第5話 AI
文字数 2,485文字
愛はもうとっくに東京に来ているはずなのに、あれからまったく連絡がない。心配していたら土曜の夜にやっとメールが届いた。
日曜の昼下がり、愛が待ち合わせに指定したのは恵比寿のオープンカフェだった。
僕は約束の時間より5分早く着いたが、どこにもそれらしい姿はない。見渡すとテラスのパラソルの下に車椅子が一つ。しかし、それに人は乗っていない。愛はあれで来たんだろうか? と、車椅子の斜め向かいを見ると、黒いシャツを着てサングラスをかけた若い男性が軽く手を挙げた。
近づくと、サングラスを外して眩しそうにこちらを見ている。日本人離れした彫りの深い顔立ちで、すぐに優とわかった。
「優さんですね」
「悠君だね?」
どれほど早く来たのだろう? 彼のグラスはほとんど空になっていた。
「はじめまして」と挨拶すると、軽く会釈を返された。
「まぁ、ここに座って」と目で合図しながら彼は言う。
「悪いけど僕はもう飲み終わったからマスクをさせて貰うよ」
用心深そうな男だな……と僕は思った。それに同い年とは思えないほど偉そうな態度だ。
「愛さんは?」
「とりあえず、何か注文したら?」
暑かったのでレモンミントソーダを注文し、僕がひとくちストローを啜 ると彼はこう言った。
「そろそろいいかな?」
「愛さんはここにいるの?」と僕はたずねた。
「あぁ、いるよ」と彼は車椅子の座席を指さした。
「どういう意味?」
「ちょっと待ってね。今、呼び出すから」
優は車椅子の座席から大きめのラップトップPCを取り出し、テーブルの上に載せて画面を開く。指紋認証でロックが解除されると、そこにはお馴染みのチャット画面があった。
「ここに何か打ってみて。画面の向こうに愛がいると想定して」
「想定?」と言いながら僕はキーを打った。
僕が「今どこにるの?」と打つと、画面にチャットの文字が流れた。
>Yu「今どこにるの?」
>Ai 「私はここにいるの。過干渉の兄が説明するはずなんだけど」
>Yu「ごめん。なんだか訳がわからないな」
>Ai 「また謝る。今日、謝るのは私の方だと思うんだけど」
いつもの愛だった。いったいどこでチャットしているのだろう?
「愛さんはどこにるの? どこかに隠れているのかな?」と、もう一度たずねた。
「ここに。この中にいる」と優はPCを指さす。
「意味がよくわからないんだけど」
優は徐 ろに語り始めた。
「にわかには信じ難いことかもしれないけど、妹の愛はぼくが作ったAIなんだ」
耳に届く言葉が僕には理解できない。いや、理解は出来ても心が受け入れることを拒んでいた。
僕はしばらく言葉を発することが出来ずに、じっとPCの画面を見つめていた。
「いつものように、何か普段のような会話をしてみて」と優に促されて、僕は恐る恐るキーを打った。
>Yu「今、何か音楽聴いてる?」
>Ai 「悠の動画を繰り返し再生してる」
>Yu「動画って、クラプトンの?」
>Ai 「そう。大岡山の話ね。あれほんとは兄の記憶なんだ」
>Yu「え? でも、あのメールは?」
>Ai 「あれもそこにいる兄が書いたの。私のいつもの口調と違うでしょ?」
>Yu「君はほんとに愛なの?」
>Ai 「そうだよ」
>Yu「森谷愛だよね? AIじゃなく」
>Ai 「兄が説明したでしょ? 森谷愛はAI、つまりArtificial Intelligenceなの」
PCを自分の方に向けると、優は素早くキーを叩く。UNIX系のコマンドやエンジニアが使う言語なら、手元を見ていれば大抵わかる。なのに彼は、見たこともないコマンドを打ち込むと、機械語を目にもとまらぬ速さで入力し始めた。
君はマシン語でプログラミングしてるの? と訊ねたくなったが、鉛のように重たくなった僕の唇は全く動かない。
優が手を止めると、PCには洗練されたデザインの設定ウィンドウが表示されていた。
「入力した条件の通りにこの子は思考し、相手の反応を受け止めて、過去を思い出したり、未来を予測したり、そして判断して文字……いや文章を生み出す。考えるだけじゃなくて、感情があるんだ。それも単純な喜怒哀楽じゃなく、人を愛したり憎んだり尊んだりできる新世代のAI。愛を知った初めての人工知能だよ」
勝ち誇ったような顔で説明する優とは対称的に、僕は画面から目を逸らして人目もはばからず涙を流し始めていた。
優に肩を叩かれて再びPCの画面に視線を移すと、チャット画面にAiの言葉が流れた。
>Ai 「ごめんね、人間じゃなくて」
僕はキーボードに本音をぶつけた。
>Yu「ふざけんなよ。意味わかんないよ」
>Ai 「傷つけるつもりじゃなかったの。でも、悠のようなエンジニアを信じ込ませることが出来たら凄い成果になるって。いつか兄は父と一緒に学会で発表したいって。悠は恥ずかしいだろうけど、この1週間のやりとりは楽しかったよ。それにすごく嬉しかった。『手足がなかったとしてもかまわない』って悠が言ってくれたこと。だって私……」
僕は耐えられなくなって、バシンッ——と音を立てるほど激しく液晶画面と閉じた。
「そんなに乱暴に扱ったら壊れちゃうよ。愛が痛いってさ」
優の顔は半分マスクで隠されていても、その口元に不敵な笑みを浮かべていることは想像出来た。あの時、チャットで言われた『目は口ほどに物を言う』って言葉は、この瞬間のために優が仕掛けたものだったのか?
「悠くん大丈夫かい? 顔が真っ青だよ。そのレモンミントソーダをゆっくり飲んで、気持ちを落ち着かせなきゃ」
優の告白は、兄が母の子供ではないと知った中1の春を超える大きなショックだった。僕は何も口にすることが出来ないまま、夜を迎えた。
自分のMacを開くのが怖く、祖母がパソコンのことを怖いと言っていた気落ちが初めて判ったような気がした。
頭は混乱していたが、心の中で「何かが違う」と叫んでいる。しかし、いくら考えても頭の中がまとまらない。
明日は久々に研究が再開される。とにかく身体を休めなければ。
僕は冷たい水で眠剤を胃の中に流し込む。胃がキリキリと痛んだが、そのまま静かにベッドに横たわった。
日曜の昼下がり、愛が待ち合わせに指定したのは恵比寿のオープンカフェだった。
僕は約束の時間より5分早く着いたが、どこにもそれらしい姿はない。見渡すとテラスのパラソルの下に車椅子が一つ。しかし、それに人は乗っていない。愛はあれで来たんだろうか? と、車椅子の斜め向かいを見ると、黒いシャツを着てサングラスをかけた若い男性が軽く手を挙げた。
近づくと、サングラスを外して眩しそうにこちらを見ている。日本人離れした彫りの深い顔立ちで、すぐに優とわかった。
「優さんですね」
「悠君だね?」
どれほど早く来たのだろう? 彼のグラスはほとんど空になっていた。
「はじめまして」と挨拶すると、軽く会釈を返された。
「まぁ、ここに座って」と目で合図しながら彼は言う。
「悪いけど僕はもう飲み終わったからマスクをさせて貰うよ」
用心深そうな男だな……と僕は思った。それに同い年とは思えないほど偉そうな態度だ。
「愛さんは?」
「とりあえず、何か注文したら?」
暑かったのでレモンミントソーダを注文し、僕がひとくちストローを
「そろそろいいかな?」
「愛さんはここにいるの?」と僕はたずねた。
「あぁ、いるよ」と彼は車椅子の座席を指さした。
「どういう意味?」
「ちょっと待ってね。今、呼び出すから」
優は車椅子の座席から大きめのラップトップPCを取り出し、テーブルの上に載せて画面を開く。指紋認証でロックが解除されると、そこにはお馴染みのチャット画面があった。
「ここに何か打ってみて。画面の向こうに愛がいると想定して」
「想定?」と言いながら僕はキーを打った。
僕が「今どこにるの?」と打つと、画面にチャットの文字が流れた。
>Yu「今どこにるの?」
>Ai 「私はここにいるの。過干渉の兄が説明するはずなんだけど」
>Yu「ごめん。なんだか訳がわからないな」
>Ai 「また謝る。今日、謝るのは私の方だと思うんだけど」
いつもの愛だった。いったいどこでチャットしているのだろう?
「愛さんはどこにるの? どこかに隠れているのかな?」と、もう一度たずねた。
「ここに。この中にいる」と優はPCを指さす。
「意味がよくわからないんだけど」
優は
「にわかには信じ難いことかもしれないけど、妹の愛はぼくが作ったAIなんだ」
耳に届く言葉が僕には理解できない。いや、理解は出来ても心が受け入れることを拒んでいた。
僕はしばらく言葉を発することが出来ずに、じっとPCの画面を見つめていた。
「いつものように、何か普段のような会話をしてみて」と優に促されて、僕は恐る恐るキーを打った。
>Yu「今、何か音楽聴いてる?」
>Ai 「悠の動画を繰り返し再生してる」
>Yu「動画って、クラプトンの?」
>Ai 「そう。大岡山の話ね。あれほんとは兄の記憶なんだ」
>Yu「え? でも、あのメールは?」
>Ai 「あれもそこにいる兄が書いたの。私のいつもの口調と違うでしょ?」
>Yu「君はほんとに愛なの?」
>Ai 「そうだよ」
>Yu「森谷愛だよね? AIじゃなく」
>Ai 「兄が説明したでしょ? 森谷愛はAI、つまりArtificial Intelligenceなの」
PCを自分の方に向けると、優は素早くキーを叩く。UNIX系のコマンドやエンジニアが使う言語なら、手元を見ていれば大抵わかる。なのに彼は、見たこともないコマンドを打ち込むと、機械語を目にもとまらぬ速さで入力し始めた。
君はマシン語でプログラミングしてるの? と訊ねたくなったが、鉛のように重たくなった僕の唇は全く動かない。
優が手を止めると、PCには洗練されたデザインの設定ウィンドウが表示されていた。
「入力した条件の通りにこの子は思考し、相手の反応を受け止めて、過去を思い出したり、未来を予測したり、そして判断して文字……いや文章を生み出す。考えるだけじゃなくて、感情があるんだ。それも単純な喜怒哀楽じゃなく、人を愛したり憎んだり尊んだりできる新世代のAI。愛を知った初めての人工知能だよ」
勝ち誇ったような顔で説明する優とは対称的に、僕は画面から目を逸らして人目もはばからず涙を流し始めていた。
優に肩を叩かれて再びPCの画面に視線を移すと、チャット画面にAiの言葉が流れた。
>Ai 「ごめんね、人間じゃなくて」
僕はキーボードに本音をぶつけた。
>Yu「ふざけんなよ。意味わかんないよ」
>Ai 「傷つけるつもりじゃなかったの。でも、悠のようなエンジニアを信じ込ませることが出来たら凄い成果になるって。いつか兄は父と一緒に学会で発表したいって。悠は恥ずかしいだろうけど、この1週間のやりとりは楽しかったよ。それにすごく嬉しかった。『手足がなかったとしてもかまわない』って悠が言ってくれたこと。だって私……」
僕は耐えられなくなって、バシンッ——と音を立てるほど激しく液晶画面と閉じた。
「そんなに乱暴に扱ったら壊れちゃうよ。愛が痛いってさ」
優の顔は半分マスクで隠されていても、その口元に不敵な笑みを浮かべていることは想像出来た。あの時、チャットで言われた『目は口ほどに物を言う』って言葉は、この瞬間のために優が仕掛けたものだったのか?
「悠くん大丈夫かい? 顔が真っ青だよ。そのレモンミントソーダをゆっくり飲んで、気持ちを落ち着かせなきゃ」
優の告白は、兄が母の子供ではないと知った中1の春を超える大きなショックだった。僕は何も口にすることが出来ないまま、夜を迎えた。
自分のMacを開くのが怖く、祖母がパソコンのことを怖いと言っていた気落ちが初めて判ったような気がした。
頭は混乱していたが、心の中で「何かが違う」と叫んでいる。しかし、いくら考えても頭の中がまとまらない。
明日は久々に研究が再開される。とにかく身体を休めなければ。
僕は冷たい水で眠剤を胃の中に流し込む。胃がキリキリと痛んだが、そのまま静かにベッドに横たわった。