雨の日(2)

文字数 2,106文字

 放課後になり、僕は小松原さんの家へと向かった。
 クラス名簿で住所を確認したところ、小松原家は学校から歩いて二十分程の距離にあった。
 傘をやや傾け、歩く。
 朝から降り続く雨は、午後になって強さを増した。今年は例年に比べ、雨が多い気がする。傘の下から、暗く沈んだ街並みを眺めた。目に映るあらゆる物が、ひっそりと息づいているように感じられた。
 運動公園に入る。ここを突っ切れば、小松原さんの家まで数分の距離のはずだ。

 公園内に人影はなかった。ぶらんこや滑り台などの遊具が、寂しく雨に打たれていた。
 苔むしたベンチの前を、シャッターを閉めた売店の前を、放置された自転車の前を通り、雑木林を左手に見ながら歩く。
 一瞬、目の端に人影が映った。
 立ち止まり、顔を向けた。たたんと、水滴が傘を叩いた。

 雑木林の奥に誰か立っていた。
 こんな天気の日に傘も差さず、ずぶ濡れの肩を激しく上下させている。
 その後ろ姿には、覚えがあった。

 ふいに、雑木林の人物が体をひねる。
 横顔が見えた。
 僕はあっと息を呑んだ。
 やっぱりそうだ、そこいるのは小松原さんだった。
 こんなところで、何をしているのだろう。

 彼女の視線の先に、もうひとりがいた。
 背が高く、体の薄い男だ。髪に隠れ、詳細な顔つきまではわからない。なんとなく、僕よりいくつか年上に見えた。

 おもむろに男が動いた。手にはゴルフクラブを握っている。
 男が腕を振り上げる。クラブの先が大きく半円を描く。描いたばかりの軌道をなぞるように、素早く振り下ろした。
 小松原さんがとび退いたのを見て、僕は男の意図に気づいた。
 クラブは、彼女を狙って下ろされたのだ。

「小松原さん!」
 僕の声で、小松原さんが一瞬こちらを向いた。その隙に、男は攻撃に踏み切ろうとする。
「危ないっ……!」

 寸でのところで、小松原さんはクラブを避けた。
「見えるんですか?」
 視線は男に向けたまま、小松原さんは僕に対して問いかけてきた。

「見えるって? え?」

「あなたはこの人のこと、見えてるんですか?」
 顎の先で男を指し示した。

 一瞬、何を言われているのかわからなかった。
 見えるのは当たり前だ。
 雑木林といっても、視界を遮るほど木は密生していない。僕の場所からでも、男の全体像は把握できた。

(ていうか、今そんなこと気にしてる場合なのか?)

「な、何してるんですか! そんなもの振り回して、危ないじゃないですか! やめてください!」
 僕は男に向かって、できる限り威勢のいい声を放った。
「やめないなら警察呼びますよ!」

 すると男は意外そうな顔で僕を一瞥し、消えた。
 そう、消えたのだ。
 一瞬のうちに、跡形もなく、男は姿を消した。
「え? え? 何今の、幻?」

 混乱する僕の元へ、小松原さんが走り寄ってくる。
「やっぱりあなた、今見えてましたよね? あの人のこと、見えてましたよね?」
 食い気味に尋ねられ、僕はこくこくとうなずいた。

 小松原さんは信じられないといった顔でつぶやいた。
「どうして見えるの」

 訊きたいことが山ほどあった。さっきの男は何者なのか。どうして襲われていたのか。なぜ男から逃げようとしなかったのか。わざわざ男に立ち向かうような真似をしていたのか。
 男はどうやってこの場からいなくなったのか。
 頭の整理が追いつかず、僕は金魚みたいに口をパクパクさせた。
 ひとまず小松原さんに傘を差し向ける。彼女は両手を振り、断りのジェスチャーをした。

「今日は汚れてもいい格好してきてるんで、大丈夫です。今さら雨に濡れる濡れないも関係ないですし。そんなことよりあなた、どうしてわたしの名前知ってるんですか?」
 そう言った直後、小松原さんは僕の制服を見て、気づいたみたいだ。
「ああそうか、同じ学校の人なんだ」

「実はクラスも同じです」
「え、そうなんですか? ごめんなさい。えっと――」
「的場綾人です」
「的場くん」

 初めて名前を呼ばれた。なんだか胸の奥がくすぐったい。
 そうだ、小松原さんはこんな声だったんだ。
 やわらかいのに芯がある、不思議な響きを持つ声。
 素っ気ない自己紹介の日以来、まともに声を聞けていなかった。教室にいる間、小松原さんは誰とも喋らず、常にひとりで過ごしている。クラスメイトと目を合わすことすら避けているようだった。

「本当、ごめんなさい。あの、わたしクラスの人と全然関わりないから、それでまだ名前覚えきれてなくて……」
 小松原さんはあわあわと弁解した。

「大丈夫。そんなに謝らなくていいよ」

「えっと、それで、あの……」
 ちらりと上目遣いに僕を見て、小松原さんは頭を下げた。
「今見たことは忘れてください。お願いします」

「で、でも……」
 あの男の存在は無視できない。

「忘れてください。お願いします」
 強い口調で繰り返すと、小松原さんは振りきるように駆け出した。
 呼びとめる僕の声は、彼女の耳に届かなかっただろう。

 今のやりとりから、小松原さんについての三つを知った。
 一つ、声がきれい。二つ、意外と足が速い。三つ、何か厄介ごとを抱えているらしい。

「あ、お土産渡し忘れた」
 ひとりその場に取り残され、僕は間抜けな声を上げた。
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登場人物紹介

的場綾人

料理が趣味の高校一年生。

想乃のことを気にして、何かと世話を焼く。

小松原想乃

クラスでは孤立しがち。

綾人と出会い、徐々に明るさを取り戻していく。

桐丘

雨が降るたび想乃の前に現れては、彼女を襲う、謎の男。

山根裕司

綾人の友人。

明るく頼りになる性格で、クラス内では調整役となることも。

安在絵里奈

クラス委員。

優しい性格で友人が多い。

戸田美南

中学三年生。想乃の従妹。想乃に対し、乱暴な態度をとる。

的場蒼介

小学生五年生。綾人とは継兄弟。無邪気な性格で兄を慕う。


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