第1章 再会

文字数 8,685文字

 再会

 地下鉄の混雑した車内にいた。
 普段地下鉄に乗らない悠太には初めての路線だった。どこを走っているかもわからないまま、トンネルを走るゴーっという音が車内に響いていた。
 狭いシートに腰掛け、スマホで路線図を見ながら、降りるのはどの駅だったかと考えているうちに、どうやらこの電車では目的地に着かないことがわかった。次の駅で乗り換えなければと、立ち上がり、すし詰めの乗客をかき分け扉へ近づこうとするが、身動きがとれない。降りないと約束に間に合わないと焦っているうち、はっと気づいて目が覚めた。
 全然眠れないと思いつつ、気が付くと熟睡していたらしい。といっても腕時計を見ると、眠っていたのはせいぜい一時間ほどだった。中途半端な時間だったのと、椅子に座ってずっと俯いた姿勢のままでいたために、頭がぼうっとして、なおかつ首も痛い。
 ゴーっという音が相変わらず響いている。
 それは地下鉄ではなく、飛行機のエンジンの音だった。
 成田空港からカナダ・バンクーバー行きの旅客機の室内は、旅客も長旅で疲れたのか、話し声も少なかった。
 ほどなく朝食が運ばれてきた。
 狭いエコノミーの座席でパンとサラダを食べる。食欲はあまり湧かない。半分ほど残してしまった。
 悠太は窓の外を見た。
 西海岸最大の島、バンクーバー島と、北米大陸とに挟まれた内海の上を飛行機は南下していた。窓の下には海が波立ち、白く光る水面に黒っぽい島々が点々と浮かんでいるのが見える。思いのほか入り組んでいる海岸線に沿って、豆粒のような船がここかしこに航行していた。水面の彼方には夏でも雪を被った山脈が続いている。
 飛行機に乗るのも、海外に行くのも初めてだった。期待と緊張感が悠太の心を占めていた。
「あと三十分ほどで本機はバンクーバー国際空港に到着します。ほぼ定刻どおり、現地の天気は晴れ、気温は十五℃です……」
 日本語のアナウンスに続いて英語が流れると、エンジンの音がいく分静まった。高度を下げるために出力を落としたらしい。
 時間とともに海面が徐々に近づき、やがて飛行機が大きく傾き、旋回し始めた。もともと高所恐怖症の悠太は、失速して海に落ちることはないだろうとは思いつつも、高度がズんと下がっていくたび、ひやっとしてしまう。
 水面がどんどん近づいてくる。まさかこのまま、と思った瞬間、地面が現れ、飛行機は滑走路にドスンと無事着陸した。

 ボーディングブリッジを渡り、初めて異国に降り立ったと感慨にふける間もなく、エスカレーターを上り下りし、曲がりくねった通路を他の乗客が進む方向へ急ぐ。
 成田とは空気が違う。いく分乾燥した感じと、薄い香水のような匂い。外国に来たことを実感する。
 空港はちょうど各国からの便が集中する時間帯なのか、入国審査場にはすでに長い列ができていた。

「何しに来たのかしら?」
「観光です」 
「どこへ行くの?」
「バンクーバーからロッキーをドライブするつもり」
「あなた一人で?」
「イエス」
「現地に友達とかいないの?」
「ノー」
 長いブロンドの髪をした入国審査官の女性はなかなか離してくれない。キオスクで自動入国手続きは済ませたので、そんなに訊かれることもないはずだが、もしかしたら怪しまれているのだろうか。悠太は内心焦りつつも、平静を装った。
「バンクーバーではどこに泊まるの?」
「ウォーターフロントホテルです」
「いつまで滞在するんですか」
「十五日まで」
 悠太は航空チケットの予約票を見せた。
「OK。よいご旅行を」
 審査官は急に興味を失ったように言って悠太を解放した。
 バゲージ・クレームでスーツケースを取り出し、税関を抜け、到着ロビーへ急ぐ。
 様々な人種、観光客や商用客が入り混じり、雑多な雰囲気だった。ホテルやツアーの出迎えの人たちが小さなプラカードを持って立っている。
 お目当ての人影を探すが、広くてわからない。場所をもっと特定しておくのだったかと思っていると、
「悠太さん」
 背後から聞き覚えのある、線の細いソプラノの声がした。振り返ると、目の前に、黒のカジュアルスーツの日本人女性。
 毎日のようにウェブでやりとりをして、顔や姿は見ているが、こうして実物と対面すると、やはり全く違った感覚を呼び起こすものだ。
「……」
 自分にとって一番大切な、特別なひと。悠太はじわっと胸が熱くなるのを感じた。
「日本からお迎えに来ました」
 あえておどけた口調で言う。相手はふっと笑った。
「疲れたでしょう」
「ちょとだけね」
 首を傾げて百合香はにっこり微笑んだ。悠太の乾いた心の中に暖かいものが注がれ、満たしていく。
「やっと会えたね。うれしい」
「僕もだよ」
 悠太も笑顔でうなづいた。

                    ***

 悠太と光陵大学へ通う百合香が、カナダのバンクーバーの大学に留学して一年が経った。
 途中会いに行くという約束は果たせず、彼女と実際に会うのは丸一年ぶりだった。
 カナダの大学は四か月で一つの区切りになっているらしく、九月に始まり、十二月のクリスマス前までが一学期、一月から四月が二学期となる。次の五月から八月の四か月は授業がない。その間まるまる夏休みということになる。
 休みといっても文字通り何もせずに休んでいる者は多くなく、夏季講座を受けたり、企業のインターンになったりと、何らかの活動をするのが通常らしい。
 とはいえ、自由になる時間が四か月もあるのはうらやましい。
 百合香の場合は、五月、六月は夏季講座を取り、六月の最後にエレナというメキシコからの留学生と一週間ほど、トロントからケベックまでカナダ東部を旅行した。そのあとは、カナダ在住のプロのヴァイオリニストに招かれて、彼女の別荘でレッスンを二か月近く受けた。
 もちろん百合香は予定していた単位はすべて取得しており、十月からは三年生として再び悠太と一緒に大学に通うことになる。書籍やパソコンなどの主要な荷物はすでに日本に送ってあって、帰国の準備も順調に進んでいるようだった。
 一方、悠太の通う光陵大学の方は七月いっぱいまで授業があり、夏休みは八月から九月末までの二か月間だった。
 本当は夏休みが始まったらすぐに百合香に会いに行きたかったのだが、彼女が八月中、レッスンに行くことが急遽決まったのと、悠太自身も渡航費用の足しにするために父親の法律事務所でアルバイトをすることにしたために、実際に来たのは九月も半ば近くになってしまった。
 一般の夏休みシーズンを避けたこの時期の方が航空券も若干安くなって良いのかもしれない。
 予定では今日と明日はバンクバーに泊まり、そのあと一週間ほどロッキーをドライブ旅行し、百合香と一緒に帰国することにしている。
 

                    ***

「じゃあ、カノジョを迎えに行って、連れて帰ってくるわけね。楽しみね」
 行く直前、アルバイト先の飯岡和子という女性職員が悠太の話を聞いてうらやましそうに言った。
「一年も会わなくて寂しくなかったの?」
「それは……でも今はウェブで顔を見たりできますから」
「そうよね。時代が変わったのよね。でもやっぱり遠距離恋愛って憧れちゃうわ。好きな時に会えないっていう困難を二人で克服するっていうイメージがあるでしょ」
「はあ」
「普通は一年以上も会わないと、別のひとと付き合ったりしちゃっても不思議じゃないわよ。前もうちのお客さんで、単身赴任で海外に行って、現地で好きな女性ができて、結局奥さんと別れることになって離婚訴訟になった例があったわ。ねえ、先生」
「ああ。まあ、それは、それだけの関係だったんだろうね」
 父の孝太郎があまり興味なさげに返事をした。
 今年大学二年生になった悠太に、自分の法律事務所でアルバイトすることを勧めたのは孝太郎だった。
 友人と共同経営している従業員数名の小さな事務所。夏は事件も少なく休暇を取る者も多いため、事務の代替要員として毎年臨時の職員を雇っている。
 司法試験予備試験を受けることを決めた息子に法律実務に触れさせることで、実践的な感覚を少しでも養わせようと考えてのことだった。
「予備校なんか行くより、ずっといいぞ」
 父親としては息子の方にはあまり金をかけたくないという下心もあるようだが、実際、法律の現場にいると、裁判や法律解釈などの具体的なイメージが掴めて、試験対策だけでなく、法学部生として勉強になる。
  仕事の内容は資料や書類整理、簡易な案件の書類作成のほか、時間があれば打ち合わせなどにもオブザーバー参加して話を聴いたりしている。経理などの庶務的な仕事は飯岡がやっているが、悠太もときどき手伝う。
 五十代らしい彼女には二人の娘がいて、二人とも独身で働いているらしい。
 暇があれば、話しかけてくる。若い悠太に興味があるというだけでなく、百合香についてもいろいろ訊かれるのは嬉しい反面、煩わしいと思うこともある。
「でもこんな真面目で優秀な息子さんとピアノの上手な娘さんがいて、先生も楽しいでしょう。お嬢さんの方も来年から大学でしょ。先生もまだまだうんと頑張ってもらう必要がありますよね。もちろん悠太さんも彼女のためにも予備試験合格しなくちゃね」
「だといいんですけど」
「だめよ、頑張らなくちゃ。応援してあげるから。ここでたくさん仕事していろんなことを憶えればいいのよ」
「はい」
「それに司法試験も、昔ほどは難しくないっていいますよね、先生」
「それは一概にはいえないな。予備試験は難しいんだろう。でも私の学生の頃は、民商法関係の法律は、文語体で歴史的仮名遣いのカタカナ条文がまだ残っていたからねえ。たとえば、『債権ハ金銭ニ見積ルコトヲ得サルモノト雖之ヲ以テ其目的ト為スコトヲ得』なんて具合で、漢文を読ませられているみたいだったよ。その点では今の方が恵まれてるんじゃない?……ところで悠太、今の条文何だかわかった?」
「債権総則の最初のところでしょ」
「ピンポーン。……そのくらいは知ってるか」
 一か月以上働いて残業代込みのバイト代は手取り二十万円弱。貯金と合わせても、パスポートやスーツケース、航空チケットでほぼ消えてしまう。百合香は疲れるからビジネスクラスの方がいいと言ってきたが、もとよりそんな贅沢は許されるはずもない。ただ、向こうでの滞在費用は、自分のために迎えに来てくれたお礼という名目で、百合香が持ってくれることにはなった。
 
                    ***

「混んでたのね。到着したのになかなか姿が見えなかったから」
 百合香は微笑みを絶やさずに言った。日本にいた頃よりも表情が明るく豊かになったような気がする。悠太に会えたからというだけでもないだろう。一層の魅力が彼女に加わわったと思う。
「うん。入管でもいろいろ訊かれたし」
「そうだったの?『一人で観光に来た』って言ったんでしょう」
 入管で百合香のことを言わなかったのは、ビザなしで入国する場合、就労や就学などの長期滞在を疑われるようなことは言わない方がいいという、彼女の助言によるものだった。現地の友達と会うというのも、友人の家に住み着くのではと思われる可能性があるのだという。
「でもさ、僕みたいな学生が一人で観光地を旅行って、それも何だか怪しいって思われたかもね」
「そうか。ごめんなさいね。でも無事来れてよかった。お腹すいてない?」
「機内食たべたばかりだから」
 といっても半分しか食べなかったし、百合香と会えて安心したせいもあって、少し空腹を感じてきた。
「軽くお茶でも」
 と言うと、百合香は少し慌てたように頷いた。
「そうね。じゃあ、フードコートに行きましょう。……ところで悠太さん、今日は一緒に知り合いを連れて来たの。空港を出る前に、よかったら会ってくださらない?疲れてたらいいけど」
「もちろん会うよ。ユリカさんの友達なら」
 何となく二人きりで過ごすことをイメージしていたので、少し戸惑ったが、少しの時間ならかまわない。
「じゃあ、連れてくるからここで待ってて」
 ほどなくして百合香とともに、二人の若者がやってきた。
 悠太や百合香とほぼ同年代か、やや年上らしく見える男女で、一人は日本人と思われる女性。百合香よりもだいぶふっくらした印象がある。といっても太っているわけではない。百合香が細すぎるのだ。
 もう一人は金髪を短く刈った男性。背が高く、親しみやすい笑顔を見せている。
「悠太さん、紹介するわ。こちらがジェイムズ・アンダーソンさん。そしてこちらが黒崎香織さん。二人とは先週までローゼンシュタット先生のところで一緒にレッスンを受けてたの」
 そう言って、二人には英語で
「ジム、香織さん、こちらが秋野悠太さん。私の彼氏」
 百合香は最後の「ボーイフレンド」という言葉を口にしたあと、ちらっと悠太を振り返った。英語でとはいえ、悠太も百合香に自分のことを「彼氏」と紹介されたのは初めてで、嬉しくもあり、少しびっくりもした。
 「黒崎香織」という名前には聞き覚えがある。確か、百合香が中学生のとき、コンクールで優勝を争った相手ではないか。 
「はじめまして。悠太さん」
 香織が微笑みを浮かべて握手を求めて来た。ふんわりとしたその手を握った。ついでジムとも握手を交わした。
「ナイス・トゥ・ミーチュユー」
 ジムは悠太が英語が話せると思ったのか早口で言ってきたが、悠太には半分も理解できなかった。それを見て 百合香が、彼はあまり英語は得意でないので、自分が通訳するとジムに申し出た。
「悠太さんのことは百合香さんから何度も聞きました。とても素敵な方だって。実際会ってみて、本当だとわかりました」
 悠太は恥ずかしくてどう返事をすればいいか口ごもった。本当に百合香が訳したとおりのことを言ったのだろうか。
「二人は今ジュリアードの大学院に在籍していて、これからニューヨークに帰るの。ついでと言ってはなんですけど、その見送りを兼ねてるのよ」
「ああ、そうなんだ」
 やっと二人がいる理由がわかった。
 出発まではまだ時間があるとのことで、四人で空港内のフードコートへ行った。
 少しだけお腹の空いた悠太はコーヒーのほかにドーナツを買った。頬張ると匂いも強く、かなり甘い。
 もっぱら話しているのは百合香と香織で、男性二人は聞いていることが多かった。
 香織は今はコンサートは数を絞って、学業メインにしているのだと言った。
 ジムとは学校で知り合い、話しぶりだと、二人は付き合っているらしかった。
 ジムは、アメリカのコネチカット州のニューヘイブン出身だと言う。コネチカットなんて地図で名前を知ってはいるものの、東部の小さな州というイメージしかないが、ニューヘイブンというのは有名なイエール大学がある都市らしい。こちらはまだプロとしてデビューはしていないという。気さくで知的な印象で、芸術に携わる者の繊細さもあって好感が持てた。
 百合香も香織もジムにもわかるように英語が増えた。悠太は長旅の疲れもあって、あまり会話が頭に入らなくなった。
「疲れた?そろそろ行く?」
「あ、でもまだいいよ」
「ちょっと席をはずすわね」
 百合香が席を立った。お手洗いらしい。
 一瞬沈黙が訪れた。何か話すべき話題がないかと少し決まりが悪くなったと思ったそのとき、香織がジムと目配せをしてから、悠太に日本語で話しかけてきた。
「あの、悠太さん、長旅でお疲れのところ申し訳ないんですけど、百合香さんのことについてお聞きしていいですか」
 頭の回転の速さを思わせるような、かなりの早口だった。
「はい、何でしょう」
「百合香さん、ヴァイオリンに戻る気は本当にないのかしら」
「え」
「彼女、ヴァイオリンはずっと続けるって言ってますけど、私の言うのはもちろん、プロとしてということです。私、彼女がヴァイオリンを辞めたって噂を耳にしていたんです。とても残念だなって。私なりに彼女の演奏は好きだったから。昔コンクールで一緒になって……」
「あ、それなら知ってます。黒崎さんが優勝されたとか」
 香織は軽く頷いたが、構わず続けた。
「そうしたら、クララ、あ、クララって、ローゼンシュタット先生の名前です。先月クララの別荘に招かれて行ったら、彼女がいて驚いたんです」
「はあ。そのローゼンシュタットって」
 ヴァイオリニストだとだけ聞いていた。どういう人なのかは知らない。
「ご存じないですか。クララ・ローゼンシュタット。ヴァイオリン奏者では有名な方です。名前のとおりドイツ系なんですけど、十年くらい前に故郷のウイーンからバンクバーに移住したんです。かなり忙しいので、最近ではこれといった弟子もいないし、めったにレッスンとかしないんですよ。今回はジムの先生を通じてお話をいただいて三週間だけレッスンしてもらえることになって、とってもラッキーだって思って。ウイスラーの別荘にお招きいただいたんです。そうしたら、そこに百合香さんがいて、彼女もクララに招かれたんだって言われて、びっくりしたんです。しかも私たちが来るまでひと月、付きっきりでレッスンを受けていたらしくて」
 今度カナダ在住のヴァイオリニストのところへレッスンを受けに行くことになったと百合香から連絡があり、その先生の家で一緒に写っている写真なども送ってもらってはいたが、詳しいいきさつは知らされていなかった。香織が彼女から聞いたところによると、彼女のホームステイしている家の主人がローゼンシュタットと面識があり、何かのパーティの席でヴァイオリンの上手な日本人の学生が来ているという話をしたらしい。
 普段はアマチュアのヴァイオリニストなど興味を示さない彼女が、その時はなぜか関心を示して、ぜひ聴いてみたいと言ったのだという。そうして百合香をバンクーバーの自宅に招き、演奏を聴いたあと、その場で、今度八月に別荘でほかの学生にレッスンをすることになったから、よかったらぜひいらっしゃい、都合がつけばその前から来てもいいわ、と言われたというのだった。
「彼女の演奏を何年かぶりに聴いて、クララが目をかけただけのことはあると思いました。あの頃よりもうまくなっているのはもちろんなんですけど、なんていうのかな、すごく音に透明感があって、澄み切った水彩画を見ているみたい。聴いていてとても心が安らぐの。私とは表現の方向性が違うけど。ね、ジム」
 香織は英語で同じことを言うと、ジムは頷いた。そして、彼女はヴァイオリニストの道を進むべきだという意味のことを力を込めて言った。香織も同調して、
「秋野さんからも彼女に言ってみていただけませんか。私たちの言うことはあまり本気にしていないみたいだけど、あなたなら彼女の気持ちを動かせるかもしれない。政治学を専攻しているって言ってましたけど、絶対、学者よりも演奏家になるべきよ。あれだけの演奏ができるんですもの。埋もれさせるのは惜しいわ」
 中学生のときのコンクールであなたの演奏を聴いたのがプロをあきらめるきっかけだったようだと言うと、香織は首を大きく振った。
「彼女もそんなようなことを言ってました。でも私が言うのもなんだけど、それは違うと思います。彼女の演奏は少しオーソドックスでないところがあったから理解されにくかっただけです。コンクールも、それまでほとんど受けてなかったみたいだし。私の方が場慣れしていたから。ですから、コンクールのことは言い訳っていうか、それとは別に、彼女の中で音楽だけをやり続けることに対する違和感のようなものが生まれてたんじゃないかって思いますけどね。それは彼女に限らずありがちなことだから」
 百合香自身も、コンクールはきっかけであって、本当の理由は別にあるようなことを言っていた。彼女を悩ませた両親の事件のこととか、限られた人間関係の中だけで生きることへの閉そく感のようなものが百合香に別の道を進ませることになったようだった。香織の指摘はおそらく正しい。
「でも、今からじゃ遅いんじゃ」
 香織は首を振った。
「そんなことはないと思います。音大出てなくてもプロになった人は普通にいますよ。
 百合香さんはすでに演奏スタイルは完成しているし、佐倉先生みたいな一流の演奏家にレッスンを受けているし、あとは名の通ったコンクールで再び入賞すれば、ぜんぜんあり得ると思います。全日本コンクールで二位になったときも、私だけじゃなくて、彼女にもプロデビューの話があったんですよ」
「そうだったみたいですね」
「私の所属する事務所がオファーしたって、後で知りました。あの御田村莉々の娘で、彼女の親友だった佐倉涼子の愛弟子っていう話題性もありますしね。
 でも本人も佐倉先生も、まだ早いしコンサートには向いていないって辞退したそうなんです。確かにそうなったら学校にはほとんど通えなくなるし、孤独で世間知らずな子になっちゃうかもしれないし。私がまさにそうだったんですけど……あ、帰って来たわ。じゃあそういうわけで、お願いしますね」
 百合香が戻ってくると、再び英語交じりの会話が続いた。
「じゃあ、そろそろ搭乗口へ行こうかしら。ねえ、ジム」
 ジムが立ち上がり、香織の手を取った。
「ああ、ここでいいですよ。見送っていただかなくて。百合香さん、一緒に過ごせて楽しかったわ。日本へ戻ってからもヴァイオリン頑張ってね」
「ええ。ありがとうございます」
 お互いに握手を終えて、ジムと連れ立って搭乗口に向かう際、香織が悠太に目配せをした。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み