うつくしい日
文字数 2,014文字
朝から実家でのんびり過ごし、夜を迎えた。
夕食後、ソファに寝転んだ蒼介は、瞬く間に船を漕ぎはじめた。父さんは風呂に入りに行った。
散らかったテーブルの上を片づけながら、
「こんな時間だし、綾人くん今晩は泊まっていけばいいのに」
祥子さんが言った。
「あ、間違えた。もうこのままずっとうちにいればいいのに」
「ううん、今日はアパートのほうに戻るよ」
そう断ると、祥子さんは咎めるような目を向けてから、肩をすくめた。
「強情だね」
「ごめん」
「でも、いつかはうちに戻って来るんでしょう?」
「そうだね」
「よろしい。じゃあ今日のところはアパートに戻るのを許そう」
「あ、許可制だったんだ?」
「そうだよ」
祥子さんはふふふと笑い、僕の肩を軽く小突いた。
熟睡する蒼介をベッドまで引きずっていってから、僕は玄関に向かった。少し長居をしすぎたかなと思う。家を出るのが名残惜しくて、ついつい帰り時刻を延ばしてしまった。
屈んで靴を履いていると、背後に立った祥子さんが、「またね」と言った。僕は振り返り、コートのポケットから小さな包みを取り出した。
「はい、これ」
「何?」
祥子さんは不思議そうな顔で受け取った。
「プレゼントだよ」
「ええ? どうしたの急に」
「ちょっと早いけど、生まれてくる兄弟に」
包みを開けた祥子さんは、目を細めた。
「靴下だ。可愛い」
「いいでしょう、それ」
「うん。でも、どうしたの急に」
「別に。たまたま店で目に入ったから、買ってみただけだよ」
「そんな素っ気なく言っても、バレバレだよ。綾人くん、本当はこの子の誕生がすごーく待ち遠しいんでしょう?」
祥子さんは悪戯っぽく言い、お腹に手をやった。
「うん。すごく待ち遠しいよ。その子は絶対可愛いよ」
「まだ顔も見てないのに、わかるの?」
「わかる。僕、その子のことが大好きなんだ」
僕の言葉に、祥子さんはちょっと面食らったみたいだった。
「なんか今夜の綾人くん、変だよ」
「そう?」
玄関扉に手をかける。体を冷やすといけないからと言って、祥子さんが表までついてくるのを断った。
「じゃあ気をつけてね。おやすみなさい、綾人くん」
「うん」
僕は言った。
「おやすみ、お母さん」
夜の道を、ゆっくりと、噛みしめるように歩いた。空気は冷えて、よく澄んでいた。曇り空で星は出ていなかったけれど、月のシルエットはおぼろげにわかった。
ポケットに突っこんでいた両手を出して、深く息を吸った。靴の裏が、コツンと路上を叩く。この感触を、絶対忘れない。僕は全身で夜の気配を感じようとした。
いつだったか、安在さんが言っていたのを思い出した。「わたしの勘は当たるんだよ」
僕は、うまくやれるだろうか。
安在さんに尋ねてみたかった。僕がこれからやろうとしていることについて。果たして成功する確率はどのくらいだろう。
例えばほとんどゼロに近い確率だったとしても、僕にはもうこの方法以外思いつかない。
無性に、誰かと話がしたかった。だけどそれが誰なのか、具体的な顔が浮かんでこない。裕司も安在さんもいなくて、桐丘も僕の前には現れない。
本当に話がしたい相手なんて、いつだってたったひとりだ。
交差点に差しかかった。アパートへ帰るのとは逆の道を選ぶ。シャッターを下ろした商店街を通り、中華料理店の角を曲がって、裏通りを行く。
クリーニング店とコインパーキングの間に、バラの花が咲いていた。この道は今までに何度か通ったことがあるはずなのに、僕は初めてその花の存在に気づいた。暗がりの中で、薄桃色の花弁が揺れている。濡れた路面に外灯が当たり、発光しているように見えた。
裏通りを抜け、土手を上り、川に沿ってしばらく歩いた。視界に現れた橋を、真ん中あたりまで渡ったところで、足を止めた。
欄干にもたれ、スマホを操作する。小松原さんにメッセージを送った。
『明日、僕の部屋に来てもらえるかな。小松原さんに渡したいものがあるんだ。うちに来たとき、もし僕が留守にしていたら、勝手に部屋に上がってくれていいから』
返信は待たなかった。
大きく腕を振り上げると、川に向かってスマホを放った。
振り向くと、反対側の歩道を歩いて来た男性が、今の僕の行いを何か言いたげな様子で見ていた。
これからご迷惑をおかけします、と男性に向かって心の中で詫びた。あなたを目撃者にしてしまうこと、どうかお許しください。
両手をついて身を乗り出すと、勢いをつけ、左足を橋の欄干に引っ掛ける。続いて右足もかけ、体重を乗せて伸び上がった。多少ふらつきつつも、なんとか欄干の上に立つことができた。
「おい、あんた、何してるんだ! 危ないだろ!」
背後から聞こえてきた男性の声を無視して、両腕を水平に広げる。頭は動かさずに、視線だけを川面に向けた。暗く淀んだ水が、ぬらぬらと波立っている。
目を閉じ、息を整えた。
「想乃」
祈りをこめてつぶやく。体全体を前に傾けた。両足が欄干から離れる。
夕食後、ソファに寝転んだ蒼介は、瞬く間に船を漕ぎはじめた。父さんは風呂に入りに行った。
散らかったテーブルの上を片づけながら、
「こんな時間だし、綾人くん今晩は泊まっていけばいいのに」
祥子さんが言った。
「あ、間違えた。もうこのままずっとうちにいればいいのに」
「ううん、今日はアパートのほうに戻るよ」
そう断ると、祥子さんは咎めるような目を向けてから、肩をすくめた。
「強情だね」
「ごめん」
「でも、いつかはうちに戻って来るんでしょう?」
「そうだね」
「よろしい。じゃあ今日のところはアパートに戻るのを許そう」
「あ、許可制だったんだ?」
「そうだよ」
祥子さんはふふふと笑い、僕の肩を軽く小突いた。
熟睡する蒼介をベッドまで引きずっていってから、僕は玄関に向かった。少し長居をしすぎたかなと思う。家を出るのが名残惜しくて、ついつい帰り時刻を延ばしてしまった。
屈んで靴を履いていると、背後に立った祥子さんが、「またね」と言った。僕は振り返り、コートのポケットから小さな包みを取り出した。
「はい、これ」
「何?」
祥子さんは不思議そうな顔で受け取った。
「プレゼントだよ」
「ええ? どうしたの急に」
「ちょっと早いけど、生まれてくる兄弟に」
包みを開けた祥子さんは、目を細めた。
「靴下だ。可愛い」
「いいでしょう、それ」
「うん。でも、どうしたの急に」
「別に。たまたま店で目に入ったから、買ってみただけだよ」
「そんな素っ気なく言っても、バレバレだよ。綾人くん、本当はこの子の誕生がすごーく待ち遠しいんでしょう?」
祥子さんは悪戯っぽく言い、お腹に手をやった。
「うん。すごく待ち遠しいよ。その子は絶対可愛いよ」
「まだ顔も見てないのに、わかるの?」
「わかる。僕、その子のことが大好きなんだ」
僕の言葉に、祥子さんはちょっと面食らったみたいだった。
「なんか今夜の綾人くん、変だよ」
「そう?」
玄関扉に手をかける。体を冷やすといけないからと言って、祥子さんが表までついてくるのを断った。
「じゃあ気をつけてね。おやすみなさい、綾人くん」
「うん」
僕は言った。
「おやすみ、お母さん」
夜の道を、ゆっくりと、噛みしめるように歩いた。空気は冷えて、よく澄んでいた。曇り空で星は出ていなかったけれど、月のシルエットはおぼろげにわかった。
ポケットに突っこんでいた両手を出して、深く息を吸った。靴の裏が、コツンと路上を叩く。この感触を、絶対忘れない。僕は全身で夜の気配を感じようとした。
いつだったか、安在さんが言っていたのを思い出した。「わたしの勘は当たるんだよ」
僕は、うまくやれるだろうか。
安在さんに尋ねてみたかった。僕がこれからやろうとしていることについて。果たして成功する確率はどのくらいだろう。
例えばほとんどゼロに近い確率だったとしても、僕にはもうこの方法以外思いつかない。
無性に、誰かと話がしたかった。だけどそれが誰なのか、具体的な顔が浮かんでこない。裕司も安在さんもいなくて、桐丘も僕の前には現れない。
本当に話がしたい相手なんて、いつだってたったひとりだ。
交差点に差しかかった。アパートへ帰るのとは逆の道を選ぶ。シャッターを下ろした商店街を通り、中華料理店の角を曲がって、裏通りを行く。
クリーニング店とコインパーキングの間に、バラの花が咲いていた。この道は今までに何度か通ったことがあるはずなのに、僕は初めてその花の存在に気づいた。暗がりの中で、薄桃色の花弁が揺れている。濡れた路面に外灯が当たり、発光しているように見えた。
裏通りを抜け、土手を上り、川に沿ってしばらく歩いた。視界に現れた橋を、真ん中あたりまで渡ったところで、足を止めた。
欄干にもたれ、スマホを操作する。小松原さんにメッセージを送った。
『明日、僕の部屋に来てもらえるかな。小松原さんに渡したいものがあるんだ。うちに来たとき、もし僕が留守にしていたら、勝手に部屋に上がってくれていいから』
返信は待たなかった。
大きく腕を振り上げると、川に向かってスマホを放った。
振り向くと、反対側の歩道を歩いて来た男性が、今の僕の行いを何か言いたげな様子で見ていた。
これからご迷惑をおかけします、と男性に向かって心の中で詫びた。あなたを目撃者にしてしまうこと、どうかお許しください。
両手をついて身を乗り出すと、勢いをつけ、左足を橋の欄干に引っ掛ける。続いて右足もかけ、体重を乗せて伸び上がった。多少ふらつきつつも、なんとか欄干の上に立つことができた。
「おい、あんた、何してるんだ! 危ないだろ!」
背後から聞こえてきた男性の声を無視して、両腕を水平に広げる。頭は動かさずに、視線だけを川面に向けた。暗く淀んだ水が、ぬらぬらと波立っている。
目を閉じ、息を整えた。
「想乃」
祈りをこめてつぶやく。体全体を前に傾けた。両足が欄干から離れる。
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