第5章 港を見下ろす部屋

文字数 6,908文字

 港を見下ろす部屋

 空港でぶらぶらして昼食もとった。百合香のホームステイ先を訪ねる前に、まずは、ホテルに荷物を置いておこうと思う。
 空港からホテルへは鉄道が一番早いという百合香の勧めで、スカイトレインという名称の、無人運転の列車に乗り込む。
「わ、加速いい」
 東京の電車と同じ感覚でいると、走り出すとき転びそうになる。
「バスなんか、もっとよ。電気自動車だからかもしれないけれど、乗った途端にグイって行くから」
 日本にいた頃よりも百合香はさらに痩せたように見える。といっても不健康な感じではない。少し締まった印象だった。
「何かスポーツやってるの?」
「何もやってないけど。週に一度大学のジムに通って、軽いエクササイズしてるの。そのせいか体調はいいみたい」
 列車は大きな川を渡ったところで地下に潜り、三十分足らずで終点のウォーターフロント駅に着いた。
 地上に出るとそこはバンクーバー中心部の波止場に近い場所で、二三百メートルほど歩いたところに百合香が予約してくれたホテルがあった。
 そんな高級ホテルじゃなくていいと言ったのだが、日本と違って金額と安全は比例するので、高額な宿泊費も決して贅沢ではないのだと言われた。
「たいせつなひとに何かあったら困るでしょ」
 早めのチェックインを済ませ、部屋に着いた。
「わあ、いい眺め。海が見える」
「足元が客船ターミナルで、対岸がノース・バンクーバーって言われる地域ね」
「ユリカさんの家は」
「うちはちょうど反対の方角だから見えないわ」
 悠太は横に立つ百合香の手を取った。百合香はこちらに振り向いた。
 お互い見つめ合う。
 改めて愛しさと切なさがこみあげてくる。手を取った。
「会いたかった」
「わたしも……」
 身体を離し、再び見つめあう。先ほど出かかった涙が再び目に溢れてくる。
 百合香が顔を近づけてきた。
 唇を重ねる。といっても、いわゆるディープキスはまだしたことがない。今回も軽く唇を合わせただけだった。
 またもう一度。今度は少し長めだったが、それでも数秒くらい。ソファを寄せて並んで座った。
 百合香が悠太の耳元でささやくように、
「本当は寂しかったの。何度も日本に帰ろうと思った。自分で望んだのにそんなこと言う資格ないけどね」
 留学するひと月ほど前から、すでに百合香は元気がなくなっていたのを悠太は思い出す。
 渡航の際に使う身の回り品などを二人で買いに行ったとき、家にもうすぐ着くあたりで急に涙を浮かべて立ち止まってしまったので、
「どうしたの?」
 と声をかけると、
「……やっぱり行くのやめようかな」
「え、そんな……」
 留学や渡航の手続きほとんどすべてが終わっており、今さら止めることはできない。
「だって、悠太さんと離れ離れになってしまって、不安だし、そんな気持ちで行ってもかえってみんなに迷惑かけちゃうかもしれないし」
 そう言って、不安げに悠太を見つめるのだった。
「いろいろ心配になっちゃうよね、やっぱり。独り暮らしでしかも海外なんて初めてだもん、知らない人ばっかりで、無理はないと思うよ。でもさ……」
 何とかなだめすかして、いつでも連絡していいからとか、本当にダメなら帰ってきていいから、とか、今までにも何度か同じようなことを言ってきたのを、再度繰り返した。
 悠太としては、百合香が今さら予定をひっくり返して学内で不利な立場に追い込まれないように、という理由のほかに、二人の将来も考えると、一度、少し距離を置くのも意味があるのでは、という思いもあった。
 というのも、百合香が大学生になってから、自分への依存がかなり高まってきたように感じていたからだ。百合香に頼られるのはもちろんうれしいし、自分が百合香に必要とされているよろこびもあるのだが、でもそれが本当にいいことなのかは別だった。
 悠太の方は、自然と百合香を束縛する方向に意識が行ってしまうのを自覚していた。百合香を支配したいというほどではないにしても、彼女の行動を把握していないと不安になることが多くなった。入学したての頃は確かにカルト宗教に勧誘されそうになるなど危ういところがあったのだったが、一年も経つと初対面の対応や男子学生のあしらいも上手になってきた。
 自分も百合香も、少し意識をリセットしないと、この先よくないかもしれない。漠然と悠太は感じ始めていたところだった。
 だから、二人の愛情を確かめ、より大きく育むためにも、一年離れ離れに暮らしたのは意味があったのではないか、と悠太は思っている。
「ごめんね。お正月に行けなくて」
「ううん。いいの。……でも、悠太さんの言う通り、いい子にしてたわ。勉強もたくさんしたし」
 百合香が急に甘えた口調になって耳元で囁いた。悠太はぞくっとした。
「それはよかった」
「瑞希ちゃんには、他の男性とは距離を置くように強く言われてたし」
「そんなこと言ってたんだ」
 瑞希は百合香と二人きりのときに、結構きついことを言うらしい。「叱られちゃった」などと百合香が二三度、悠太に漏らしたことがある。もちろん、瑞希が百合香に悪い感情を持っているわけではなく、もっとすてきなひとになってほしいという思いからだということは、百合香もわかっている。でも、あまり自分の理想を押し付けないように、瑞希には遠回しには言っているのだが。
「お兄さんみたいに紳士的で女性を尊重してくれるような男の子なんてめったにいないって。もちろん、わたしもそう思ってたけど。……悠ちゃんの方はいい子にしてたのかな?」
「もちろんだよ」
「本当?ほかに誰かと付き合ったりしていないの?」
「いるわけないでしょ。ずっとユリカさんのことを思い続けてたんだよ」
「うれしい。……史奈とも?」
「もちろん」
 史奈が自分に特別な感情など抱いていないことは百合香も知っているはずだが、今でも口癖のように名前が出てくる。
 母の涼子の仕事の関係で三年前に函館聖花学園に転校した史奈は、母親が再びこちらに戻ってきたので、この四月から元の聖花学園に復帰した。
 何度か妹と一緒に会っているが、高校三年生になって、態度や言葉遣いなど、瑞希以上に大人びていた。元々勉強ができる子だったが、北海道でますます力を入れたらしく、国公立の医学部が第一志望だということだった。
「でも国公立だと限られちゃうから、私立も受けますよ。光陵の医学部もね」
 なお、佐倉母娘の帰京により、留守中の家を借りていた秋野家も、再び他所に出ることになった。
 すでに昨年から両親は、郊外に一軒家を建てるべく、物件を回っているのだが、なかなか条件に合うものがなく、とりあえず元いた貸マンションに戻っている。念願の瑞希の練習室を造るとなると、ある程度の広い土地が必要だが、といって地価の安い遠方だと、学校やレッスンに通うのが大変になる。すべては瑞希のピアノが最優先の秋野家としては、新居の選定は簡単ではない。
 当面の解決策として出されたのが、瑞希ちゃんはうちにそのまま一緒に住めばいいのではないか、という涼子の案だった。昼間は西山家の音楽室を今まで通り使えばよい。夜は涼子は練習しないので、佐倉家の音楽室で練習できる。そうすれば思う存分練習できるし、受験を控えた大事な時期に引っ越し問題に巻き込まれなくて済む。
 その提案が通り、現在は瑞希だけ史奈と一緒に暮らしている。
「瑞希ちゃんも受験なのよね。音大ならどこでも入れるでしょうけど」
 百合香が窓の外の景色を見ながら言った。
 そのとき悠太の意識に少年の顔が浮かんだ。
 音楽の才能あふれる小柄な少年。
 少年と会ったのは去年の七月、西山家で百合香の留学準備の手伝いをしていたときだった。蔵原先生に連れられて遊びに来たのだという。これが二度目らしい。
 瑞希と同じ蔵原未玲先生の生徒で、レッスンでよく一緒になるのだと瑞希が説明した。
「初めまして。北山翔太といいます」
「よろしく」
「こちらの音楽室で僕も少しだけ練習してみたくて、秋野さんにお願いしたんです」
 名前だけでなく外見も自分と似た感じだな、という印象だったが、話しぶりは自分が高校生の頃より明らかにしっかりしていると感じた。
 翔太も高校に入ってさっそくコンクールを受けるのだという。
「瑞希ちゃんのライバル出現ね」
「ライバルっていうより、もう勝ち目はないですね」
 百合香の言葉に瑞希が珍しく殊勝なことを言った。
「そんなことはないです。僕もまだまだですから。瑞希さんとは一緒に決勝出ましょうね、って言ってるんです」
 まあ、どちらが勝っても悠太にとってはどうでもよかったが、瑞希は何となく翔太をライバルというだけでなく、異性としても意識しているように思えたのは気のせいだろうか。
 百合香がぜひ聴きたいというので、音楽室で少年の演奏を聴くことになった。
「じゃあ、短い曲で」
 ショパンのエチュード作品中十の一。右手の分散和音が鍵盤上を高速で駆け回る曲だ。悠太も瑞希の弾くのを何度か聴いて知っている。
「すごい」
 百合香がつぶやいた。
 悠太には瑞希の演奏とどう違うのか、よくわからないが、後で百合香に聞くと、音の安定感が抜群だということだった。
「あの第一番って、作品十でも一番難しい曲のひとつなの。瑞希ちゃんもきれいに弾けるけど、あの子のは一音一音を完全にコントロールしているような感じだった」
 ほかにラフマニノフの前奏曲を何曲かとコンチェルトの第三番の一部を聴いたうえでの百合香の予想では、他によほどの子が現れない限り、優勝は彼で決まりだろう、ということだった。瑞希も同じことを百合香に話したことがあるらしい。
 百合香がそう言うなら間違いないだろう。瑞希には残念だが、上には上がいるということだ。
 しかし、その少年は、百合香がカナダへ旅立って間もない頃、交通事故で亡くなってしまった。あまりにもあっけない結末だった。
 ショックを受けたのは誰よりも瑞希で、もうすぐ予選が始まるというのに手が付かない様子だった。少年を教えていた師匠の蔵原先生も同様だったらしい。しばらくレッスンも休みになり、急遽彼女の後輩にみてもらうことになったほどだった。
 瑞希も何とか気を取り直して優勝したのは立派だったと思う。それでも、自分は本来優勝するはずではなかったという思いは消えないらしく、悠太が愚痴を聞いたり励ましたりしてみても、いまでも完全に心は晴れていない気がする。
 
「……にする?それとも」
 百合香に何事かを聞かれて我に返る。
「あ、ごめん、頭がぼうっとしちゃってて。よく聞いてなかった」
 すると百合香は頬を赤くして俯いてしまった。
「ごめん、違うこと考えちゃってて。ごめんね。ユリカさん。だいじょうぶだから、もう一度言って。お願い」
「悠太さん疲れてるわよね」
「ううん、そんなんじゃないから」
 百合香は納得したようだが、もじもじしている。言いにくいことらしい。
「あさってから出かけるでしょ」
「うん」
 明日はバンクーバー市内の観光にあて、明後日からは二人でロッキーをドライブ旅行する予定になっている。
「初日と二日目のバンフのホテルだけとりあえず予約したの」
「ありがとうございます」
 ホテルやレンタカーの手配も、百合香に任せてしまっている。というより、クレジットカードがないとホテルもレンタカーも予約できない。まだクレカを持っていない悠太は、百合香にお願いするしかないのだった。
「二部屋予約したわ」
 先日電話で百合香と話したとき、ホテルの部屋は別にする?と訊かれたので、百合香としてはその方がいいのかと思い、そうだね、と返事したのだった。
「ありがとう」
「でも……」
「なあに?」
 すると百合香は再び顔を赤らめて俯いてしまった。
「わたしたち、つきあっているのに別の部屋って、やっぱり何だか変じゃない?もちろん、まだわたしたち……」
 帰国する前にロッキーへ行きたいと言い出したのは百合香の方だった。せっかくカナダに来たのだから、写真で見る絶景をこの目で見たいのだけれど、東部を一緒に旅行したアナはこの時期メキシコの自宅に帰ってしまうし、一人でツアーに参加するのも不安だというので、悠太がレンタカーを借りて周遊することにしたのだった。ホテルの部屋は別々でいいか、と最初に言ったのも百合香の方だった。
「それだったら別に同じ部屋でも大丈夫だよ。ユリカさんが心配するようなことはしないから安心して」
 すると百合香は、微かに首を振った。
「わたしがこんなこと考えるのはおかしいかもしれないけれど、悠太さんはずっと我慢してるのかしら、それともわたしじゃ、そういう気にならないのか、どっちなんだろうって、少し気になっちゃって。男のひとのことってよくわからないけど、ほかの子の話を聞くと、わたしたちって少し違うような……。ただ、そんなに、わたしは今のままで不満があるわけじゃないのよ。でも、悠ちゃんがずっと遠慮してるんだったら、わたし、もう……」
「ああ……」
 少し思いつめたような表情の百合香に悠太は何と答えるべきか、迷った。悠太も同じようなことはずっと考えているのだが、自分でも気持ちがうまく整理しきれない。
 百合香は現状が不満なのだろうか。しかし、渡航の直前まで、キスもしなかったし、その種の話題は全く口にしなかった。カトリックの学校で厳しくしつけられたこともあるし、元来が潔癖症なのだろう、と悠太は何となく思っていた。
 百合香以外の女性とつきあったことのない悠太も、もちろん経験はないし、一学年上の百合香に少し遠慮もある。なので、悠太の方から積極的に迫るということもなかった。
 こちらに留学して他国の学生と交流するうちに考えが変わったのだろうか。本音はどちらなのだろう。とりあえずという感じで口を開いた。
「もちろん我慢してる。……僕もユリカさんみたいな女のひとがそばにいると変な気持ちになっちゃう。今なんかもそうだよ。だから何も考えなければユリカさんのことを……」
 百合香がびくっと身体を震わせてこちらを見た。不安げに揺れる瞳を見て、悠太は答えを決めた。
「でも、ユリカさんの気持ちが僕にとっては一番大事だから。自分の思いを優先する気はないよ」
「わたし、よくわからなくて。ずっと悠ちゃんに辛い思いをさせてたのね」
 涙目になった百合香を見て悠太は慌てた。
「ユリカさん、聞いて。実際そんなに辛いわけじゃないし、別に我慢することが悪いとは思ってないんだ。親しくつきあっていたって、何でも許されるわけじゃないでしょ。それにどうしても……したいわけじゃないから」
 自分が百合香と付き合っていることを高校、大学の友人も知っている。百合香が入学してからいつもキャンパスを一緒に歩いているのだから、隠しようもない。彼らの多くはすでに二人の間に肉体関係があると思っているのだろう。それらしいことを言われることもあるが、悠太はいつも曖昧に笑ってごまかしている。
 悠太の希望は、当面、今のままでいることだった。
 お互いの心が通じ合い、そして彼女の心が自分だけを向いているなら、とりあえずは満足だった。それに、一度男女の仲になってしまえば、二人の関係性が変わってしまうかもしれないのが怖かった。
 自分にとって百合香は恋人というより家族に近い存在になってしまったのかもしれない、と感じることさえある。恋人であると同時に、甘えたくなる姉でもあり、もしかしたら手のかかる娘でもあるかもしれない。
「我慢して苦しくないの?」
「うん……大丈夫」
 悠太はつとめて明るくさりげない調子で答えた。
 お互いを信頼しているカノジョができた今でも自慰を続けるなんて、と思わなくもないが、百合香と一緒にいて変な気持ちを起こさないためにも必要だと思う。
 現実と妄想をごちゃまぜにしないように、その時に百合香のことを想像するのは避けているのだが、といって他の女性のことを考えるのも、彼女を裏切るようで後ろめたい。完全な空想に頼ることになる。そんな生々しい事情を百合香には言えない。
「わたしは悠ちゃんが望むなら……。でも、本当のことを言うと、積極的にそういう欲求があるわけではないわ。純潔が尊いって学校や家で言われ続けたこともあるけれど、わたし臆病なの」
「他人は他人でいいんじゃない?別に世間に合わせなくても、僕たちにとって一番自然に、生きやすいようにするのが一番だと思う」
 答えながら、悠太はもう一つのひそかな気がかりを感じていた。それは逆に、果たしていよいよとなったとき、自分は百合香に欲情できるのだろうか、という疑問だった。
 相手のことを好きすぎると、逆に性欲を感じられなくなる場合があるという話を聞いたことがある。
 極力欲望の対象として考えないようにしてきたのが、いざその時になって突然気持ちを切り替えるなどということができるのだろうか。
 
 悠太のもやもやは尽きることがなかったが、そんなこととは知らぬ気に百合香はどこかほっとしたような様子で立ち上がった。
「そうよね。わかった。……じゃあそろそろ時間になるわ。出かけましょう」

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