病の日(2)

文字数 3,098文字

「はい?」
 僕のつぶやきが聞こえたのか、車椅子を押していた彼が歩みを止め、こちらに顔を向けた。見たことのある制服を着ている。隣市の高校のものだと、遅れて気づいた。

「あの、もしかして今、俺を呼びました?」
 おそるおそるといった様子で、彼は尋ねてきた。
「どこかでお会いしましたっけ?」

 なんと答えるべきか。
 僕が口ごもっていると、相手はこちらの目の動きを読んだのか、
「もしかして兄の友達の方だったり……しますか?」
 と車椅子の人物の肩にそっと手を置いた。

「……はい」
 僕は答え、その人物を窺った。パサついた白い髪に、血色の悪い顔、痩せた身体。間違いない、桐丘だ。

「ああ、そうですか。良かった」
 桐丘を兄と呼んだ彼は、ぱっと表情を輝かせた。
「今日は天気がいいんで、これから兄を散歩に連れ出そうとしていたところだったんです。もしよろしければ一緒に――」
 そこまで言いかけて、桐丘の弟は僕のパジャマの裾からのぞく、包帯に気づいた。「あ、ごめんなさい」

「いいえ。ただの打撲で、治りかけてるんです。散歩、ご一緒させてください」

 一階の廊下を抜け、中庭に出た。僕を気遣ってくれたのか、桐丘の弟はゆっくりと車椅子を押した。

「友達に会えて良かったね、兄さん」
「ほら、風が気持ちいいね。わかる?」

 桐丘の弟は、兄に向って優しく声掛けしていた。
 一方、桐丘は何も言葉を発せず、焦点の合わない目をし続けていた。半開きの口からは、涎が糸を引いて垂れている。弟は兄の正面に回りこむと、丁寧に口元を拭った。

「こんな状態ですけど、半年前に比べたらかなり回復したほうなんですよ」
 桐丘の弟は、どこか達観した顔で言った。

「すみません。今日までお兄さんのお見舞いに伺えず」
 僕は話を合わせた。

「いいんです。兄に友達がいるとわかって、俺は嬉しいです。ずっと、孤独な人だと思っていたので」

 空いているベンチを見つけ、僕たちは並んで腰かけた。弟は桐丘のひざ掛けを直し、顔にかかった髪を耳にかけてやる。
 桐丘の手首には、入院患者であることを示すバンドが巻かれていた。名前が記されている。桐丘丈一郎。初めて知る、彼のフルネームだった。

「今日は親が二人とも仕事なんで、俺だけ見舞いに来たんです」
 弟はそれから、自身のことを簡単に話した。名前は桐丘雅也。学年は僕より一つ上の、高校二年ということだった。

 雅也さんは僕が年下とわかっても、敬語で話し続けた。
「的場さんは、兄とはどこで……?」

「え?」
「あ、いや、兄は行動範囲が極端に狭いから、どこで的場さんと知り合ったのか気になって」

「あー……」
 僕は考えを巡らせた。本当のことを言っても、雅也さんには信じてはもらえないだろう。
「えっと、ネットで知り合って、会うようになったんですけど」

「へえ、そうだったんですか」
 僕の受け答えはだいぶぎこちなかったと思うが、雅也さんが疑う様子はなかった。

 しばらくは、当たり障りのない話をした。その間、雅也さんは二度ほど桐丘の涎を拭ってやっていた。対して、桐丘は一切の反応を見せなかった。まるで魂が抜け落ちてしまったみたいだ。

 三度目に涎を拭ったとき、それまで穏やかに話していた雅也さんが、突然声を震わせた。
「兄は、どうして死のうとしたんでしょうか。どうして自殺なんて……」

 僕はぎょっとして、雅也さんに目をやった。
 
「的場さんに、兄は自分のことをどの程度話していましたか?」
「えっと、それはつまり……」
「兄の体質のことです」
「いや、まあ、大まかに聞いた程度ですけど」
「そうですか」

 雅也さんは肩を落とすと、縋るような目で僕を見た。
「家に引きこもりがちでしたけど、塞ぎこんだ様子はなかったんです。兄は俺たち家族の前で、普通に冗談を言ったり、笑ったりしていました。あの笑顔は、嘘だったんでしょうか? 本当は心の中で、ずっと死にたいと考えていたんでしょうか。確かに特殊な体質ではありますけど、そこまで思い詰めていたなんて、俺たち家族はまったく気づいてあげられなかった。俺や両親の前で、兄は本音で喋れていたんでしょうか。的場さんは、兄から何かその辺りのことを相談されたりしませんでしたか?」

「いえ、僕もそんな深い話まではしていなくて……すみません」
「そうですか」
 
 雅也さんは一瞬暗い目つきになったが、すぐに表情を切り替え、背筋を伸ばした。
「でもまあ、兄は今もこうして生きてくれていますしね。いつかまた、兄と言葉をかわせるときが来るかもしれない。それまで俺たち家族は、待ち続けようって決めたんです」
 前向きな言葉とは裏腹に、雅也さんの声は悲しく響いた。

「今、お兄さんの状態は?」
「はい、脳へのダメージが大きかったみたいで。首を吊ったせいで、長く酸素不足になっていた影響だと説明されました。だけど、絶対回復しますよ。俺も両親もそう信じています」

 雅也さんとは、連絡先を交換して別れた。これからも兄の様子を見に来てほしい、そのときは是非また三人で散歩をしましょうと雅也さんは言った。


 その夜、僕の枕元に桐丘が立った。

「あなた、普通に人間だったんですね」

 同室の者を気にして、僕は小声で言った。
 桐丘は僕のベッドの端に腰かけ、にやりと笑った。

「びっくりした?」
「驚きましたよ。弟さんに話を合わせるのも大変だったんですから」
「雅也には俺たちの関係を、ネットで知り合った友達だって説明したんだよね?」
「会話、聞こえてたんですか?」
「うん」
「そのわりに、なんの反応もなかったけど」
「仕方ないんだよ。俺は自由に体を動かせないし」
「一体どういうことなんですか? 半年前にあなたは自殺に失敗している。そのせいで自我を失っている。なのに今、あなたはここで僕と話をしている」
「うん、そうだね。綾人が今見ているこの姿は、俺の思念みたいなものだから」
「思念? それって……」
「意識とか魂とか、そういう類のものだと思う。俺自身も詳しくはわからない。これって幽体離脱の一種だったりするのかな? なんか面白いよね」
「面白くなんかないですよ」

 僕は呆れて、桐丘から目を逸らした。

「気丈に振る舞ってはいたけど、雅也さんはかなり追い詰められていると思います。あなたの自殺願望に気づけなかったことを後悔して、自分を責めている。その状態を幽体離脱だというなら、あなたは面白がっていないで、さっさと自分の体に戻る努力をすべきです。戻る方法がわからないのなら、僕と一緒に考えましょう」
「無理だよ」
「無理だなんて決めつけないでください」
「いや、そうじゃないんだ。例え戻る方法があったとしても、俺自身が体に戻りたくないんだよ。戻ったところで、俺を待っているのは地獄だから」
「あなたの体は、まったく回復する見こみがない、ということですか?」
「あんな体、うんざりしてるんだよ」
「それでも、雅也さんやあなたのご両親は、あなたの意識が戻るのを待っている」
「綾人は、俺に地獄へ戻れっていうの?」

 桐丘が身を乗り出してくる。桐丘の手が、僕の腕に触れた。触れられた、と目で見て認識はできたけれど、感触はなかった。桐丘の手の温度も重みも、何も感じない。

「俺はただの思念だから、触れられても綾人は何も感じないだろう? 現実の俺の体も、ずっとこれと同じ状態だったよ。何も感じないんだ。人に触れられる感覚、触れる感覚、それは硬いのか柔らかいのか、心地良いのか不快なのか、温度も匂いも感じられない。物を食べても味がしない。肌を引っ掻いてみても、まったく痛みを感じない」
 桐丘は僕の腕から手を放し、言った。
「小松原想乃が、俺の体から奪っていったんだ」
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登場人物紹介

的場綾人

料理が趣味の高校一年生。

想乃のことを気にして、何かと世話を焼く。

小松原想乃

クラスでは孤立しがち。

綾人と出会い、徐々に明るさを取り戻していく。

桐丘

雨が降るたび想乃の前に現れては、彼女を襲う、謎の男。

山根裕司

綾人の友人。

明るく頼りになる性格で、クラス内では調整役となることも。

安在絵里奈

クラス委員。

優しい性格で友人が多い。

戸田美南

中学三年生。想乃の従妹。想乃に対し、乱暴な態度をとる。

的場蒼介

小学生五年生。綾人とは継兄弟。無邪気な性格で兄を慕う。


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