過去を語る日(2)
文字数 2,705文字
小松原さんは立ち上がると、部屋の隅に置かれた収納ボックスを開けた。中から藍色の表紙の絵本を取り出し、僕に渡した。『ヒナちゃんのいと』というタイトルの下に、作者の名前がある。作・小松原みやこ、絵・小松原だいすけと書かれていた。
そっと絵本を開く。数えきれないくらい捲ったのだろう。ページは擦り切れ、角が丸くなっていた。
『あるところに、ヒナちゃんという名まえの女の子がいました。ヒナちゃんはひとりぼっちでした。まいにちひとりでおさんぽをして、ひとりでごはんをたべ、ひとりでねむります。
あるとき、ヒナちゃんはじぶんのゆびにたくさんの糸がまきついているのに気づきました。糸の先はながくながくつづいています。
「この糸は、どこにつながっているのかしら」
ヒナちゃんは糸をたどって、たびに出ることにしました。』
暗い色合いの背景の中で、主人公のヒナちゃんは心細そうだった。しかし糸に気づいた途端、ワクワクと目を輝かせる。楽しい展開を予感させる一ページだ。
だがその後も、暗い背景が続く。
糸を辿って旅をはじめたヒナちゃんは、寒さにこごえる老人と出会う。たくさん伸びる糸のうち、一本はこの老人の指へとつながっていた。ヒナちゃんは自分の上着を脱いで、老人に差し出す。「これを着れば、あたたかくなりますよ」というセリフとともに、にっこり笑うヒナちゃんが描かれていた。
僕は息を詰め、ページを捲った。
次にヒナちゃんは土砂に埋まり、助けを求める人を見つける。糸はその人にもつながっていた。ヒナちゃんは必死に土砂を掘り、手を傷だらけにして、相手を助ける。
次にヒナちゃんが出会うのは、空腹の子ども。糸はその子どもにもつながっている。ヒナちゃんは持っていた食べ物をすべて子どもに与えてしまう。
こうしてヒナちゃんは糸の先を辿り出会った人々に、少しの迷いも見せず自分の物を差し出していく。ときには自身を犠牲に、人々を救おうとする。
とうとう何もかも失い、痩せ細り、ぼろ雑巾のような服一枚をまとうだけとなったヒナちゃん。そんな彼女を見て、事情を知らない街の人々は眉をひそめる。「汚い子だ、あっちへ行け」と怒鳴り、石を投げつける。
ヒナちゃんは倒れ、そのまま動けなくなってしまう。
そこで、ページは終わっていた。
顔を上げると、小松原さんが不安そうに僕を見つめていた。
「どうだった?」
「そうだね」
僕は言葉を探した。
「なんていうか、やるせない気持ちになるお話だね」
「うん、そう、そうなの」
小松原さんは親指の爪を噛んだ。
「わたし、ずっとわからなくて。お父さんとお母さんは、どうしてこんな救いのないお話を作ったんだろうって」
「いや、まだわからないよ。最後まで読んでみたら印象が変わるかもしれない。この後、ヒナちゃんには大きな幸せが訪れるっていう展開だって考えられるよ」
「そうかな……」
「子ども向けの絵本だし、さすがに後味の悪い終わり方はしないはずだよ」
もう一度、最後のページに目を落とす。何もない荒野にひとりぼっち、横たわるヒナちゃん。不思議と安らかな表情をしている。
「小松原さんは、この物語の結末を知りたい?」
僕の問いかけに、小松原さんは少しの間迷って、「知りたい」と答えた。だがすぐにかぶりを振って、
「でも、知るのが怖い気もする」
「怖い?」
「今まで何度も結末を想像したの。何度想像しても、悲劇しか浮かばなかった。きちんとページの揃っている絵本を探そうかとも考えたけど、諦めた。本当は結末なんて知らないほうがいいんだと思う」
「どうして悲劇なんて」
「この絵本を描いていた時期くらいからだと思うんだけど、お父さんとお母さんはよく喧嘩するようになったの」
苦い物を噛んだような顔で、小松原さんは続けた。
「その頃、わたしは六歳だった。だから想像とか、思い違いじゃない。ちゃんと記憶に残ってる。お父さんもお母さんもいつも苛立ってて、些細なことでぶつかり合ってばかりいた。二人とも全然幸せそうに見えなかった。そんな二人が描いた絵本だもん、幸せな結末なわけない」
決めつけないほうがいいよ。
小松原さんにそう言うのは簡単だった。だけど彼女は絶対に認めないだろう。
おそらく何年にも渡り、ページが擦り切れるまで繰り返し読んだ末の結論なのだ。
言葉に詰まり、僕は絵本を閉じようとした。そのとき、裏表紙に書かれたあとがきの存在に気づいた。
『人と人とは、見えない糸でつながっているのだと思います。見えない糸に導かれ、出会うべくして人は出会うのだと、わたしたちは考えました。
離ればなれになっても、例えもう二度と会うことはなくとも、糸はつながり続けるのです。
小松原みやこ 小松原だいすけ』
「もう二度と会うことはなくともって、どういう思いで書いたんだろうね」
僕の目線に気づいて、小松原さんが言う。当然、彼女もこのあとがきに目を通しているはずだ。
「相手が死んでしまった場合はどうなんだろう。つながっていた糸は切れちゃうのかな、なくなっちゃうのかな。どちらにせよ、わたしから糸は一本も伸びてないね。わたしは両親とも、誰ともつながっていない」
「そんなことない。少なくとも、僕と小松原さんの糸はつながっているはずだよ」
僕の言葉に、小松原さんは自身の手へと視線を落とした。その手が左手だったことに、僕はどきりとする。
ほんの一瞬だったが、彼女は確かに左手の薬指の辺りを注視していた。
「これ、ありがとう」
小松原さんに絵本を返した。
「だけど、どうして見せてくれる気になったの?」
小松原さんは視線を落としたまま、
「的場くん、絵本見たいって言ってたから」
ぽつりと答えた。
「桐丘のことで協力したいって言ってくれたり、お弁当作ってくれたり、他にもいっぱい、的場くんはわたしに親切にしてくれたでしょう。だからわたしも、何か的場くんの喜びそうなことをしたかったの。的場くんのお願いを叶えたかったの。それで絵本を読みたがっていたのを思い出して」
体の芯が熱くなるのを感じた。
内容を気にして、小松原さんは最初に絵本の存在を隠した。生前、両親が不幸だったのではと彼女は考えている。『ヒナちゃんのいと』を僕に見せることは、家族にまつわる繊細な部分をさらすようなものだっただろう。
それでも、僕に見せてくれた。
「ありがとう」
僕はもう一度言った。
小松原さんがかすかに口元をゆるませる。
「ううん」
その瞬間、頑なだった彼女の心に、指先が届いた気がした。触れることを、許された気がした。
今なら、僕自身もさらけ出せるだろうか。
「ねえ、大馬鹿者の話をしようか」
馬鹿で醜い、僕の物語だ。
そっと絵本を開く。数えきれないくらい捲ったのだろう。ページは擦り切れ、角が丸くなっていた。
『あるところに、ヒナちゃんという名まえの女の子がいました。ヒナちゃんはひとりぼっちでした。まいにちひとりでおさんぽをして、ひとりでごはんをたべ、ひとりでねむります。
あるとき、ヒナちゃんはじぶんのゆびにたくさんの糸がまきついているのに気づきました。糸の先はながくながくつづいています。
「この糸は、どこにつながっているのかしら」
ヒナちゃんは糸をたどって、たびに出ることにしました。』
暗い色合いの背景の中で、主人公のヒナちゃんは心細そうだった。しかし糸に気づいた途端、ワクワクと目を輝かせる。楽しい展開を予感させる一ページだ。
だがその後も、暗い背景が続く。
糸を辿って旅をはじめたヒナちゃんは、寒さにこごえる老人と出会う。たくさん伸びる糸のうち、一本はこの老人の指へとつながっていた。ヒナちゃんは自分の上着を脱いで、老人に差し出す。「これを着れば、あたたかくなりますよ」というセリフとともに、にっこり笑うヒナちゃんが描かれていた。
僕は息を詰め、ページを捲った。
次にヒナちゃんは土砂に埋まり、助けを求める人を見つける。糸はその人にもつながっていた。ヒナちゃんは必死に土砂を掘り、手を傷だらけにして、相手を助ける。
次にヒナちゃんが出会うのは、空腹の子ども。糸はその子どもにもつながっている。ヒナちゃんは持っていた食べ物をすべて子どもに与えてしまう。
こうしてヒナちゃんは糸の先を辿り出会った人々に、少しの迷いも見せず自分の物を差し出していく。ときには自身を犠牲に、人々を救おうとする。
とうとう何もかも失い、痩せ細り、ぼろ雑巾のような服一枚をまとうだけとなったヒナちゃん。そんな彼女を見て、事情を知らない街の人々は眉をひそめる。「汚い子だ、あっちへ行け」と怒鳴り、石を投げつける。
ヒナちゃんは倒れ、そのまま動けなくなってしまう。
そこで、ページは終わっていた。
顔を上げると、小松原さんが不安そうに僕を見つめていた。
「どうだった?」
「そうだね」
僕は言葉を探した。
「なんていうか、やるせない気持ちになるお話だね」
「うん、そう、そうなの」
小松原さんは親指の爪を噛んだ。
「わたし、ずっとわからなくて。お父さんとお母さんは、どうしてこんな救いのないお話を作ったんだろうって」
「いや、まだわからないよ。最後まで読んでみたら印象が変わるかもしれない。この後、ヒナちゃんには大きな幸せが訪れるっていう展開だって考えられるよ」
「そうかな……」
「子ども向けの絵本だし、さすがに後味の悪い終わり方はしないはずだよ」
もう一度、最後のページに目を落とす。何もない荒野にひとりぼっち、横たわるヒナちゃん。不思議と安らかな表情をしている。
「小松原さんは、この物語の結末を知りたい?」
僕の問いかけに、小松原さんは少しの間迷って、「知りたい」と答えた。だがすぐにかぶりを振って、
「でも、知るのが怖い気もする」
「怖い?」
「今まで何度も結末を想像したの。何度想像しても、悲劇しか浮かばなかった。きちんとページの揃っている絵本を探そうかとも考えたけど、諦めた。本当は結末なんて知らないほうがいいんだと思う」
「どうして悲劇なんて」
「この絵本を描いていた時期くらいからだと思うんだけど、お父さんとお母さんはよく喧嘩するようになったの」
苦い物を噛んだような顔で、小松原さんは続けた。
「その頃、わたしは六歳だった。だから想像とか、思い違いじゃない。ちゃんと記憶に残ってる。お父さんもお母さんもいつも苛立ってて、些細なことでぶつかり合ってばかりいた。二人とも全然幸せそうに見えなかった。そんな二人が描いた絵本だもん、幸せな結末なわけない」
決めつけないほうがいいよ。
小松原さんにそう言うのは簡単だった。だけど彼女は絶対に認めないだろう。
おそらく何年にも渡り、ページが擦り切れるまで繰り返し読んだ末の結論なのだ。
言葉に詰まり、僕は絵本を閉じようとした。そのとき、裏表紙に書かれたあとがきの存在に気づいた。
『人と人とは、見えない糸でつながっているのだと思います。見えない糸に導かれ、出会うべくして人は出会うのだと、わたしたちは考えました。
離ればなれになっても、例えもう二度と会うことはなくとも、糸はつながり続けるのです。
小松原みやこ 小松原だいすけ』
「もう二度と会うことはなくともって、どういう思いで書いたんだろうね」
僕の目線に気づいて、小松原さんが言う。当然、彼女もこのあとがきに目を通しているはずだ。
「相手が死んでしまった場合はどうなんだろう。つながっていた糸は切れちゃうのかな、なくなっちゃうのかな。どちらにせよ、わたしから糸は一本も伸びてないね。わたしは両親とも、誰ともつながっていない」
「そんなことない。少なくとも、僕と小松原さんの糸はつながっているはずだよ」
僕の言葉に、小松原さんは自身の手へと視線を落とした。その手が左手だったことに、僕はどきりとする。
ほんの一瞬だったが、彼女は確かに左手の薬指の辺りを注視していた。
「これ、ありがとう」
小松原さんに絵本を返した。
「だけど、どうして見せてくれる気になったの?」
小松原さんは視線を落としたまま、
「的場くん、絵本見たいって言ってたから」
ぽつりと答えた。
「桐丘のことで協力したいって言ってくれたり、お弁当作ってくれたり、他にもいっぱい、的場くんはわたしに親切にしてくれたでしょう。だからわたしも、何か的場くんの喜びそうなことをしたかったの。的場くんのお願いを叶えたかったの。それで絵本を読みたがっていたのを思い出して」
体の芯が熱くなるのを感じた。
内容を気にして、小松原さんは最初に絵本の存在を隠した。生前、両親が不幸だったのではと彼女は考えている。『ヒナちゃんのいと』を僕に見せることは、家族にまつわる繊細な部分をさらすようなものだっただろう。
それでも、僕に見せてくれた。
「ありがとう」
僕はもう一度言った。
小松原さんがかすかに口元をゆるませる。
「ううん」
その瞬間、頑なだった彼女の心に、指先が届いた気がした。触れることを、許された気がした。
今なら、僕自身もさらけ出せるだろうか。
「ねえ、大馬鹿者の話をしようか」
馬鹿で醜い、僕の物語だ。
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