第12章 ジャスパー

文字数 3,271文字

 ジャスパー

 朝。雲が空を覆っているが、天気予報は晴だった。多分、陽が高くなるにつれて雲は消えていくのだろう。じっさい、雲間から陽ざしが漏れ始めている。
 八時過ぎにバンフのホテルをチェックアウトし、車に乗り込んだ。
 昨日は付近の観光名所をひととおり回った。時間が少し余ったので、ついでにカナディアンロッキーを代表する風景のひとつとされるレイク・ルイーズにも足を伸ばした。道路が混雑して駐車場に停めるのもひと苦労だったが、美しい湖と、その先に見える氷河をいただく山岳風景に目を奪われた。
 今日はジャスパーまで一気に三百キロを走る。途中いくつかの観光スポットに立ち寄るため、早めの出発にした。
 国道一号線で昨日来たレイク・ルイーズ・ジャンクションまでは一時間足らず。一号線と分かれ、アルバータ州道九三号線に入る。通称「アイスフィールド・パークウェイ」と呼ばれる観光道路だ。元は大恐慌時代の景気対策事業として建設された道路だという。
 風光明媚で知られる道路だけあって、眺めはすばらしい。針葉樹林の奥に雪を被った岩山が続く。しばらく走ると、道路の左側にターコイズ・ブルーの広々した水面が現れた。
「わあ、きれいな水の色」
 未玲が歓声を上げた。
 ボウ湖という湖らしい。湖畔には赤い屋根のレストハウスのような建物が見える。
「寄りますか?」
「もし時間があれば」
 ここは予定していなかったが、車を停めて湖畔に行く。
「昨日のレイク・ルイーズもきれいだったけど、どうしてこんな色をしているのかしら」
 未玲が言う。
「氷河が削り取った岩の粉が水に浮遊してて、太陽光の水色を特に反射するかららしいですよ」
 百合香が答える。
「そうなんだ。百合香さん、詳しいのね。さすが」
「この湖の色は特にきれいですね。明るく澄んでいて」
 こんな調子で、車は何度もビューポイントに立ち寄った。
 道路が次第に急な上り坂になり、ヘアピンカーブを抜けてたどり着いたのがコロンビア氷原で、このコースのハイライトに当たる。
「あの奥の部分がアサバスカ氷河の先端よ。昔はもっと手前まで氷が来ていたらしいけど、温暖化でずいぶん後退してしまったみたい」
 ここでは雪上車に乗って氷河の末端まで行くツアーに参加した。陽気なガイドが冗談を言って乗客がどっと笑うが、悠太には半分くらいしかわからない。
 氷河は雪が固く凍ったスキー場のような感じで、さすがにその場に立つと広大さを実感する。氷が解けた水がちょろちょろ流れていく。この水は最終的にどこの海に行くのだろう。距離的には太平洋が近い。まさか大西洋ではあるまい。百合香に言うと、
「さっきガイドさんが、ここはアサバスカ川の源流だって言ってたわよ。アサバスカ川はジャスパーに向かって流れていくの。最後はマッケンジー川に合流して北極海に注ぐんだって」
 彼女はガイドの言うことをちゃんと理解していたらしい。
 食事をレストハウスで済ませて、再び車を走らせる。すでに午後を回っていた。
 氷原からジャスパーへは、百合香の言うとおり、アサバスカ川に沿って下っていく。景色は相変わらず素晴らしいが、今までよりは谷幅も広く、景色も単調な感じがして、悠太は運転して軽い眠気を感じ始めていた。
 それでもサンワプタ滝やアサバスカ滝などのビュースポットで気分をリフレッシュしながら、無事にジャスパーの街に着いた。
 すでに四時近かった。
 予約していたホテルにチェックインする。
「疲れたでしょう。長時間運転してくれてありがとう。おかげでとても素敵な景色を堪能できたわ」
「どういたしまして。僕も運転して楽しかったよ」
「わたしは先生と役場へ行って、悠太さんのお父さんがこちらに住んでいるのかどうか調べてみる。ここで休んでて」
「大丈夫?」
 百合香は微笑んだ。
「うん。何かあったらすぐに電話するから」
「じゃあ気を付けて」
 悠太はベッドに横になると、すぐに眠気に襲われた。半日一人でハンドルを握った疲れが出たらしい。

 目が覚めると、辺りはかなり暗くなっていた。
 ドアがノックされた。
「目が覚めた?夕ご飯に行きませんか?」 
「あ、はい」
 悠太は慌てて起きた。
 部屋の前に女性二人が立っていた。
「起こしちゃってごめんなさいね。もし疲れてたらもっと寝ていてもいいわよ」
「僕もお腹減ったから。行きましょう」
 一階のホテルのレストランに入った。
 客はそこそこ入っていたが、うるさくはなく、落ち着いた雰囲気だった。
「用事は済ませられた?」
「ええ」
 百合香は頷いた。
「役場へ行って、こういう名前の日本人がいないかって尋ねたんだけど、よくわからなくて、そうしたらその場にいた住民の方が、それらしいひとがやっているお店なら知ってるって言ってくれたのよ。さっそく教えてくれた雑貨屋さんに行ったらお休みだったので、明日の朝改めて行くことにしたの」
 百合香の説明に頷いている未玲を見ると、せっかく目指す相手を見つけられたのに、どこか浮かないような表情をしていたので、悠太は少し意外に思った。でも考えてみれば、あなたの息子さんが亡くなりました、と言わなければならないのだ。楽しいはずがない。
 食事をオーダーする。
 悠太は再びアルバータ牛のステーキ。
「お気に入りなのね」
 女性二人も、じゃあ、私たちも、と小振りのステーキを頼んだ。
 それでも百合香には大きいらしく、ナイフで半分近くを切り分けて悠太の皿に載せた。それを見て未玲も、
「私も、残しちゃ悪いから」
 と真似をしたので、悠太の皿は肉で溢れそうになった。
 バンフのレストランほどの感動はなかったが、こちらのステーキも満足できる味だった。増量された部分もすべて平らげた。
 食後にコーヒーを飲みながら、未玲が言った。
「百合香さん、今日はありがとう。助かったわ」
「どういたしまして」
「それで……明日なんだけど」
「ご一緒します?」
 百合香の申し出に未玲は首を振った。
「ごめんなさい。明日は独りで行くわ。いつまでも付き合わせちゃ悪いし」
 歯切れの悪い口調だった。
 百合香は、何事もなかったように頷いた。
「そうですね。それがいいかも。あまり立ち入るのもよくないですから」
「ごめんなさい」
「いいえ、気になさらないでください」

 翌日の昼前、三人で出かけた。
 悠太にとって初めて歩く街は、バンフと比べると小規模な印象だった。大都市から遠いだけあって、観光客もバンフほどではないのだろう。
 三角屋根の山小屋をイメージするデザインの商店が多い。道幅もそんなに広くないし、商店の数も人通りも多くない。こちらの方が素朴で落ち着いた雰囲気があって悠太は気に入った。
 いくつかの小さな商店が集まったショッピングモールの中に入った。広場の一角の「EDITH」という名前の雑貨屋が目的の店のようだった。
「じゃあ、わたしたちはこの辺で。ほかのお店を見ていますから。終わったら連絡ください」
 と百合香が言った。
「そうするわ。ありがとう」
 その時、店の脇の通路から男性が出てきた。初老の日本人だった。背が高く、白髪をもじゃもじゃと生やしている。店の中に入ろうとして、三人を見とがめて立ち止まった。
 もしかして、これが北山翔太の父親なのだろうかと悠太は一瞬思った。
 男性は三人のうち、未玲に目を留めた。
 未玲も相手を見つめた。そして、少しためらったのちに声をかけた。少し声が震えているようだった。
「北山健吾さんでしょうか」
「そうですが。ええと、……あなたは」
 男性はそう言いながら、相手が誰だったか、思い出そうとするような表情をした。
「蔵原未玲です」
「蔵原未玲……え。……あなたが」
 男性の驚愕の表情に、いったい何が起きたのか、悠太は混乱した。知り合いだったのか?悠太が二人の様子を見ていると、未玲がこちらをちらっと見て、覚悟を決めたように軽く深呼吸をして言った。
「実際にお会いするのははじめてね、お父さん。私のことおぼえてらっしゃるかしら」
 未玲は呆然とする百合香と悠太に軽く会釈して、そのまま男性と店の中に入って行った。

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