第2章 コンクール

文字数 4,992文字

 コンクール

 瑞希は椅子に座って呼吸を整えた。一息吸ったあと、十数えながらゆっくり息を吐く。
 ここまで来たら観客や審査員のことは考えない。これから弾く音楽のことだけに集中する。自分がこの音楽で表現したいもの、ただそれだけを伝えたい。
 嬰ト短調の主和音を静かに押す。深い響きがホールに満ちていくのを感じる。続くオクターブの跳躍と三連符。
 ゆったりした感じなのは最初だけで、アンダンテの曲想の割には右手も左手も忙しく動きまわる。
「そう、流れる小川に花びらが次々に舞い散る感じをイメージしてみて」
 レッスンのときの蔵原先生のアドバイス。
 もちろんこの曲は情景描写を狙った作品ではない。また、ロマン派の作品のように哀しみとか喜びとか、特定の感情を呼び起こすこともあまりない。絵画でいえば抽象画に近いといえるかもしれない。同年代のカンディンスキーの絵画のように。
 それでも曲のおよそのイメージを掴むことは必要だ。作曲家はロシアの海を思い浮かべて作曲したらしいが、蔵原先生の言うことも間違いではない気がする。水の流れが光に当たってきらめく感じが確かにする。
 瑞希がコンクール決勝の自由曲に選んだのはスクリャービンのピアノソナタ第二番。
 幻想ソナタという別名が付けられているとおり、二楽章からなる自由な構成のソナタで、第一楽章の美しい響きが気に入ったのと、二楽章合わせて十分強の長さが、コンクールの自由曲の演奏時間の規定にぴったり合ったのが、この曲にした理由だった。
 日本学生音楽コンクールは歴史ある音楽コンクールで、レベルも高い。受けたのは、高校二年になった今年が初めてだった。
 小学生の頃に別のコンクールを受けたとき、緊張しすぎて、いつもなら目を瞑っても弾ける箇所を忘れてしまい、まさかの予選落ちして以来、しばらくコンクールを避けて来た。人前で演奏することに苦手意識を持ち続けてきた。
 でも将来プロを目指す以上、避けてとおるわけにはいかない。コンクールで入賞することが世間に認められる手段の一つというだけでなく、お金をとって聴かせる以上、厳しい聴衆の耳に応え、安定した演奏をすることがプロには求められる。それには人前で自分の持っているものを存分に表現できることが必要だ。
 一昨年、中学三年の時にマイナーなコンクールを受けて入賞した。それからもう一つ別のコンクールも受け、優勝した。何とか自信がついてきたので、いよいよこのコンクールに応募することにした。
 高校生になったばかりの去年にも申し込んでいたのだが、予選直前になって、突き指までではなかったものの、右手の薬指に違和感を感じ、大事をとった方がいいという先生の言葉もあり、見送らざるを得なかった。
 予選のバッハの平均律とショパンのエチュードは問題なく通過、本選の自由曲はショパンの舟歌。これも自分でも満足のいく演奏ができた。
 で、いよいよファイナルステージだ。
 第二楽章はプレスト。右手が細かくせわしなく動き、左手はオクターブで激しく跳躍を繰り返す。第一楽章と比べると短く、音型やリズムもそれほど複雑ではない。とにかく速さに飲み込まれないで指を、音楽をコントロールする。音が団子になることもなく、ミスもなく最後まで弾けた。自己最高とは言えなくてもまあまあかな、と思う。
 審査結果の発表まではあっという間に感じられた。
 第一位の名前に自分の名前が呼ばれても、彼女はあまりピンとこなかった。
 ああ、そうなんだ、という程度の思い。
 自分では力を出し切ったので、順位にはそれほど関心もなかった。
 それともうひとつ、ストレートに喜びの感情が湧いてこないのは、本来なら第一位は自分ではなく、別の子がもらうはずだったという思いがあるからだ。
 北山翔太。
 何年おきかに地球上のどこかに必ず現れる天才。
 丸顔にいつも人懐こい笑顔を浮かべ、どんな難曲でもやすやすと抜群のセンスで弾きこなす。それは音楽の女神にとりわけ愛されて生まれて来た者の特権だった。自分がいくら努力しても届かぬ所に既にこの少年は立っていると、瑞希は初めてその演奏を聴いて感じたし、今でもその思いは変わっていない。

                     ***

 初めて翔太と会ったのは今年の春だから、まだ半年ちょっとしか経っていない。
 高等部一年の三学期末の試験が終わり、卒業式のリハーサルが繰り返されていた頃の日曜日。
 その日は先生の蔵原未玲から、レッスン日ではないけれど、会わせたい子がいるからお茶でも飲みに来ない?と誘われて、先生の自宅を訪れた。するとリビングのソファに小柄な少年がひとり、ちょこんと腰かけていた。
「こちら北山翔太さん。山本先生のお弟子さんなの。こちらは秋野瑞希さん。私はいつも『瑞希ちゃん』って呼んでるけど」
「はじめまして」
 瑞希とほとんど背の変わらない丸顔の少年は未玲に紹介されると、微笑んで瑞希の顔を見た。肌が透き通って、頬っぺたがお餅みたい、と瑞希は思った。
「こちらこそ」
「翔太さんは四月から高校生よね」
「はい。霞ヶ丘の附属です」
 霞ヶ丘芸術大学は音楽学部と美術学部からなる芸術の専門大学で、未玲先生や佐倉先生、百合香の母親莉々の母校だった。未玲先生は現在そこの講師をしている。
 附属高校は、音楽学部の附属なので、美術科は設けられていない。
 瑞希も去年、未玲先生から受験を勧められたのだが、聖花学園で三年間を過ごしてきて、友達もできて愛着を感じていたのと、数は少ないとはいえ男子もいるのはあまり気が進まず、聖花の高等部への内部進学を選んだ。音楽高校なら、楽典やソルフェージュなどは学校で教えてくれるし、音楽に関して話の合う子もたくさんいるだろうとは思うが、別に後悔はしていない。
「四月から山本先生が一年間、北海道の音大の講師で行ってしまわれるので、その間私がお預かりして教えることになったの」
 少年を指導している「山本先生」とは山本裕子という、霞ヶ丘のピアノ科の客員教授をしているひとのことだ。著名な演奏家でもあり、未玲の師匠に当たる。百合香の母親の莉々や、ヴァイオリンの先生の佐倉涼子とほぼ同年代で、百合香も中学生になって未玲に師事するまでは山本先生のレッスンを受けていたと聞いている。
 彼女が教える北海道の音大は、佐倉先生が教えているのと同じ学校だ。多分、学校同士の関係があるのだろう。涼子と違って東京へは週末帰ってくるらしいが、レッスンをする余裕はないので、未玲先生に任せたということらしい。
「どう?瑞希ちゃんと会えて」
 未玲がいたずらっぽい口調で少年に尋ねた。
「はい、感激です」
「え?」
 変なことを言いだしたと、瑞希は戸惑った。
「瑞希ちゃん、翔太さんは去年瑞希ちゃんの優勝したコンクールの演奏を見て感動したそうよ」
「そうなんですか。恥ずかしい……」
 瑞希が昨年の春に一位を取った、横浜のコンクールのことを言っているらしい。
「なんていうか、とても繊細で、音がきれいだし、どうやって練習しているのか教えてほしいなと思ってるんです」
 少年自身はそのコンクールには参加しなかったらしいが、知り合いが出たので見に行ったのだという。
「そのあたりは翔太さんもまだ、上達の余地があるってことかしら。せっかくだから弾いてみてくれないかしら?」
 未玲がレッスン室に二人を導いた。
「何がいいかな。……ショパンのソナタはどう?」
 ピアノの前に座った翔太に未玲が言うと、少年は
「はい。じゃあ三番の一楽章を」
 と答える間もなく弾き始めた。
 瑞希は半ば茫然とその演奏する姿を見ていた。
 ショパンの曲の中でも特に高度の技術と音楽性が求められるこの曲を、少年は鮮やかに力強く弾いて見せた。表現は大胆で直截的だが破綻は全くなく、力強い第一主題から第二主題への移行もスムーズで、色とりどりの花が咲きそろう花園のような、夢見るような第二主題部の美しさも鮮やかに表現していた。もちろん、技術的に危ういところはどこにもない。
 瑞希はすごい、と感嘆しつつ、半ば打ちのめされた。
 蔵原先生も初めて聴いたらしく、いつになく真剣な表情で少年の演奏を見つめていた。
「すばらしい。さすが、っていうか、山本先生が絶賛するだけあるわ……ねえ、瑞希ちゃん?」
「はい。すごいです……」
「ありがとうございます」
「コンクールは今まで受けなかったの」
「小学生の時に何度か受けたきりですね。中学一年のときに学生音楽コンクールを申し込んだんですけど、本選でインフルエンザにかかっちゃって、欠席したんです。その後は二年間、カナダに留学してて、あっちでも先生には付いていたんですけど、コンクールは受けてません。まだ自分では早いかなって」
「そんなことないわよ。出ていれば『中学の部』は優勝してたでしょうね」
「それはどうかわかりませんけど」
 瑞希は思わず口に出した。
「私が教えられることなんてあるのかしら。逆にこっちが教えてほしいくらいよ」
 瑞希が自分の武器だと思っているのは、柔らかく粒立ちの良い音だと思っている。少年の音はもっと硬質な響きがするが、芯のある音色はまた違った魅力があり、そこを直す必要などないと思われた。
「どんなに才能があってもすべてを持つことは無理なんじゃない?瑞希ちゃんの手と翔太さんの手って全然違うでしょ」
 少年の手は瑞希よりほんのわずか大きいだけだが、指はずっと太い。手首もがっしりしている。やっぱり男女の違いは明確にある。
「これだけ違うと出てくる音も違うわよ」
「そうかなあ。……でも、もしよかったら瑞希さんの演奏も聴きたいです」
「じゃあ、瑞希ちゃんも同じ曲を弾いてみて」
 瑞希はあんな演奏の後で自分が弾くのは惨めな気分だった。でも先生の指示であればしかたがない。自分流の演奏をするしかない。
 何とかミスはなく最後まで弾けた。
「ああ、やっぱりいいなあ」
 拍手の後で少年は言った。
「音がきれいだし、特に第二主題の後半のところ、三連符が終わってリズムが変わるところからの弾き方がとっても軽やかでよかった」
「そうね」
 ひとつの塊を削り取って形にしたような、少年の演奏に比べると、自分のは所どころ、よろけて、つぎはぎだらけのようで、そんな風に言われるのが不思議でもあった。まさかお世辞を言っているんじゃないよね。
 しかし少年は本気で瑞希の演奏を評価しているようだった。
 蔵原先生が問いかける。
「お互い、自分にないものに憧れるのよ。……ところで、今年はコンクール受けるんでしょ」
「はい。学コンの高校生の部を」
「瑞希ちゃん、強力なライバル出現よ。やっぱり、去年受けてればよかったわね。指の具合が良くなかったからしょうがないけれど」
 未玲の言う通り、無理にでも受けていればよかっただろうか。ライバルは同学年だけではない。新しい学年の子が次々に出てくる。後になればなるほど大変になる。
「……というのは冗談よ。気にしないで。瑞希ちゃんの長所をさらに伸ばすチャンスだから。ね、翔太さん」
「はい。でも、どっちかっていうと、僕、演奏家よりも作曲に興味があるんです。コンクールを今まであまり受けなかったのもそのせいもあるんです。まあ、親や先生が勧めるし、演奏も嫌いではないので、一応コンクールには出るけど、大学は作曲科に入りたいと思って」
「ああ、そうなんだ」
 未玲は納得したように頷いたが、瑞希はこれだけの腕前を持ちながら、さらに別のことに興味があるということに驚き、また、あきれもした。
「じゃあ、曲も作ったりするの」
「はい。よかったら一曲聴いていただけますか」
「もちろん。楽しみだわ」
 少年はピアノを再び弾き始めた。
 不協和音が続くが不思議と心地よさがある。クラシックの現代曲のような難解さはなく、どちらかというとジャズに近いようにも感じた。
 演奏は五分くらいで終わった。
「すごい。いつ作曲したの」
「最近です。というより、半分即興演奏なので」
「ああ、そうなんだ。瑞希ちゃんはどう?」
 あまりなじみがないので、いいとも悪いとも言いかねる。
「はい。でも聴いてて優しい感じがした」
 すると少年は嬉しそうに瑞希を見た。
「ありがとうございます。そういってもらえてうれしいです」
 そう言ってにっこり微笑んだ。瑞希はその笑顔に一瞬だけ心を奪われた。


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