第8章 少年のメッセージ

文字数 3,951文字

 少年のメッセージ

 
 翌朝十時、百合香、悠太、未玲の三人が未玲の宿泊するホテルのラウンジに集まった。悠太のホテルからは徒歩十分ほど、バンクーバーを代表する老舗ホテルらしく、内装は豪華でロビーも広い。
「百合香さん、お久しぶりね。元気だった?こちらへ来ることを連絡するべきだったけど、いろいろ帰国の準備で大変だろうと思って、遠慮しちゃったの。ごめんなさいね」
 未玲がにこやかに百合香に話しかけた。
「いえ、お気遣いなく。わたしの方は何とか一年無事に過ごせました。勉強の方も一応予定どおり、かな。ミレ先生もお元気になられてよかったです」
「おかげさまで……でも百合香さん、すごいわ。私なんか一人で海外生活なんて無理だもの。想像することさえできないわ」
 昨夜未玲と別れるとき、百合香も会いたがるだろうから、と言って、約束を取り付けた。百合香には昨晩未玲から聞いた話をかいつまんで説明してある。そして、さらに二人で話し合った結果を未玲に提案することにしたのだった。
「先生、昨日、秋野さんからお聞きになったと思いますけど、秋野さんとわたし、そのジャスパーへ行く予定なんです。明日あさっては手前のバンフに泊まって、その後ですけど」
「そうなんですってね。ジャスパーって、こちらからバスとかあるのかしら」
「アルバータ州のエドモントンからバスがあるみたいですよ」
「エドモントン?」
「ジャスパーのあるアルバータ州の州都です。ここバンクーバーからは国内線が頻繁に飛んでいます。でも先生、もしも日程に余裕があるなら、わたしたちと一緒に車で行くのはどうでしょう?わたしたちは南のカルガリーからレンタカーで行くので、途中バンフで宿泊したりして少し日にちがかかりますけど、もしそんなにお急ぎでなかったら」
「え、でも」
 未玲は戸惑った表情を見せた。
「悪いわ。だって、お二人の邪魔をしちゃうから」
「それはかまわないです。わたしがロッキーに行きたいってわがまま言って、秋野さんに運転をお願いしただけなんです。だから、ホテルの部屋も別々だし、わたしと先生が一緒の部屋に泊まればいいですから。ジャスパーに着いたらそこで別れて、帰りはバスでエドモントンへ出れば帰国も簡単ですし」
 まあ、百合香の言うとおり、自分は観光の運転手のような役目には違いない。それ以外の目的はないのだし。
「そうね……私も英語そんなに話せるわけじゃないから、百合香さんがいてくれれば、とても心強いけど……」
 未玲は自分以上に行動的でなく、一人で外国で人を探すのはおろか、ホテルをその場で探すのも大変なのでは、というのが昨晩の百合香の意見だった。未玲は悠太に向かって言った。
「秋野さんはご迷惑じゃないんですか?邪魔者がいて」
「いえ、全然。邪魔なんて思わないですよ。人数が多い方が楽しいでしょう」
 悠太は微笑んでみせた。実際、それなら、昨日百合香が気にしていた、別々の部屋を予約したのもちょうどよく活用できる。
 その場で百合香がスマホで明日の航空チケットの予約をした。幸い、席は離れているが同じ便を予約することができた。
 在留邦人に肉親の死などを伝える場合は、総領事館に捜索を依頼することも可能らしい。といっても結果が出るまで日数がかかるし、カナダに帰化して日本国籍を喪失していた場合は対象外になる。とりあえずジャスパーで探してみて、その結果でどうするか考えることにした。
「先生、これから秋野さんと市内を見て回るんですけど、ご一緒にいかがですか」
 未玲は微笑して首を振った。
「ありがとう。でも遠慮しておくわ。長旅と昨日の訪問で疲れたので、ホテルで休むわ。明日に備えなくちゃ」
「わかりました。じゃあまた明日お迎えに行きますね」
 未玲とはその場で別れた。
 
                   ***

「どこへ行こうかしら。観光スポットはこの近くだとそこの展望室とか、その先のガスタウンなんかだけど」
「ガスタウンは昨日ブラっと歩いたよ。そこで蔵原先生に会ったんだ」
「そう。じゃあ、どこがいいかな。……悠太さんは絵が好きなのよね。だったら美術館があるわ。このホテルの隣のブロックだからすぐよ」
「ああ、ぜひ」
 ホテルを出る。当然のように腕を組んできたので、ドキッとする。
「ミレ先生と一緒に行くって決めちゃったけど、本当によかった?」
 涼子も、百合香も、未玲のことを「ミレ先生」と呼ぶ。
 ――涼子先生が「ミレ先生」って呼ぶときが、だいたいハ長調の「ミ・レ」と一致するのよ。おかしいでしょ。
 ずっと前に、百合香にそう言われたが、絶対音感のない悠太には、ああそうなのか、と思うしかない。
「うん。三人でいた方が楽しいかも」
「そう?」
 百合香が少し低い声になる。
「あ、もちろん、向こうへ着いてからは二人だけでしょ。だからいいんじゃない?」
 相手の意を察してあわてて付け加える。
「でもびっくりだわ。先生思ったより元気になってて安心したけど」
 
 百合香の言うとおり、ホテルの横の横断歩道を渡るとそこが美術館だった。新古典様式の立派な建物だった。
 展示は先住民の芸術を表現に取り入れたことで知られるエミリー・カーなど地元出身画家の作品が中心で、地味だが気分が落ち着く。
 館内のカフェで昼食をとった。
「こちらの方へはよく来るの?」
 百合香は首を振った。
「ダウンタウンは独りではほとんど来ないわ。家から遠いし、人がたくさんいて少し怖いから。行くのはもっと手前のキツラノくらいまでかな。わたしやっぱり、ここに来ても相変わらずヒッキーなの。ダメでしょ」
「そんなことないよ。外国で一年暮らすだけで大したものだと思うよ。なるべく危険を避けてってお願いしたのは僕やおじいさんなんだし」
「そう?」
 百合香は少し寂し気に微笑んだ。
 少し沈黙が続いた。
 百合香も外国生活でもまれてだいぶ気持ちはたくましくなったと思うが、相変わらず今のように少し頼りなげな表情を浮かべることがある。悠太はそんな百合香をみると心がざわめいた。
「先生、お目当ての人に会えるといいわね」
「そうだね。ジャスパーって小さな町だから探すのはそんなに難しくはないような気もするけど」
 志半ばで短い命を終えてしまった少年の顔がまた甦る。
 そういえば、と悠太はあることを思い出した。
「そうだ、ユリカさんに見せたいものがあったんだ」
 といって悠太はスマホを操作して画面を百合香に見せた。
                   




                   ***

「……というわけで、去年の夏に瑞希が生前の北山君からもらった楽譜というのか、メモというのがこれなんだ」
 美術館のカフェで、悠太はスマホの画面を百合香に見せた。そして、瑞希が北山翔太から楽譜を渡されたいきさつを説明した。
 なぜ悠太が持っているかというと、瑞希に頼まれたからだった。
 彼女は北山翔太が亡くなってから、この楽譜のメモをときどき取り出してみるのだが、未だに意味がわからないのだという。悠太が百合香に会いに行く準備をしているときに、そうだ、ゆりかさんに会うんだったらと、このメモとそれを手に入れたいきさつを説明された。彼女に見せて意見をもらってきて、というわけだった。
 悠太のスマホを受け取って百合香はしばらくじっと見ていた。
「うーん、そうね、何なのかしらね。弾きにくそうな変な格好の分散和音になっているし、(ハー)(アー)の音がいくつも入ってて不協和な響きだけど、それを無視すれば、瑞希ちゃんの言うとおり、Ⅴ7からⅠへのシンプルな和声進行よね。音楽の授業でお辞儀をするときに先生がピアノで弾くでしょう。あの三つの和音の後ろのふたつを取り出したみたいなものよ」
「なるほど。瑞希の話だと、曲の一部っていうより、何かのメッセージだって言ってたらしいけど」
「そうでしょうね。北山さんて、作曲家志望だったんでしょう。一部分だけとはいえ、こんな単純な曲を作るとは思えないわ。……メッセージね。何だろう。もう一度見せて」
 彼女にもすぐに答えは出ないようだった。百合香は画面を目に焼き付けるようにじっと画面を見つめた。
「いまユリカさんが言った、コード進行ってあるじゃない。あるいは、音の名前って、ハニホヘトイロハとかCDEFGABとかあるでしょう。それを用いた暗号ってことはないかなあ」
 悠太は自分の考えを言った。百合香は軽く頷いた。
「確かに、バッハの『フーガの技法』では自分の名前の『BACH』を音名に置き換えて、それを主題にフーガを書いてるわよね。ドイツ語の音名だと、ハ長調の「シ」の音はBじゃなくてH、B♭がBだから。それとか、シューマンの『アベッグ変奏曲』なんて、その名のとおり、『ABEGG』っていう人の名前が主題になってる」
「そうそう」
 「アベッグ変奏曲」の方は知らないが、バッハの「フーガの技法」の話は、悠太も知識としては知っている。この自らの名前を用いたフーガの曲集を書いている途中でバッハは亡くなったという。
「でも、どうかなあ。わたしも今ざっと、音名を仮名やローマ字に変換してみたんだけど、意味のある言葉にはならないような気がする。さらにそこから何らかの操作をするのかしら」
 百合香にもわからない様子だった。
 あまり考えても仕方がないので、その話題はいったん取りやめて、翌日からの旅行のスケジュールなどについて、打ち合わせることにした。スマホの地図や旅行案内などを見ながら、この湖を見ようとか、ガソリンスタンドはあまりないから、絶対ここで給油しておかなきゃ、とか、思いつくままに話をしていると、あっという間に時間が過ぎてしまい、市内観光は再びバンクーバーに戻ってからの後回しにせざるを得なくなった。





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