夏の日(2)
文字数 2,356文字
おにぎりと卵焼き、味噌汁に浅漬けという簡単な昼食を終え、小松原さんのために氷を浮かべた麦茶を出した。
「ありがとう」
グラスを受け取り、小松原さんは僕の借りたレシピ本をぱらぱらとめくる。
「こういう本見てたら、またお腹空いてきちゃうね」
僕が手料理を出し続けた結果なのか、食べることにあまり興味がない様子だった小松原さんも、今では立派な食いしんぼうになった。
「あ、これすごい」
小松原さんの手が、あるページで止まった。
「手作りピザだって! おうちでピザ作れるんだねえ」
と感心しきった様子でうなずいている。
「いいなあ、食べてみたいなあ」
「じゃあ今度、一緒に作ってみる?」
そう言うと、小松原さんはびっくりした顔になった。
「的場くん、ピザ作れるの?」
「作れるよ。結構面白いよ」
「すごい難しそうだけど」
「生地をこねて発酵させて成形して焼いてるだけだよ。て聞くと、工程が多いように感じるけど、やってみると意外と簡単なんだ」
「じゃあ、わたしにもできるかな?」
「できるよ。もしチャレンジしてみて大変だったり疲れたりしたら、あれに頼ればいいし」
「あれって?」
「あれ」
僕は作業台の脇にある、ホームベーカリーが指差した。
「強い味方だ」
パン好きの彼女の前で、何度か使ってみせたことがある。以来、小松原さんはホームベーカリーに絶大なる信頼を寄せるようになっていた。
「うん。確かにあれなら裏切らないね」
「でしょう? じゃあいつ作ろうか? せっかくだからトマトソースも手作りしたいね。この本に載ってるのだけじゃなく、他にも色々ピザレシピ調べてみようか」
「うん、色々な種類の食べたいな」
そう言った小松原さんの声に重なって、インターホンが鳴った。ややあって、玄関扉の向こうから「兄ちゃーん?」と蒼介の声が聞こえてくる。
「弟くん?」
小松原さんは不安そうに瞳を揺らした。
「わたし、帰ったほうがいいかな」
「なんで? いいよ。せっかくだから会っていって。蒼介、いい奴だから」
腰を浮かしかけた小松原さんを手で制し、僕は蒼介を迎え入れた。
「蒼介、昼飯は? 食べたの?」
「食べて来たよー」
蒼介が三和土に揃えられた小松原さんのスニーカーを見つける。
「え? 誰か来てる?」
「来てるよ」
「誰?」
「えーっと、名前は小松原想乃さんといいます」
「わあ、兄ちゃん家に呼ぶような友達いたんだね!」
蒼介は悪気なく言い、部屋に入った。
「あ、こんにちはー」
クッションの上でかたまっている小松原さんに向かって、笑顔で挨拶する。
「はじめましてー。弟の蒼介です。綾人兄ちゃんがいつもお世話になってますー」
僕と初めて会ったときも、蒼介は今のような調子だった。なんの迷いも計算もなく、真っすぐ相手に向かっていく。
蒼介の美点は、人を緊張させないことだ。
対面した者を、独特の親しみやすい空気で包み込む。
最初は戸惑っていた小松原さんも、蒼介に話しかけられるうち、自然と笑顔を浮かべていた。
二人が打ち解けたところで、僕は蒼介に尋ねた。
「そういえば、何か用だった?」
夏休みだから、特に用事もなく遊びに来ただけかもしれない。だけど蒼介のことだ、夏休みの宿題に悩み、早くも助けを求めに来た可能性も考えられた。
「あ、そうだった。ねえ、これ見て」
蒼介は背負って来たリュックを開くと、一枚のチラシを取り出した。
「ここ、連れてってほしいんだけど」
受け取ったチラシには大きく『第三回 巻根市古本まつり』の文字があった。
「古本まつり?」
「うん。来週、巻根市のコスモス会館ってところでやるんだよ」
「父さんたちは? 連れて行ってくれないの?」
「お父さんは仕事だし、お母さんはその日朝から友達の手伝いがあって忙しいって」
「そうかあ……」
「コスモス会館、駅からちょっと離れてるし、俺ひとりで行くのは大変そうだからだめだって、お母さん言うんだよね」
蒼介はそこで甘えるように、僕の顔を覗きこんだ。
「ねえ、兄ちゃん一緒に行こうよ。いいでしょう? お母さんも、兄ちゃんが一緒なら安心だって言ってたし」
「祥子さんが?」
「ねえ、だめ?」
「いや、うん、もちろん構わないけど、蒼介わかってる? これ古本まつりだよ? たぶん蒼介が想像しているようなお祭りじゃないよ?」
蒼介は普段、漫画しか読まない。古本に興味があるとは思えなかった。
「行っても、本のお店が並んでるだけだよ、きっと」
「ううん、広場のほうに色々出店があるんだよ。フリーマーケットもやるって、お母さん言ってた」
「へえ、それだと案外大きなイベントになる感じかな」
どうりで行きたがるわけだ。蒼介は出店で遊ぶのが好きなのだ。
「じゃあ当日、駅に集合な」
会場のコスモス会館は、ここから四駅先にある。
「やったー。ありがとう兄ちゃん」
早速スマホで巻根市の地図を検索した。会場の正確な位置を確認する。
「ほんとだ、駅からわりと歩くな。バス使ったほうがいいかも。あ、乗り場が複雑なのか」
祥子さんが蒼介に、ひとりで行くのは大変と言った意味がわかった。
「到着まで、どのくらいかかりそう?」
横から、蒼介が画面を覗きこんでくる。
ふと見やると、小松原さんが蒼介の持って来たチラシを凝視していた。
「小松原さん? 何かあった?」
スマホを蒼介に預け、小松原さんの傍らから一緒にチラシを覗いた。すると小松原さんは、隅に書かれた小さな文字を指差した。
「ここに書いてあるの。当日、絵本だけを集めたブースが出るって」
絵本と発音したとき、小松原さんの声は揺れた。
それで、彼女の考えが伝わった。
『ヒナちゃんのいと』
今はもう手に入らない、小松原さんの両親が描いたという絵本。
小松原さんはそれを、探そうとしているのだ。
「小松原さんも一緒に行こうよ、古本まつり」
僕は言った。
「ありがとう」
グラスを受け取り、小松原さんは僕の借りたレシピ本をぱらぱらとめくる。
「こういう本見てたら、またお腹空いてきちゃうね」
僕が手料理を出し続けた結果なのか、食べることにあまり興味がない様子だった小松原さんも、今では立派な食いしんぼうになった。
「あ、これすごい」
小松原さんの手が、あるページで止まった。
「手作りピザだって! おうちでピザ作れるんだねえ」
と感心しきった様子でうなずいている。
「いいなあ、食べてみたいなあ」
「じゃあ今度、一緒に作ってみる?」
そう言うと、小松原さんはびっくりした顔になった。
「的場くん、ピザ作れるの?」
「作れるよ。結構面白いよ」
「すごい難しそうだけど」
「生地をこねて発酵させて成形して焼いてるだけだよ。て聞くと、工程が多いように感じるけど、やってみると意外と簡単なんだ」
「じゃあ、わたしにもできるかな?」
「できるよ。もしチャレンジしてみて大変だったり疲れたりしたら、あれに頼ればいいし」
「あれって?」
「あれ」
僕は作業台の脇にある、ホームベーカリーが指差した。
「強い味方だ」
パン好きの彼女の前で、何度か使ってみせたことがある。以来、小松原さんはホームベーカリーに絶大なる信頼を寄せるようになっていた。
「うん。確かにあれなら裏切らないね」
「でしょう? じゃあいつ作ろうか? せっかくだからトマトソースも手作りしたいね。この本に載ってるのだけじゃなく、他にも色々ピザレシピ調べてみようか」
「うん、色々な種類の食べたいな」
そう言った小松原さんの声に重なって、インターホンが鳴った。ややあって、玄関扉の向こうから「兄ちゃーん?」と蒼介の声が聞こえてくる。
「弟くん?」
小松原さんは不安そうに瞳を揺らした。
「わたし、帰ったほうがいいかな」
「なんで? いいよ。せっかくだから会っていって。蒼介、いい奴だから」
腰を浮かしかけた小松原さんを手で制し、僕は蒼介を迎え入れた。
「蒼介、昼飯は? 食べたの?」
「食べて来たよー」
蒼介が三和土に揃えられた小松原さんのスニーカーを見つける。
「え? 誰か来てる?」
「来てるよ」
「誰?」
「えーっと、名前は小松原想乃さんといいます」
「わあ、兄ちゃん家に呼ぶような友達いたんだね!」
蒼介は悪気なく言い、部屋に入った。
「あ、こんにちはー」
クッションの上でかたまっている小松原さんに向かって、笑顔で挨拶する。
「はじめましてー。弟の蒼介です。綾人兄ちゃんがいつもお世話になってますー」
僕と初めて会ったときも、蒼介は今のような調子だった。なんの迷いも計算もなく、真っすぐ相手に向かっていく。
蒼介の美点は、人を緊張させないことだ。
対面した者を、独特の親しみやすい空気で包み込む。
最初は戸惑っていた小松原さんも、蒼介に話しかけられるうち、自然と笑顔を浮かべていた。
二人が打ち解けたところで、僕は蒼介に尋ねた。
「そういえば、何か用だった?」
夏休みだから、特に用事もなく遊びに来ただけかもしれない。だけど蒼介のことだ、夏休みの宿題に悩み、早くも助けを求めに来た可能性も考えられた。
「あ、そうだった。ねえ、これ見て」
蒼介は背負って来たリュックを開くと、一枚のチラシを取り出した。
「ここ、連れてってほしいんだけど」
受け取ったチラシには大きく『第三回 巻根市古本まつり』の文字があった。
「古本まつり?」
「うん。来週、巻根市のコスモス会館ってところでやるんだよ」
「父さんたちは? 連れて行ってくれないの?」
「お父さんは仕事だし、お母さんはその日朝から友達の手伝いがあって忙しいって」
「そうかあ……」
「コスモス会館、駅からちょっと離れてるし、俺ひとりで行くのは大変そうだからだめだって、お母さん言うんだよね」
蒼介はそこで甘えるように、僕の顔を覗きこんだ。
「ねえ、兄ちゃん一緒に行こうよ。いいでしょう? お母さんも、兄ちゃんが一緒なら安心だって言ってたし」
「祥子さんが?」
「ねえ、だめ?」
「いや、うん、もちろん構わないけど、蒼介わかってる? これ古本まつりだよ? たぶん蒼介が想像しているようなお祭りじゃないよ?」
蒼介は普段、漫画しか読まない。古本に興味があるとは思えなかった。
「行っても、本のお店が並んでるだけだよ、きっと」
「ううん、広場のほうに色々出店があるんだよ。フリーマーケットもやるって、お母さん言ってた」
「へえ、それだと案外大きなイベントになる感じかな」
どうりで行きたがるわけだ。蒼介は出店で遊ぶのが好きなのだ。
「じゃあ当日、駅に集合な」
会場のコスモス会館は、ここから四駅先にある。
「やったー。ありがとう兄ちゃん」
早速スマホで巻根市の地図を検索した。会場の正確な位置を確認する。
「ほんとだ、駅からわりと歩くな。バス使ったほうがいいかも。あ、乗り場が複雑なのか」
祥子さんが蒼介に、ひとりで行くのは大変と言った意味がわかった。
「到着まで、どのくらいかかりそう?」
横から、蒼介が画面を覗きこんでくる。
ふと見やると、小松原さんが蒼介の持って来たチラシを凝視していた。
「小松原さん? 何かあった?」
スマホを蒼介に預け、小松原さんの傍らから一緒にチラシを覗いた。すると小松原さんは、隅に書かれた小さな文字を指差した。
「ここに書いてあるの。当日、絵本だけを集めたブースが出るって」
絵本と発音したとき、小松原さんの声は揺れた。
それで、彼女の考えが伝わった。
『ヒナちゃんのいと』
今はもう手に入らない、小松原さんの両親が描いたという絵本。
小松原さんはそれを、探そうとしているのだ。
「小松原さんも一緒に行こうよ、古本まつり」
僕は言った。
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