第15章 秋の陽ざしの中で

文字数 8,909文字

 秋の陽ざしの中で

 百合香が留学から帰り、再び悠太と一緒に大学に通うようになってから十日ほどが過ぎた。季節はすっかり秋にかわり、キンモクセイの香りがキャンパス中に漂いだした。
「お待たせ。今朝少し寒かったでしょ。あわてて着替え直したら遅くなっちゃった。ごめんなさいね」
「急に涼しくなったよね」
 今朝の一時限目は百合香と同じ、日本政治史の講義だった。
 百合香は少し時差ボケが続いたものの、一年前と変わらず授業に復帰した。
 本当は宮島先生の国際関係論のゼミを取ることになっていたのだが、あと半年で先生が代わるというので、辞退した。先生にも連絡して了解を取った。先生からは、あなたにしかできないことを優先した方が良い、音楽で活躍できるよう自分も応援するからと言ってくれたという。
 ゼミに入らないかわりに別の専門科目を二つ取らなければならなくなった。
「論文書かなくてもよくなって、その点は楽だけど」
 三年生のほかの学生が就職活動に入るのを尻目に、百合香は来秋のコンクールへの準備に取り掛かった。もう、後戻りはできない。突然の予定変更で、学業とも両立しなければならず、不安もあるだろう。しかし、彼女にとってはそれが一番いいのではないかと、悠太は思う。同時に、自分が支えてあげなければ、と悠太は改めて心に言い聞かせるのだった。
 その悠太も、来年の夏に司法試験予備試験を受ける予定で、大学と予備校と家の三か所を行き来するだけの生活に戻ってしまった。
 以前に父親から、せっかくの大学生活を、試験勉強だけに費やすのはもったいないではないか、と言われたことを思い出す。確かにこんな狭い世界の中だけでで完結してしまうような生活に息苦しさを覚えるのは事実だった。
 しかしこれも自分で選んだ道だからしかたがない。それに今は百合香がそばにいる。デートをする時間もなかなか取れないが、授業や休み時間を一緒に過ごせるだけでも悠太は満足だった。
 
 
                    ***

「……予定調和っていうか、第二楽章の重たい気分が終楽章で解決されるなんて考える必要はないんじゃないかしら。むしろそれぞれの楽章の個性を際立たせるようにした方がいいと思うわ。瑞希ちゃんも感じてると思うけど、シューベルトの音楽って、ベートーベンみたいに運命や苦悩と闘って克服する、というのではなく、暗くて、底の知れないものと、いつでも寄り添い続けるのよ」
「……そうですね」
 未玲が帰国して最初のレッスン。
 宿題というべき、シューベルトのソナタを通しで弾いた。
 全体をどのようにまとめればいいのか悩んだ曲だった。それについては、無理にまとめようとする必要はない、というのが先生のアドバイスだった。
 確かに、先生の言うとおり、緊張からの解放が曲の推進力となるベートーベンとは音楽の作りが異なる。シューベルトのひたすらに続く音楽の流れの中に聞こえてくる美しい夢のような旋律は、深い虚無と一体のものだ。それに、全体の音楽的な統一はシューベルトもよく考えてつくってあることも、先生に具体的に教えてもらった。
 いく分、気持ちが楽になった。
 レッスンが終わり、リビングでお茶をいただく。
 話は自然と、未玲の海外旅行の土産話になった。前回会ったときは時間もなく、ほんの少し聞いただけだった。
「本当にきれいだったわよ。向こうはもう秋で、黄葉が始まっていたの。アスペンとかラーチとかの木々が色づいていて。お兄さまがずっと運転してくれたの。二人のお邪魔をしちゃって本当に申し訳なかったけれど、一生の思い出だわ」
 未玲はいまだにその感動が残っているような表情になった。
 そんな話がしばらく続いたあと、未玲の表情がふっと変わった。
「ところで……亡くなった翔太さんからもらった楽譜のメモというのを、お兄さまから見せられたわ」
 未玲の探るような視線に、瑞希は思わずびくっとした。自分は先生には何となく見せない方がいいと思っていたのだが。
「曲じゃなくてメッセージだってお兄さまは言っていたけど。瑞希ちゃんはどんな意味だったか判った?」
 瑞希は黙って頷いた。そして未玲をじっと見た。未玲は、ほっと、息を吐いた。少し考えるような表情になって、
「そう。……じゃあ、少し補足というか、説明しなくちゃね。瑞希ちゃんにとっても翔太さんのことはショックだったと思うし」
 未玲は寂しそうに微笑んだ。
「あの楽譜のとおり、翔太さんは私に、その……好意を持っていたみたいなの。といっても、それは恋愛と言えるほどのものかはわからないわ。その年ごろの男の子って、年上の女性に憧れるみたいなことがあるみたいだから」
「そうかもしれません」
 兄のことを考えると、未玲の言うことも当たっていると思う。翔太の場合は歳が離れすぎているという違いはあるにしても。
「あの子の気持ちは私も何となく感じてはいた。でも、別に何か告白されたとかはなかったの。最後まであの子の中に気持ちはとどまっていたと思う」
「先生はそれに対してどう思ったんですか」
「私は……基本的に翔太さんのことは生徒としてしか見られなかったわ。生徒といっても、演奏に関してこちらが教えられることはほとんどなかったけれど。あの子もそれは理解していたと思う」
 それはそうだ。大人の女性にとって、高校生の男の子など本気で恋愛をする対象とはなりえないだろう。
「それでね、瑞希ちゃん、翔太さんに関してはもう一つ事情があるの。それもあって、あの子は思いを打ち明けられなかったんだと思う。そして悩んでいた」
「そうなんですか」
「お兄さまや百合香さんからは聞いていないからしら。翔太さんの父は、私の父でもあるの」
「え?」
 未玲が何を言っているのかを理解するのに時間がかかった。そんなことは聞いていない。つまり、異母姉弟ということなのか。
「北山健吾という人が私の実の父親なの。この前CDを翔太さんのお家で見たでしょ。私の母が、バンドをやっていた父のファンだったのね。母がまだ音大の学生だった頃よ。父も母を好きになって、その結果、私が生まれた。母の両親、つまり祖父母の目には、ロックバンドのメンバーだった父は、性格も自由気ままだし、蔵原家にはふさわしくないって思われたんでしょう。保守的な祖父母や周囲から反対されて、結婚することができずに、別れたの。世間知らずの若い娘の過ちみたいに見られたんでしょうね。妊娠したとき、堕胎するように言われたけれど、母は産むと言って、私を産んでくれたの。
 私が生まれると、祖父母も、結局、それなら仕方がない、とあきらめて、私は祖父母の養子にされて、祖父母の家で育てられた。何となく自分の本当の親は違うかなって感じてたけど、訊く勇気はなかった。もちろん父親の名前は知らされなかったし、母のことも、歳の離れたお姉さんだと、中学校の頃まで思ってたくらいよ。母は結婚することなく、今の私と同じく、音大の教員になり、実家で祖父母と暮らしているわ。そんなこともあって、私は異性のこととか、結婚とかにあまり興味がなくなったのかもしれない」
「……」
 未玲は淡々と続けた。
「高校生のときにいきさつは母が教えてくれた。戸籍もその時に初めて見せてもらった。……まあ、それなりにショックではあったわ。でも、私ももう、その頃は瑞希ちゃんと同じようにピアノに夢中だったし、父のことについて深く知りたいとも思わないまま、去年まできたの」
「北山さんのお父さんが先生のお父さんと同じだって、知っていたんですか」
「山本先生が、私に翔太さんのことを預けるときに、『未玲さんはご存じないと思うけれど、あの子のお父様は、北山健吾っていうのよ。ロックバンドで作曲を手掛けて。だからその血を受け継いでいるのかしら。でも、今は離婚なさっているから、お父様の話題を出すのは少し気を付けた方がいいかも』っておっしゃって、びっくりしたの。……もちろん山本先生には私の父親のことは話していないわ。
 もちろん、翔太さんのお母さんは、知っていらした。ご自分の元夫に子供がいたことは、聞いていたらしい。こんな偶然てあるものなのね、っておっしゃって、でも、多感な年ごろだから、今はまだ翔太には話さないでおいてください、私がそのうち説明しますから、と言うので、私は黙っていたの」
「お母さんは教えたんでしょうか」
「いいえ。コンクールが終わるまでと考えていらしたみたい。だけど、何となく翔太さんの様子から、もう知っているんじゃないかと思ったらしいの。私も同じことを感じた。別の女のひととの間に未玲という娘がいるって、父親が教えたみたい。翔太さんの方は、父親と連絡をとっていたみたいだから」
 自分の好きな先生が、自分の姉だと知って、ショックとともに、がっかりしたのは間違いない。想像の中であっても、未玲と結ばれる可能性はなくなった。あきらめるしかないとしても、秘めた思いを完全に消すのは容易なことではないだろう。その証拠が、あの楽譜に託した思いだ。
 未玲を見ると、彼女は目に涙を浮かべていた。
「あの日、翔太さんから、用件は言わずに、お話したいって電話があったの。もう遅いから明日にしたら?って言ったんだけど、すぐ終わるからって。
 翔太さんは、もう、私のレッスンはやめるってお母さまに言って、あの日、家を出たのよね。どうやって私に話を切り出そうかって考えたんだと思うわ。やめる理由を、どこまで本当のことを言おうかって悩んだのかもしれない。考えに集中しすぎて、赤信号なのに飛び出してしまった……」
「あ、でも、それは先生のせいじゃないです」
 泣き崩れた未玲に瑞希は声をかけた。特別な事情があるにしても、よくある淡い失恋のひとつ。どうしようもないと思う。
「そうかもしれないけど……」
 罪悪感にかられるのはしかたない。だが、それだけだったろうか、と突然、ある思いが瑞希の頭に閃いた。
 それは、未玲は本当に翔太のことを何とも思っていなかったのか、ということだ。翔太の溢れるばかりの才能には、瑞希はもちろん、未玲も半ば圧倒されていたと思う。自分との会話でも、よく翔太の話が出てきた。音楽の話だけでなく、学校の話題から、ちょっとした仕草のかわいらしさまで、ずいぶん距離が近いと感じることはあった。今思うと、それは異母弟に対する親愛の情だったのだと考えられるが、それだけだったのか。
 でも、自分がそんなことを考えても意味がないことだ。
「先生、元気を出してください。翔太さんの代わりはとてもできないけど、私もがんばりますから」
「ありがとう……」
 瑞希はそっと未玲を見守り続けた。落ち着いたのを見届けてから、瑞希は問いかけた。
「カナダに行かれたのは、それじゃ、お父さんに会いたいって思ったんですね」
 未玲は顔を上げた。
「そうよ。実は父がどこに住んでいるのかも、生きているのかどうかさえも知らなかったんだもの。一度会いたかったのよ」
 未玲は泣き笑いの表情を見せた。

                   ***

「瑞希ちゃん、誕生日おめでとう」
「ありがとうございます」
 西山家の広いダイニングテーブルには薄いベージュのテーブルクロスが掛けられ、大きな花瓶に大輪の花が飾られていた。
 土曜日の今日は、瑞希の誕生日だ。秋野家、佐倉家、西山家合同で、さらに蔵原先生も呼ばれて、瑞希の誕生祝いの会が開かれていた。
「瑞希ちゃんも十八で、法律上はもう成人なのよね。実感ある?」
 涼子の問いかけに瑞希は首を振った。
「全然。だって社会に出て働いていないし」
「史ちゃんも来月誕生日よね」
「瑞希ちゃんて、私より一か月だけおねえさんなのよね」
 史奈が笑顔を見せながら言った。
「まあね。でも、ふみちゃんの方がずっとおねえさんみたいなんだけど」
「瑞希ちゃんはちょっと子供っぽいからね。史奈さんの方がしっかりしているから」
 母親の淑子が言った。父親の孝太郎が仕事で来れないのはいつものことで、代わりにテーブルに飾られた花束は彼の手配によるものだった。デパートで注文したという、色とりどりのパステルカラーのバラは、これだけのボリュームとなると、かなりの出費だったろう。
 例年誕生祝いは家庭内で済ますのだが、今回は成年になるということで、お祝い好きの四郎がみんなで集まろうと言い出したのだった。来月は史奈のお祝いもすることになっている。
「じゃあ、瑞希ちゃんの成人の門出を祝って乾杯」
 四郎の音頭で乾杯をした。悠太はビールを一口だけ飲んだ。
「お引っ越しは来年なんですか」
 涼子が淑子にたずねた。
「そうですね。今設計してもらっている最中で、来年の三月に完成予定ですね」
「楽しみですね」
「ええ。でもいいんですか、瑞希がずっとお邪魔しちゃってて」
 両親は埼玉県に新居の土地を買った。かすみケ丘から三十分ほどかかる。
 当初は瑞希のピアノの練習室を造るつもりで、広めの土地を買ったのだったが、大学卒業まで佐倉家にとどまることが決まって、その先もどうなるかわからないことから、練習室はとりやめになった。
「もちろん、いいんですよ。娘も瑞希ちゃんと一緒にいたいって言うし、やはり音楽環境の面ではこちらにいた方がいいと思うんです。ここなら私の家でも、西山先生の家でも、練習が一日中できますから。大学にも練習室はありますけど、予約がいっぱいのこともあるし、やっぱり長年慣れたところで練習するのが一番ですね」
「でも、百合香さんも帰って来られて、ヴァイオリンに本格的に復帰するから、練習室が必要なんじゃないですか」
 四郎が答えた。
「百合香には、当面は今まで通り、私の姉が使っていた部屋で練習してもらいますから、心配なく。ヴァイオリンはほかの部屋でも練習できますからね」
 百合香も頷いた。
「それだけ瑞希ちゃんには我々も期待しているんですよ。思う存分才能を伸ばして、プロの演奏家になってほしいって」
「じゃあ、お言葉に甘えて、お願いします」 
 実は両親のもとを離れるのは瑞希だけではない。悠太もそうだった。
 悠太の方は、まだ先、来年の春から、西山家に住む予定になっている。
 瑞希と同じく通学の便がいいのと、百合香と四郎の希望によるものだった。
「私も最近は軽井沢で過ごすことが多くなってね。百合香ひとりにするのも心配だから」
 アトリエの絵もすべて引き払って、軽井沢へ移るらしい。アトリエはもうすぐ、百合香の練習室に改造するのだという。
 でもそうなると、この大きな屋敷に百合香ひとりになってしまうので、悠太に同居してもらうというわけだった。もちろん、百合香はいつも悠太にそばにいてほしいと思っている。
 さすがに両親もこちらの方の申し出には抵抗を示した。悠太が、同居であって同棲するわけではない、百合香とは今までどおり、節度と責任をもって交際を続ける、お互いの勉強や練習に支障のないようにする、と説得し、両親も、どこまで悠太の言い分を信じたのかはわからないが、二人とも、もう大人なんだから、と了解した。
 結局、秋野家の新居は、子供の部屋は一応つくるものの、主に夫婦が住むためのこじんまりとしたものとなり、デザインは淑子の趣味が大幅に反映されたものとなるらしい。それでも母親としては、わが子二人ともが自分の手を離れてしまうのが寂しいようだった。
「大丈夫ですよ、お母さま、悠太さんはご実家にもちょくちょく顔を出すでしょう。ね」
「あ、はい」
 悠太は少し慌てて返事をした。
 四郎も淑子に、
「悠太君がいてくれたおかげで、うちの孫娘も将来目指す方向を決めることができたんです。なあ、百合香」
「ええ」
 百合香はそう返事をして、悠太を見つめた。
 悠太が百合香に笑顔で頷くと、百合香も笑顔になって安心したようにテーブルに視線を戻した。
 瑞希はその無言のやりとりを見て、百合香が兄を信頼しきっていることや、兄が百合香を支えているのだと、ほっとした。
 史奈が百合香に言った。
「百合香さん、コンクールの準備はいかがですか」
「まあまあ。まだ始めたばかりだけど」
「百合香さんがヴァイオリンに戻ってきてくれてうれしいわ。これから特訓しないとね。すごい古い言葉よね『特訓』なんて。ふふふ」
「昔の東京オリンピックの頃じゃないか。女子バレーボールか何かの言葉だ。涼子さんが生まれるずっと前だ」
「『ずっと前』でしょうかね。おほほ」
 帰国してから、百合香のヴァイオリンの先生は再び涼子がつとめることになった。百合香の決心を一番喜んだのも、無論、彼女だった。
「ちょうど一年先かね、コンクールは」
「そうです。来年の春からエントリーが始まりますから。予選のビデオ撮影をしなければ」
「課題曲はなんですか」
 瑞希が興味深げに尋ねる。
「ビデオ審査は、パガニーニのカプリースから三曲と、バッハかイザイの無伴奏を一曲。現地の一次予選は、課題曲が何曲かその場で発表されて、そのうちから二曲を選ぶの。二次はピアノ伴奏で五十分以内のプログラムを自分でつくって演奏するのよ。それもパスできたら、最終審査でコンチェルトを一曲」
「初見で弾くのって難しそう。でも、二次とファイナルの曲目はもう決めてるんですか」
「ううん、全部はまだ。シューベルトの幻想曲をメインにしようかなって、今のところは考えているの。コンチェルトはシベリウスか、バルトークの二番のどちらかかな。」
 涼子が隣の席を振り向いて言った。
「それで、一次と二次のピアノの伴奏はミレさんにお願いしたから。ありがとうございます、先生。シューベルトのファンタジーはピアノも結構難しいけど」
 涼子は、ビデオ審査はパスする前提で、すでにいろいろ手配をしているようだった。百合香の気持ちが再び変わらないうちにお膳立てを済ませてしまいたいのかもしれない。
「どういたしまして。よろこんで。シューベルトはもう楽譜を買って見てますよ。でも、ステージで私のほうが緊張しちゃいそう」
 未玲が微笑んだ。
「ミレさんは恥ずかしがり屋だから。でも、そこはファイトね」
「初見の曲の方が心配だわ」
「初見の伴奏は、そんなに難しくないでしょうから、大丈夫ですよ。ミレ先生が一緒にいってくれれば安心です」
 百合香が言った。
 伴奏者は主催者の方でも用意してくれるが、自分で連れてきてもよいらしい。気心の知れた伴奏者がいた方が、人見知りな百合香にはありがたいに違いない。
「もちろん、私も応援に行きますよ。来月から、私の使っているヴァイオリンをお貸しするから。もしよければ、だけど。多分、広いホールでの響きはいいはず」
「ありがとうございます。ということは、グアルネリを使えることになったんですか」
「ええ、そうなの」
 涼子は嬉しそうに答えた。
 来年四月から霞ヶ丘の教授になるという約束で、大学の所有する十八世紀イタリアの名器、グアルネリ・デル・ジェスを貸与されることになったという。それまでは涼子の師匠の演奏家が使っていたのだが、引退を機に返却され、代わりに涼子が貸与先に選ばれた。そこで、それまで使っていた自分のヴァイオリンを百合香に貸してくれるというわけだった。
「瑞希ちゃんとお兄さまも、ぜひご一緒に行っていただきたいわ。悠太さんは何といっても百合香さんの心の支えだし、瑞希ちゃんには海外コンクールを見るのも勉強になりますからね。瑞希ちゃんも、大学入ったらコンクール受けるんでしょ」
「そうですね。やっぱり全日コンかなあ。海外はちょっと」
「そんなことないわよ。もちろん、これからの頑張りしだいだけど、海外の方が聴衆もフレンドリーで雰囲気いい場合が多いし、知らない人ばかりでかえって演奏しやすいんじゃないかしら」
 涼子が微笑んで言った。
「そうでしょうか」
「そのときは私も一緒について行ってあげるわ」
 史奈が言った。
「そうね、史ちゃんが助けてあげればいいのよ。ほかにもお友達を連れて行って応援してあげなさい」
「大勢来たらかえって緊張しちゃいそう」
 一同笑って、誕生会の時間は過ぎて行った。
 最後に、恒例に従って、音楽室へ移動した。
「今日は私のために集まってお祝いをしていただいて、ありがとうございました。みなさんの期待に応えられるように、これからも一生懸命努力していきたいと思います。応援よろしくお願いします」
 あらかじめ覚えてきたセリフを述べたあと、
「最近までメインで練習していた曲がやっと仕上がったので、発表したいと思います。シューベルトのピアノソナタイ長調です」
 ぺコンとお辞儀をして、座った。しばらく目を閉じて息を整えてから弾き始めた。

 演奏を終えて、拍手にお辞儀をしながら、瑞希は、達成感をおぼえていた。
「瑞希ちゃん、ステキな演奏だったわ。結構感情の起伏が激しい曲だけど、説得力があった」
 百合香が褒めてくれた。
「ありがとうございます」
 瑞希は思い切って言った。
「百合香さん、来年のコンクールが終わったら、また一緒にアンサンブルをやりませんか」
「ええ。喜んで」
 百合香も頷いた。
「じゃあ、約束ですよ」
 涼子が、未玲を見て言った。
「それと、去年全日コンで優勝したチェロの岩代翠さんなら、ミレ先生のお友達でしょう。お話すれば参加してくれるんじゃないかしら」
 未玲は頷いた。
「そうね、ピアノトリオもいいわね。瑞希ちゃん」
「はい。トリオも弾きたい曲たくさんあります。シューベルトはもちろんだし、ブラームスも好きです」
 涼子が小さく手を挙げた。
「あと、ヴィオラの牧原章子さんも入れれば四重奏もできるし、私が第二ヴァイオリンやれば五重奏になる」
「わあ、すごい。豪華メンバー」
「瑞希ちゃんと百合香さんがプロになったら、ソロだけじゃなくて、いろいろできそうだわ。楽しみね」
 百合香は微笑んで、換気しましょう、と言って音楽室の窓を開けた。
 庭の片隅に植わっているキンモクセイの香りがたちまち室内を満たした。
「わあ、いい匂い」
 窓辺で柔らかな秋の日差しを浴び、瑞希は満ち足りた気分で、十八の誕生祝いを終えた。

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