理人にそう言われました」
「ちょっと待っててね」と言うと、坂井刑事はまた出て行った。
また障害が立ちはだかったと僕はイライラし始めたが、しばらく経って戻ってくるなり、坂井刑事は僕に席を立つよう促した。
「被害届は出されていませんでした。管理人にストーカーの話をしたのは愛さん自身じゃなく、どうやら一緒に住んでいた兄らしい」
「そのお兄さんに監禁されたって、愛さんからのメールにあったんです。もし兄弟が何かの犯罪に巻き込まれているとしたら……」
「なるほど」と坂井刑事は頷いた。
「信じてくれるんですね」
「2か月前、同じマンションで……」と言いかけて坂井刑事は口を噤んだ。何か犯罪があったのかもしれないが、それも今の僕にとっては追い風だ。
「今すぐそのマンションに行きましょう」
汗をかくってことは? 自問自答した。これは夢じゃないよな? ベッドの上で頬をつねってみた。痛いとちゃんと感じる。
僕は研究室に、今日も休むと連絡を入れた。
冷静に考えてみれば、昨日の猪俣刑事の話は矛盾している。
3年前、森谷博士は『いつかそれほど遠くない未来』と語った。もしあの講演の2年前に人と見分けがつかないほどのヒューマノドロイド——それは僕自身のことだが——が完成していたら、それがたとえ森谷博士のものでなかったにしても、そんな予言的発言をするはずはない。まして、それがアンドロイド自身を5年間も欺し通せるほど高度なレベルのものであればなおさらのこと。
確かに僕は風邪ひとつひかない。しかし、大気を呼吸し、時々欠伸もする。腹も減るし、肩も凝る。食物や飲料から養分や水分を摂り、排泄して汗もかく。それは新陳代謝の証しだ。髪も伸びれば髭も爪も伸びる。そうして毎日数千億個もの細胞が死に、新たな細胞と入れ替わる。酒を飲めば酔っ払うし、運動すれば身体は疲れる。それに……書くのは止めておこう。要するに同世代の男子なら誰でもあることだ。
実際、これほど無駄が多ければ相当のエネルギーロスになっているはずだ。そのうえ、最近の僕はよく落ち込む。この落ち込むという状態をAIやアンドロイドで作り出すのはなかなか難しいのではないか?
洗面で顔を洗い、歯を磨き、髭を剃り、そのカミソリで小指の先を少し切ってみた。夕べの夢の中とは違って真っ赤な血液が流れ「痛っ」と声が出た。
その痛みをきっかけに突然子供の頃の記憶が蘇る。
小4の夏休みに、友だちと工場の跡地で遊んでいたときのこと。僕は3メートルくらいの高さの屋根から、並べてあった廃材の鉄骨の上に落ち、骨折は免れたものの左の肩を4針縫った。その晩は38℃まで熱が上がり、激しい痛みで朝までうなされた。
左肩を鏡に映すと、少し盛り上がった傷跡が今も残っている。
次の瞬間、硬く結ばれていた紐を解くように記憶のベールが剥がされ、自分の過去に目映いほどの光が差し込んだ。
なぜ兄と疎遠になったのか、今まで自分でもよく理解できなかったその理由もはっきりと思い出した。
地元の高校を中退してなかなか定職に就かなかった兄は、僕とは何から何まで正反対だった。「俺はおまえのおかげでこんな風になった」それが兄の口癖だった。
兄は僕のことを
兄は幼い頃に母親を失って辛い思いをした。しかし、僕の母は自分の子供ではない兄を気遣っていつも優しく接していたし、父は兄の反抗的な態度に心底困り果てていた。僕はそんな両親を哀れに思った一方で、兄に同情したことは一度もない。正直なところ親の気持ちを理解しようともしない兄を最低の人間だと軽蔑した。兄は、僕の学生生活を、勉強を、恋愛をことあるごとに妨害した。このままでは受験もおぼつかないと思った僕は、両親と相談して高3に上がる年に東京へ避難した。
僕が事故で入院した後、兄は意識が戻らない僕に付き添い、「俺のせいだ。すまなかった」と泣きながら看病していたと両親から聞かされた。僕が退院すると、兄は人が変わったように真面目に働き、結婚して家庭を築いた。それでも僕は兄を避け続けた。記憶がベールに包まれていても、嫌悪感だけは心の奥底に根付いていたのだろう。
そんな兄に自分から電話するのは未だ抵抗があったが、勇気を振り絞って番号をプッシュした。
「悠が俺に電話してくるなんて珍しいな。こんな朝早くからどうした?」と言う兄は、なんだか少し嬉しそうだった。
挨拶もそこそこに、僕は猪俣刑事の話を伝えた。
「猪俣? あいつなら去年殉職したよ」
兄の言葉で全てが繋がった。あの電話は優だ。
「ありがとう! やっぱり頼りになるのは家族だね」
「何だ? 変なやつだな。今度の正月は帰るのか?」
「あぁ。考えておくよ」
「元気でな」
「兄貴も身体大事にね」
「おぅ」
兄と言葉を交わしたのは何年ぶりだろう?
どうして気づかなかったんだろう? アンドロイドだったら声はいくらでも合成できるってことに。
愛は間違いなくあのマンションにいる。
監禁はすぐに信じて貰えなくても、詐欺であれば捜査の対象にして貰えるかもしれない。
「目黒署の猪俣刑事を名乗る詐欺に遭ったみたいなんです」と電話で伝えると、僕はすぐに目黒警察に向かった。
窓口で、電話したことを伝える。受話器を手で押さえて小声で話していたが、話は漏れ聞こえた。
「坂井さん、猪俣から詐欺の電話受けたって人が来てるんだけどどうします?」
一昨日の担当者とは打って変わった紳士的な態度で、猪俣刑事の同僚だったという刑事が話を聞いてくれた。
「刑事課の坂井です。猪俣とはよく一緒に仕事をしていました。若いけど良い相棒だったんですよ」と名刺を渡してくれた。
面接室で、僕は猪俣刑事からの電話の内容を少し伝えた。勿論、アンドロイドのことは話さなかったが。
「実は、最近猪俣の幽霊が出たって話がありましてね。それで、あなたはその猪俣に会ったんですか?」
「電話だけです」
「電話だけで猪俣だと信じてしまった訳ですね。それで、被害は?」
「私ではなく、知り合いが監禁されているんです」
「監禁?」と坂井刑事が色めき立つ。
「そのニセの猪俣刑事が、電話で九州大に確かめたと言っていた愛さんです」
「すぐに九州大学に確認しましょう。電話番号とか学部とか、フルネーム。判ることをここに書いてください」
坂井刑事は、メモを持って部屋を出て行ったが、10分ほど待っていたら戻ってきた。
「確かに、あなたの言うとおり、森谷愛さんは共創学部の2年に在籍していますよ」
「それじゃ、彼女が監禁されているマンションに一緒に行って頂けますか?」
「目黒区内なんですね?」
「はい!」
坂井刑事はその場でマンションに電話をした。
「ストーカー被害ですか? ちょっと調べてみますので、あとでまたかけ直しますが、よろしいですか」
「管理人が、2日前の夜に若い男が訪ねてきたって言うんですが」
「それは私です。確かに管理人にそう言われました」
「ちょっと待っててね」と言うと、坂井刑事はまた出て行った。
また障害が立ちはだかったと僕はイライラし始めたが、しばらく経って戻ってくるなり、坂井刑事は僕に席を立つよう促した。
「被害届は出されていませんでした。管理人にストーカーの話をしたのは愛さん自身じゃなく、どうやら一緒に住んでいた兄らしい」
「そのお兄さんに監禁されたって、愛さんからのメールにあったんです。もし兄弟が何かの犯罪に巻き込まれているとしたら……」
「なるほど」と坂井刑事は頷いた。
「信じてくれるんですね」
「2か月前、同じマンションで……」と言いかけて坂井刑事は口を噤んだ。何か犯罪があったのかもしれないが、それも今の僕にとっては追い風だ。
「今すぐそのマンションに行きましょう」